覲子内親王
| 覲子内親王 | |
|---|---|
| 続柄 | 後白河天皇第六皇女 |
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| 全名 | 覲子(きんし) |
| 称号 | 宣陽門院 |
| 身位 | 内親王、准三后 |
| 出生 |
養和元年10月5日(1181年11月13日) |
| 死去 |
建長4年6月8日(1252年7月15日)(享年72) |
| 父親 | 後白河天皇 |
| 母親 | 高階栄子 |
覲子内親王(きんしないしんのう、養和元年10月5日(1181年11月13日)- 建長4年6月8日(1252年7月15日))は、平安時代後期の皇族、女院。後白河天皇の第六皇女で、女院号は宣陽門院(せんようもんいん)。母親は高階栄子(丹後局)。
生涯
文治5年(1189年)、僅か9歳で内親王宣下を受けると同時に准三后とされ、建久2年(1191年)6月26日、11歳で院号宣下を受けて宣陽門院となった[1]。九条兼実は『玉葉』同日条に「非后位非母儀蒙院号之例、今度始也、然而時義之所推、不及是非者歟」と記し、覲子が皇后・中宮の位に就いたことも、天皇の准母となったこともないまま院号を受けるのは初例であるとしながら、時宜によるものとして是非を論ずるには及ばないのだろうと述べた[1]。
同日に行われた院号定には17名の公卿が出席した。『院号定部類記』所収の「家記」では提案内容が判明する15名のうち14名、「山丞記」では16名のうち15名が宣陽門院を候補に挙げた。複数の候補を示した者もいたが、宣陽門院を候補に含めなかったのは藤原定能のみで、定能は宜秋門院を提案した[2]。藤原兼光は、宣陽門が宮内門であっても建春門院という近例があるとして採用を支持し、大炊御門頼実と三条実房も、宣陽門が内裏の内郭に位置することは採用の妨げにならないとした[2]。
一方、院使として訪れた日野資実から宣陽門院を推す意見が多いことを聞いた九条兼実は、宣陽門を先例のない内裏の「中門」とみなし、その採用に反対して、宮城門の安嘉門と内裏外郭門の宜秋門を候補に挙げた[1]。門名を女院号に用いるなら宮城門を選び、内裏門を用いる場合も外郭門に限るべきだという立場であり[3]、文治3年(1187年)の殷富門院の院号定でも同様に宣陽門に反対していた。しかし、この時も出席者12名のうち少なくとも10名が宣陽門院を候補に挙げ、兼実が推した殷富門院を挙げた者は6名であった[2]。長田郁子は、こうした門の序列に基づく見解は、少なくとも院号定に出席した公卿の多数には共有されていなかったと指摘している[4]。
建久3年(1192年)1月、父・後白河院から長講堂およびその附属領(長講堂領)をはじめとする広大な所領を譲渡された(後白河院は同年3月に崩御)。建久6年(1195年)に上洛した源頼朝・北条政子夫妻から拝謁を求められるなど、権勢を誇った。元久2年(1205年)に出家、法名を性円智と称する。
建暦元年(1211年)に八条院が崩御し、承久の乱で後鳥羽天皇の皇統が鎌倉幕府によって否認されたため、覲子が皇族の中で最も発言力がある存在となった[5][注釈 1]。
後鳥羽天皇の皇子・雅成親王を養子とし、また、関白近衛家実の娘・近衛長子(鷹司院)を養女とし、後堀河天皇のもとへ入内させた[注釈 2]。
承久の乱に関わりが無かったために長講堂領などは安堵された(鎌倉幕府に一時没収されたという説は近年否定された[7])が、養女・長子を入内させて将来は彼女が生むであろう皇位継承者に長講堂領を譲ろうとしたが後堀河天皇の早世で失敗に終わった。更に存命中の後堀河天皇との約束で後を継いだ四条天皇を自身の猶子とし、更に長子を天皇の准母にすることにも成功したが、四条天皇も程なく崩御した[8]。
その後、長講堂領を宗尊親王に継承させたい後嵯峨上皇と死後の自分及び亡き父院に対する将来の追善を期待して皇位継承者への譲渡に拘った覲子との間で意見の食い違いがあったが、最終的には建長3年(1251年)に上西門院領を除いて後深草天皇に譲渡された(上西門院領は長子に譲渡された)[9]。
建長4年(1252年)、伏見殿において72歳で没した。
主な女房
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 長田 2023, p. 22.
- 1 2 3 長田 2023, p. 23.
- ↑ 長田 2023, pp. 22–23.
- ↑ 長田 2023, pp. 23–24.
- 1 2 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年) ISBN 978-4-653-04715-5 P87-89.
- ↑ 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年) ISBN 978-4-653-04715-5 P85.
- ↑ 高橋一樹「六条殿長講堂の機能と荘園群編成」高橋昌明 編『院政期の内裏・大内裏と院御所』(文理閣、2006年)
- ↑ 白根陽子『女院領の中世的展開』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-800-1 P69-71.
- ↑ 白根陽子『女院領の中世的展開』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-800-1 P75-77・118-120.
参考文献
- 長田郁子「宣陽門院の院号をめぐる議論について―「院号定部類記」を中心に―」『東京大学史料編纂所研究紀要』第33号、東京大学史料編纂所、2023年、20-32頁。