酒井友之

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酒井 友之
名前
愛称 トモ、トモちゃん
カタカナ サカイ トモユキ
ラテン文字 SAKAI Tomoyuki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1979-06-29) 1979年6月29日(45歳)
出身地 埼玉県三郷市
身長 170cm
体重 67kg
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
ユース
1995-1997 日本の旗 ジェフユナイテッド市原
クラブ1
年 クラブ 出場 (得点)
1997-2000 日本の旗 ジェフユナイテッド市原 92 (3)
2001-2003 日本の旗 名古屋グランパスエイト 71 (5)
2004-2007 日本の旗 浦和レッズ 40 (3)
2007-2008 日本の旗 ヴィッセル神戸 10 (0)
2009 日本の旗 藤枝MYFC 8 (3)
2010-2011 インドネシアの旗 ペリタ・ジャヤ 11 (1)
2011 インドネシアの旗 ペルセワ・ワメナ 12 (0)
2011-2012 インドネシアの旗 ペリシラム・ラージャ・アンパット 33 (2)
2013 インドネシアの旗 デルトラス・シドアルジョ 0 (0)
通算 277 (17)
代表歴2
1995  日本U-17 3 (0)
1999  日本U-20 7 (0)
2000  日本U-23 4 (0)
2000[1] 日本の旗 日本 1 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
2. 2000年12月20日現在。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj

酒井 友之(さかい ともゆき、1979年6月29日 - )は、埼玉県三郷市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(ボランチ、右サイドハーフ)。元日本代表。

来歴

埼玉県三郷市で生まれ、小学2年生のときに東京都練馬区に転居[2]。小学1年生のときにサッカーを始め[2]、中学年代からはジェフユナイテッド市原のアカデミーに所属[3]。1997年5月3日のJリーグ第6節清水エスパルス戦にてJリーグ初出場[2]、同年5月7日のサンフレッチェ広島戦で初ゴールを記録[2]。同年は高校生ながら18試合に出場して2ゴールの成績を残す[4]。

2000年まで在籍した市原では毎年のように残留争いに巻き込まれ、より上位のチームでプレーしたいという希望から2001年に名古屋グランパスエイトに移籍[3][5]。3シーズン在籍し、山口素弘の後釜としてボランチを務めたほか、サイドなど複数のポジションをこなす[4][3]。コンスタントに出場を重ねていたが、2003年途中に監督に就任したネルシーニョの下では出場機会を失う[3]。

2004年、オファーを受けた浦和レッドダイヤモンズへと移籍[4]。浦和では同じポジションに、のちに日本代表でも中心選手となる長谷部誠や鈴木啓太がいたこともあり決して出番は多くなかったものの、彼らの欠場に得た出場機会でしっかりと仕事をするため、首脳陣やチームメイトの信頼は厚かった。中でも2004年11月6日に行われたJ1セカンドステージ第12節、対清水エスパルス戦の68分に挙げた同点ゴールは今でもサポーターの中で語り草になっている。その3日前に行われたナビスコカップ決勝でFC東京にPK戦の末に敗れ、この試合も前半に先制点を許し重苦しいムードが漂う中、酒井が左足を一閃したミドルシュートは相手DFに当たりゴールへ吸い込まれ、ムードが一変する。これで勢いに乗った浦和は84分に田中マルクス闘莉王が逆転ゴールを決めて勝利し、ステージ優勝に向けて貴重な勝ち点3を得る事となった。

2007年7月に出場機会を求めヴィッセル神戸へ完全移籍[6][4]。1年目は10試合に出場したが、2008年は以前から痛めていた腰の状態が悪化し、公式戦出場なし[4]。戦力外通告を受け同年限りで神戸を退団[4][3][7]。

以降は手術をした腰のリハビリとトレーニングをしながら所属クラブを探した[3]。監督の斉藤俊秀から直接オファーを受け、2009年8月から4ヶ月間の契約期間で静岡県社会人リーグ1部に所属する藤枝MYFCに加入[4]。藤枝との契約満了後、セルビアのクラブ、湘南ベルマーレ、愛媛FC、ベトナムのクラブの練習に参加したがいずれも契約には至らず[4]。2010年8月、インドネシアで実施された外国人選手を対象としたトライアウトに「インドネシアで決まらなかったら引退する覚悟」で参加[4]。

2010年9月にインドネシア・スーパーリーグのペリタ・ジャヤ(英語版)に1年の契約期間で加入[4]。9月25日の開幕戦では1ゴール2アシストの活躍で勝利に貢献した[4]。2011年2月、チームの成績が低迷するなかクラブは酒井を含む4人の外国人選手を戦力外とした[8][4]。翌3月からは同じくペリタ・ジャヤを戦力外となった柴小屋雄一とともに同リーグのペルセワ・ワメナ(英語版)に移籍[4][9]。シーズン終了の6月までプレーした[10]

2011-12シーズンもインドネシアでのプレーを望み8月から現地で所属チーム探しを続け、リーグ開幕直前の2011年11月にインドネシア・スーパーリーグのペリシラム・ラージャ・アンパット(英語版)と契約[4][10]。主にボランチをこなし、リーグ戦の34試合すべてに出場した[10]。

