現存しない施設・史跡
前田御茶屋
長府藩3代藩主の毛利綱元が元禄(1688~1704)年間に関門海峡を見渡すことのできる前田に建てた茶屋。これは「前田御茶屋」または「一茶亭」と呼ばれる。
豊後塚
長府にあったといわれる首塚。火の山の東にあったが、火の山砲台建設のために取り壊されてしまった。毛利元就が永禄年間に大友氏と戦ったときに打ち取った首を埋めた首塚である。
下関市立水族館
下関市立水族館のあった場所に残された鯨館。
下関市立水族館は開館当時は東洋一とも言われた水族館で、1956年(昭和31年)11月29日に開館した。1958年(昭和33年)3月13日には鯨館が設置された。1988年(昭和63年)には日本で初めてマゼランペンギンの繁殖に成功し、繁殖賞を獲得した。しかし、平成11年台風第18号により甚大な被害を受け、9月24日には一時的な閉鎖に至った。翌年4月15日には再度開館したものの、同年12月3日には「さよなら水族館記念イベント」と同時に閉業した。これと同時に新たな水族館をあるかぽーと(唐戸付近の埋立地)に建設する計画が進行し、2001年(平成13年)3月27日には竣工に至り、下関市立しものせき水族館(海響館)として開業した。
外浦遊園地・長府楽園地・長府遊園地
外浦遊園地は1925年(大正14年)6月1日に山陽電気軌道株式会社により外浦に建てられた遊園地である。この遊園地には花壇や猿を展示した小さい動物園があり長府楽園地が開園するまで運営されていた。
1929年(昭和4年)4月5日に長府野球場ができた後、その隣に長府楽園地が1932年(昭和7年)4月1日に開園した。鳥居前通り付近の埋立地(現在の神戸製鋼長府工場の場所)にサンデン交通の前身である山陽電気軌道株式会社が設立したもので遊園地のほか、映画館、展望台、テニスコートなどを兼ね備えた複合娯楽施設であった。1938年(昭和13年)8月20日に長府野球場と長府楽園地はともに廃業した。この土地は1938年(昭和13年)11月には神戸製鋼所に土地が売却され、1939年(昭和14年)7月1日には跡地が神戸製鋼長府工場となった。
その後、しばらく山陽電気軌道は遊園地の事業に取り組んでいなかったが1957年(昭和32年)3月21日に黒門に長府遊園地を開園した。1959年(昭和34年)には隣接して山電パークが開設したが翌年には閉業した。跡地は運転教室特殊学校になり、1962年(昭和37年)12月に山陽自動車学校となった。
前田発電所
前田にあった発電所で1921年(大正10年)7月15日に東邦電力(当時九州電灯鉄道)のもと建てられた。1933年(昭和8年)5月に東邦電力から県に移った。1939年(昭和14年)4月1日には電力管理法により県から日本発送電に移った。1951年(昭和26年)には日本発送電の解体により中国電力に所有が移った。その後、1960年(昭和35年)に廃止された。
豊浦信用金庫
豊浦信用金庫はかつてあった信用金庫。1911年(明治44年)7月3日に長府信用組合として発足し、1950年(昭和25年)4月1日には豊浦信用組合に改名。また、1951年(昭和26年)10月には豊浦信用金庫に改名した。2004年(平成16年)7月には西中国信用金庫に併合された[698]。
石碑
この石碑の節では石碑が多く、画像も多くなってしまうため画像の節に移動させた。
記念碑と発祥地碑
軍令部總長伏見宮博恭王殿下飛行御上陸記念碑[位置 98] - 画像
下関駅方面の「市立美術館前」バス停のすぐ近くにある石碑で1934年(昭和9年)3月14日に軍令部総長の伏見宮博恭王が呉から飛行機で上陸してきたのを記念として建てた石碑である。碑文は当時の山口県知事菊山嘉男が書いたもので、題字は海軍大臣大角岑生が書いた。伏見宮博恭王殿下上陸記念会には菊山嘉男はもちろん松井信助、林平四郎、貝島太市、白石直介らも参加していた。
維新発祥之地の記念碑[位置 99] - 画像
長府中浜町にある石碑で、長府で功山寺挙兵が発端となり明治維新へと進んだことから、下関長府ライオンズクラブが長府を明治維新発祥の地として称え、建てたものである。石碑設立日は1985年(昭和60年)3月17日。題字は元下関市長の泉田芳次、石碑の付近にある碑文は元長府図書館長の中原郁生により書かれた。
高杉晋作回天義挙之所の碑[位置 100] - 画像
功山寺入口左側にある「高杉晋作回天義挙之所」と書かれた石碑。1920年(大正9年)12月24日に設置された。題字は山口県出身の評論家として知られる横山健堂による。回天義挙(功山寺挙兵)に関しては功山寺挙兵の節を参照。
明治天皇長府行在所の碑[位置 101] - 画像
旧長府毛利邸入口左側にある「明治天皇長府行在所」と書かれた石碑。1938年(昭和13年)3月に建てられた。碑文には「史蹟として昭和十一年十一月文部大臣指定」とあるが、戦後、明治天皇聖蹟は史跡指定から解除されたため、現在は史跡に指定されていない。
毛利子邸記念の碑[位置 102] - 画像
碑文の題が「毛利子邸記念」と書かれた石碑で毛利邸建物入口左側にある。撰文は内大臣を務めたことで知られる徳大寺実則で1912年(大正元年)11月に建てられた。
行啓記念碑[位置 103]
前田砲台跡にある行啓記念碑。碑文は正七位勲七等の桂文吾により書かれた。理由は不明だが行啓記念碑の台には前田・高畑地区の荒れた田畑約40町歩を整理した前田耕地整理組合についての碑文が書かれている。
皇太子陛下駐駕之碑[位置 104]
1931年(昭和6年)5月31日に実業家、貝島太市が自分の別荘であったところに建てた石碑。石碑の碑文は貝島太市本人によるもので、題字は伊藤博邦(伊藤博文の養子)が書いた。貝島太市の別荘は1926年(大正15年)5月31日に当時皇太子であった昭和天皇が休憩した場所であり、それを記念してこの石碑を本人が建てたということである。また、その後も貝島太市の別荘には皇室関係者が訪問し、1933年(昭和8年)8月20日に三笠宮崇仁親王(当時澄宮[注 18])、同年9月30日に閑院宮春仁王と妃直子、同年10月12日に竹田宮恒徳王妃光子、1941年(昭和16年)9月23日に梨本宮守正王が訪問している。
鮎川家記念碑
功山寺墓地中央参道にある六角形の塔とその上の三層の石塔からなる記念碑。これは墓ではなく、鮎川家の墓は東京の多磨霊園にある。碑文と逆側には観音立像が置かれてあり、この記念碑と観音立像は鮎川義介により設置されたものである。
正円寺大イチョウの碑[位置 105] - 画像
全部で3つあり、正円寺入口に下関市教育委員会により建てられた「山口県指定天然記念物長府正円寺の大イチョウ」の碑と大イチョウのすぐ真下にある「大銀杏樹 最清浄 鼓石山正円寺」の碑・「天然記念物」の碑がある。この大イチョウの樹齢は1000年以上にもなると言われており、そのため乳柱も伸びている。1969年(昭和44年)2月4日に山口県指定天然記念物に指定された[435]。
天然記念物干珠樹林の碑
満珠島・干珠島のうち一般的には満珠島と呼ばれる方(陸から遠い方)に建てられた「天然記念物干珠樹林」と刻まれた石碑。満珠・干珠島の詳細は島節を参照。
手植の杉の碑[位置 106] - 画像
1868年(明治元年)に乃木希典が父の乃木希次に指示されて植えた杉についての記念碑。かつては2本植えられてあったと言われているが現在は1本しか残っていない。
洗心功徳水の碑[位置 107] - 画像
功山寺本堂前の井戸の隣にある石碑。桂弥一が建てたもので、「洗心功徳水」と書かれてある。なお、この井戸が「洗心功徳水」ということではなく、功山寺山門左側の水路が「洗心功徳水」であり、その付近には「父母滴水」と書かれた石碑がある(画像)。桂弥一自身はこの水について「墓地に来る人が重たそうに水を持ってくるのに感心せず、神戸の湊川神社の神主に井戸を掘っていることについて説明したとき、堤から水を引くことをふと思いついた」と語っている。