2013年から、2部リーグのデルトラス・シドアルジョ(英語版)に入団したが、前半戦終了時の4月に退団した[11][12]。

同年8月より現役引退し、古巣浦和のハートフルクラブのコーチに就任[13][14]。

代表

U-16、17日本代表では、1994年U-16アジアユース選手権に優勝、1995年U-17世界選手権に出場。

U-19、20日本代表では、1998年アジアユース選手権に準優勝、1999年U-20ワールドユース選手権に準優勝。アジアユース選手権ではボランチとして出場していたが[3]、1999年U-20ワールドユース選手権では、右ウイングバックと当初目されていた市川大祐が大会を欠場したため、フィリップ・トルシエによって酒井が同ポジションにコンバートされ全試合に出場した[3][4]。

U-20代表と同じくトルシエが監督を務めるU-22、23代表(オリンピック代表)でも引き続き右ウイングバックとして起用される。2000年、シドニーオリンピックにレギュラーとして4試合すべてに出場。決勝トーナメントに進出。しかし、一回戦の対アメリカ戦で2-1とリードしていた試合終了直前に痛恨のPKを献上してしまう[3][15]。これを決められ、最終的にPK戦の末、敗れた。

2000年12月20日の韓国戦にて途中出場ながらA代表デビューを果たす[16]。

エピソード

  • 浦和時代はアレックスと共にいじられキャラとしてチームメイトに愛されていた。レッズフェスタでのトークショーで「(癒し効果のある)マイナスイオンを発する男」とも言われた事がある。ただし、市原ユースの後輩で市原でもチームメイトだった阿部勇樹はユース時代から酒井に対して「怖い先輩」のイメージしかなかったため、阿部が2007年に浦和に移籍して再会した際、あまりの酒井のキャラの変貌ぶりに驚きを隠せなかった。
  • 趣味はサーフィン。友人の永井雄一郎と一緒にサーフィンをする様子がお互いのブログで紹介されている。

所属クラブ

ユース経歴
プロ経歴

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1997市原27J1821020212
199862506110321
1999J12200011231
20002712031322
2001名古屋82536010323
20022916030381
20031713000201
2004浦和71917130292
20051826040282
2006305130111
20070000-00
神戸44100-20120
20081400000000
2009藤枝50静岡県1部83--83
インドネシア リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
2010-11ペリタ・ジャヤ7スーパーリーグ101--101
ペルセワ・ワメナ-120--120
2011-12ペリシラム・ラジャアンパット32232--232
通算日本J1 2131142323227816
日本静岡県1部 83-0083
インドネシアスーパーリーグ 453--453
総通算 2661742323233122

その他の公式戦

その他の国際公式戦


代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 1試合 0得点(2000年)[1]
日本代表国際Aマッチ
年出場得点
200010
通算 10

出場

No.開催日開催都市スタジアム対戦相手結果監督大会
1.2000年12月20日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 韓国△1-1フィリップ・トルシエキリンビバレッジ

指導歴

関連項目

脚注

  1. 1 2 “酒井 友之”. サッカー日本代表データベース
  2. 1 2 3 4 “酒井友之選手 獲得のお知らせ”. J’s GOALアーカイブ. Jリーグ (2003年12月23日). 2016年5月28日閲覧。
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 元川悦子『黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年』スキージャーナル、2009年、198-206頁。ISBN 978-4789900737。
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 佐藤俊『越境フットボーラー』角川書店、2014年、117-156頁。ISBN 978-4041100745。
  5. ↑ “21世紀の骨のあるヤツ”. ぴあ. 2016年5月27日閲覧。
  6. ↑ “浦和レッズよりMF酒井友之選手完全移籍加入決定”. J’s GOALアーカイブ. Jリーグ (2007年7月26日). 2016年5月28日閲覧。
  7. ↑ 元日本代表・酒井が神戸戦力外に(サッカー) — スポニチ Sponichi Annex ニュース(ウェイバックマシン、2008年12月1日) - http://www.sponichi.co.jp/soccer/flash/KFullFlash20081128012.html
  8. ↑ “Empat Legiun Asing Pelita Jaya Dicoret”. Goal.com (2011年2月10日). 2016年5月26日閲覧。
  9. ↑ 移籍!|酒井友之オフィシャルブログ
  10. 1 2 3 元川悦子 (2013年1月29日). “酒井友之が現役生活にこだわる理由 求められる東南アジアへの適応力”. スポーツナビ. ヤフー. 2016年5月25日閲覧。
  11. ↑ 現状況。。 - 酒井友之オフィシャルブログ 2013年04月30日
  12. ↑ “Pemecatan Abdoul Hamidou Traore Bukan Yang Terakhir”. Goal.com (2013年4月20日). 2016年5月26日閲覧。
  13. ↑ 07年まで浦和所属の酒井がハートフルクラブコーチ就任 - ゲキサカ 2013年08月01日
  14. ↑ 坂井亮祐 (2013年12月18日). “浦和とアジアで得た経験を生かして 酒井友之(浦和レッズ ハートフルクラブコーチ)”. サッカーキング. フロムワン. 2016年5月26日閲覧。
  15. ↑ “SYDNEY 2000: SOCCER; Trailing Twice, U.S. Beats Japan to Reach Semifinals” (英語). ニューヨーク・タイムズ (2000年9月24日). 2013年8月31日閲覧。
  16. ↑ “代表TIMELINE”. SAMURAI BLUE. 日本サッカー協会. 2016年5月28日閲覧。
  17. 1 2 “スタッフ”. 浦和レッズ育成オフィシャルサイト. 2018年10月17日閲覧。

外部リンク