七卿遺蹤碑[位置 108] - 画像
功山寺本堂前にある記念碑で、七卿落ちした公卿が一時的に功山寺に滞在していたことについて書かれている。1912年(大正元年)に建てられたもので、題字・碑文はともに毛利元雄が書いた。碑文には七卿とあるものの、実際に功山寺に滞在していたのは三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修の五卿であり、そのころ澤宣嘉は生野の変以来合流しておらず、錦小路頼徳はすでに病死していた。
八幡御旅所の碑[位置 109] - 画像
忌宮神社の御旅所に建てられた石碑。1926年(大正15年)の整備と同時に建設が決まり、1928年(昭和3年)11月に忌宮神社宮司の鳴瀬嘉貞によって建てられた。忌宮神社の御旅所はかつては長門三の宮であったともいわれている。
軍神廣瀬中佐亡友展墓記念碑[位置 110] - 画像
長府野久留米町にある記念碑。軍神とも呼ばれた広瀬武夫が旅順口の戦いで清に行く前に海軍少尉であった福田久槌の墓を訪れたことから福田久槌の遺族らが建てたものである。石碑は1935年(昭和10年)に建てられた。
尊攘堂並に萬骨塔建設由来の碑[位置 111] - 画像
旧長門尊攘堂(元長府博物館)前にある石碑。1933年(昭和8年)10月20日に建てられた。碑文はこの長門尊攘堂を設立した桂弥一によって書かれたものである。
徳永山の碑[位置 112] - 画像
長府安養寺町の長府配水場入口付近に建てられた石碑。のちに長府町長となった徳永安兵衛(1858-1923)が自分の所有していた山を豊浦小学校に寄付したことの記念として長府町長、原田政佳が1916年(大正5年)4月1日に建てたものである。1937年(昭和12年)以来、徳永山(妙見山)の所有権は下関市に移り、長府配水場ができた。
蠶種渡来之地の碑[位置 113] - 画像
長府図書館横にある石碑。題字は大日本蚕糸会会頭の牧野忠篤、碑文は石碑設立当時の山口県知事菊山嘉男により書かれた。長府は195年(仲哀天皇4年)に弓月君の父に当たる功満王により蚕の卵が日本で初めて伝えられた場所であるとされ、募金活動の結果、1933年(昭和8年)に石碑が設立された。
史蹟長門鑄錢所阯の碑[位置 19] - 画像
覚苑寺の階段左にある「史蹟長門鑄錢所阯」と書かれた史跡指定の記念碑。1933年(昭和8年)9月に建てられた。
名誉等を称える石碑
瀧川辨三君彰功碑[位置 114] - 画像
マッチ王とも呼ばれるほど日本のマッチ業界に貢献した瀧川辨三の彰功碑。彼の死の翌年に桂弥一らにより笑山寺境内に設置された。題字は渋沢栄一、碑文は桂弥一によるものである。
長府藩報国隊顕彰之碑[位置 24] - 画像
報国隊の名誉を称える石碑。豊功神社境内にある。報国隊の詳細は近世節の報国隊結成を参照。
福田先生ト家塾櫻柳亭ノ記の碑[位置 115] - 画像
長府図書館横にある石碑。桜柳亭とその創設者、福田扇馬(1846-1892)について称えたもので、1928年(昭和3年)5月に当塾門下生の横畠武二により建てられた。桜柳亭については教育節江戸期の教育節を参照。
原田政佳翁彰功碑[位置 116] - 画像
長府村長、長府町長に就任し長府を発展させた原田政佳(1858-1945)を称える石碑。長府図書館横にあり、原田政佳の顕彰会により建てられた。この顕彰会は会長が元長府博物館館長の椿惣一、副会長が下村治一と原田一二で他の会員に内田重成や元市長福田泰三もいた。
熊野則之君記念之碑[位置 117] - 画像
集童場長、報国隊参謀になり、明治維新に貢献した熊野則之(1846-1868)を称える石碑。長府図書館横にあり、その長さは7mを超える。題字は山縣有朋、碑文は金子豪介(集童場の門下生)により書かれたものである。
杉聴雨先生頌徳碑[位置 118] - 画像
覚苑寺中央にある狩野芳崖先生像後ろにある杉孫七郎の頌徳碑。1915年(大正4年)4月に建てられたもので、撰文は覚苑寺住職の進藤端堂で野村素介により書かれたものである。杉孫七郎(=杉聴雨)と野村素介(=野村素軒)はともに書家であった。
野村素軒先生頌徳碑
覚苑寺梅林にある野村素介の頌徳碑。1915年(大正4年)4月に建てられたもので、撰文も碑文を書いたのも進藤端堂。
田上菊舎文塚[位置 119]・頌徳碑[位置 120] - 画像
徳応寺にある石碑。徳応寺の門に入る前にも「女流歌人一字庵菊舎の墓と句碑」と書かれた石碑[位置 121](画像)がある。
田上菊舎文塚はその名の通り田上菊舎の文塚で菊舎の「雲となる花の父母なり春の雨」という俳句が書かれている。裏に書かれた詩文は清の費晴湖によるもので、菊舎の父母からの手紙が埋められている。
田上菊舎(1753.10/14~1826.8/23)は1780年(安永9年)から尼になり、各地を旅し、翌年には俳号「一字庵」を授かった。墓は本覚寺にもあるが、徳応寺にもあり、徳応寺の方の墓には頌徳碑が設置されており、本覚寺の方の墓には「無量寿の 宝の山や 錦時」と書かれた句碑がある。
航空界洋装界功労者佐村福槌夫妻之碑[位置 122] - 画像
題字のとおり、航空界、洋装界に貢献した佐村福槌及び佐村よね(=南地よね)の名誉を称える石碑。功山寺山門前右側にあり、1953年(昭和28年)4月12日に建てられたもので、撰文は徳富蘇峰。
佐村福槌が飛行士としての試験に合格したのは1908年(明治41年)であり、日本で初めて飛行に成功した徳川好敏よりも2年早く海外で成功し、日本人飛行士の教育を行った。佐村よねは東洋人初の女性飛行士であり、かつロサンゼルスで洋裁について勉強していたため1923年(大正12年)6月1日には阿弥陀寺町に関門高等洋裁学校を開校した。
東皐三輪先生出碑[位置 123] - 画像
日頼寺の墓地にある石碑。敬業館の小田亨叔[393]がこの石碑の撰文をした。三輪とうこう(1725-1795)は下関で私塾を開いた人物で、父は筑前国の医者平井玄琳だが出生前に亡くなっており、養父に下関の富豪、三輪覧克がいる。
手づくり郷土賞の碑[位置 124] - 画像
長府を流れる壇具川が建設省(現在は国土交通省に合併)の手づくり郷土賞を1988年(昭和63年)10月25日に受賞した記念に建てられた。市は受賞後30万円で壇具川周辺の整備を行った。
死没地・墓など
仲哀天皇御殯斂地の碑[位置 125] - 画像
仲哀天皇の遺体が一時的にここで安置されたことに因む石碑。日頼寺境内にある他、日頼寺入口には「仲哀天皇御殯斂地入口」の碑[位置 126]もある。その経緯については先史時代節の仲哀天皇節を参照。
海軍大佐正六位勲五等服部潜藏之墓
日頼寺墓地から少し出た山道にある墓。碑文の通り海軍大佐正六位勲五等の服部潜蔵の墓である。墓地ではなく山道の途中にあるのは本人の海の見える場所がいいという遺志によるもので、長府金屋町の大乗寺には服部家の墓がある。
海軍大佐服部君墓誌銘碑[位置 127] - 画像
功山寺境内の総門と山門の間の道の途中にある服部潜蔵の墓誌銘碑。1888年(明治21年)年に建てられた。題字は海軍軍人の川村純義、文は書家の金井之恭により書かれて、碑文の撰文は海軍軍人の伊東祐麿によって行われた。服部潜蔵の墓については先述のとおりである。
河崎董之墓
正円寺にある長府藩士[731]、河崎董(1823-1871[731])の墓。1924年(大正13年)2月11日に建てられた。
清水先生之墓
法華寺にある、豊浦藩で活躍した清水浅彦(1831.3/24~1886.5/7)の墓。墓誌も見られるが「1887年(明治20年)に建てられたものであるために判読できない」。墓誌を建てたのは彼の元門下生93人で、墓誌には東京師範学校の監事であったなどの彼の経歴が書かれている。
植村精吾の墓誌[位置 128] - 画像
大乗寺にある田上菊舎の研究者である植村精吾(1883-1920)の墓誌。高山樗牛の墓に似せて作ったと言われる独特な墓である。現在は大乗寺境内にあるがかつては功山寺境内にあったものである。墓誌には大きく「吾は努力なり」と書かれている。
中川夫妻の墓誌
法華寺にある中川鯉淵とその妻の墓誌。それぞれ「玄光院俊翁涼斎居士」「観月院湛然妙儀大姉」と書かれている。中川鯉淵は長府藩士で、小田済川、古賀精里、中井竹山、十時梅厓らに学んだ。学者としてだけでなく、絵の才能にもすぐれ、「招魂帖」(ndl も参照)には彼の恩師や友人の絵が書かれている。
狩野晴皐の墓誌
覚苑寺墓地にある狩野芳崖の父、狩野晴皐の墓誌であるが判読不可能。この墓誌の手前には「狩野晴皐墓所」と書かれた石碑もある。
跡を示す石碑
豊浦皇居址の碑[位置 11] - 画像
伝承上では仲哀天皇が建てたとされる「豊浦宮」が忌宮神社境内にあったことを示す石碑。石碑の題字は従三位勲一等の内田重成によるもので1959年(昭和34年)4月に豊浦史跡保存会が建立した。元々は「忌宮公園落成記念碑」と呼ばれる別の石碑があったが金属類回収令で銅製であったために回収され、台座のみが豊浦皇居址の碑に用いられている。豊浦宮の詳細については古代節の仲哀天皇節を参照。
櫛崎城址の碑[位置 23] - 画像
櫛崎城址と刻まれた石碑。豊浦高校グラウンド横道から坂を登って豊功神社に行くまでの道の途中にある。
敬業館及集童場址の碑[位置 129] - 画像
敬業館の跡地に建てられた石碑。
国分寺址の碑[位置 130] 画像
吉岡家長屋のある十字路に設置された「国分寺址」と書かれた石碑。隣には発掘された礎石が置かれている。
土肥次郎實平之城址の碑[位置 22] - 画像
長府侍町一丁目の土肥山団地公園にある石碑で「土肥次郎實平之城址」とのみ書かれている。設立日は1922年(大正11年)3月15日。設立者は桂弥一だがもともとは山中に建てており、現在地へ移ったのは昭和50年代後半である。土肥山城については中世節の土肥山城節を参照。
和同開珎鋳銭場址の碑[位置 21] - 画像
覚苑寺入口左側にある「和同開珎鋳銭場址」と書かれた石碑。石碑に書かれた正二位素介とは4代目下関市長の高洲素介のことで、彼がこの石碑に書いた。
乃木將軍舊邸の碑[位置 131] - 画像
1914年(大正3年)9月13日に乃木記念会により建てられた石碑。乃木旧邸の入口に建てられた。
狩野芳崖邸址の碑[位置 132] - 画像
長府印内町にある狩野芳崖の邸宅があったことを示す石碑。
さか松の碑[位置 29] - 画像
かつてさか松が植えられていたことを示す石碑。忌宮神社境内にある。石碑には「神功皇后御手うゑ さかまつ」と書かれている。さか松については忌宮神社節を参照。
豊浦池舊跡の碑[位置 133] - 画像
豊浦の池があったことを示す石碑。長府古江小路町にある。また、長府惣社町の旧長府毛利邸入口右にもその跡があり、石碑[位置 134]もある(画像)。豊浦の池については地理節池節の豊浦の池節を参照。
集童場々長室の碑[位置 135] - 画像
集童場の場長室を1928年(昭和3年)3月21日に移転されると同時に建てられた石碑。題字は元長府町長の原田政佳が書いたものである。場長室には集童場で活躍した熊野則之、乃木希典、桂弥一、服部潜蔵、滝川弁三、福田扇馬、福原和勝、横畠武二、岡崎章介、原田政佳の写真が並べられている。
女流俳人菊舎尼宅址の碑[位置 136] - 画像
印内町のかつて田上菊舎の家があった場所に建てられた石碑。隣の案内板には菊舎の「山門を 出づれば日本の 茶摘唄」という歌が紹介されている。
案内碑・道標・地方区分の碑
古蹟栞の碑[位置 137] - 画像
長府にあるさまざまな史跡を集めて書いたもので、1919年(大正8年)5月に長府町により忌宮神社宝物館隣に建てられた。書かれている場所は以下の通りである。
- 豊浦宮舊址(=忌宮神社)
- 仲哀天皇御陵殯斂地
- 国府址
- 国分寺址
- 長門城址
- 和同開珎鋳銭址
- 毘沙門堂
- 四王司城址
- 串崎城址(=櫛崎城址)
- 七卿遺蹤地(=功山寺)
- 外艦来寇戦蹟地(=前田の四国連合艦隊が攻めてきた場所)
- 厚東判官の墓(四王司山)
- 大内義長の墓(功山寺墓地)
- 松田サツ邸址
- 永冨独嘯菴邸址
- 田上菊舎邸址
- 田上菊舎の墓
- 狩野芳崖邸址
- 乃木将軍旧邸
逢坂にある道標[位置 138] - 画像
長府中学校入口(長府逢坂町)の道標の石碑。当初は現在の位置よりも少し下の方にあったが、1965年(昭和40年)頃に移された。石碑には「御即位記念」「一ノ宮へ二五丁」と書かれてある。
中土居畔の碑[位置 139] - 画像
中土居畔と書かれただけの石碑で長府中土居の境界を示すために建てられたものである。位置は豊浦小学校の北東にある門の道路をはさんで向かい側にあり、1928年(昭和3年)9月建立である。
古江小路の碑[位置 140] - 画像
古江小路を示す石碑である。住所の区分では長府惣社町と長府古江小路町の境に位置する。
鳥居前通りの碑[位置 141] - 画像
忌宮神社の鳥居前から伸びる鳥居前通りを示す石碑である。住所の区分では長府中浜町と長府土居の内町の境に位置する。
乃木さん通りの碑[位置 142] - 画像
長府商店街の通りにある石碑。石碑にある通りこの通りは乃木さん通りと呼ばれる。
横枕小路の碑[位置 143] - 画像
長府宮の内町にある横枕小路を示す石碑である。乃木希典の旧邸がこの通りにあったことも書かれている。
その他石碑
乃木大将夫妻像の碑[位置 144]
乃木神社50年祭となる1962年(昭和37年)9月3日に大洋漁業(現マルハニチロ)、林兼造船、林兼産業により建てられた。左が乃木希典で右が妻静子。銅像は竹内不忘によるもので、碑文は岸信介により書かれた。
乃木将軍銅像建設記念燈[位置 145] - 画像
覚苑寺入口前方にある灯篭。1932年(昭和7年)9月に建てられたもので、「乃木将軍銅像建設記念燈」と書かれている。
高杉晋作回天義挙銅像解説碑[位置 146] - 画像
功山寺輪蔵横の高杉晋作が乗馬している銅像の隣にある解説碑。長府博物館友の会会長の続渉の500万円の寄付のもと、1972年(昭和47年)12月15日に建てられた。撰文したのも続渉である。銅像の隣にはこの解説碑のほか、「像建設実行委員」の碑があり、95名の名前が書かれている。なお、この銅像は解説碑と同時に建てられたわけではなく、それよりも前にみもすそ川の旅館「みもすそ川別館」にあったものを移したものである。
狩野芳崖先生像の碑[位置 147]
覚苑寺中央左側にある石碑で狩野芳崖先生像とともにある。銅像を製作したのは下関市出身の彫刻家、中村辰治。1923年(大正12年)11月5日に建てられた銅像は金属類回収令により回収され、現在のこの銅像は1979年(昭和54年)11月4日に再建されたものである。
乃木希典銅像及び歌碑[位置 148]
乃木希典の銅像は前述の通り乃木神社にもあるが、覚苑寺の墓地入口にも台座の歌碑とともに設置されている。歌碑に書かれている「武士は 玉も黄金も なにかせむ いのちにかへて 名こそをしけれ」という和歌は乃木希典自身が詠ったものである。現在立っている銅像及びその台座にある歌碑は1958年(昭和33年)11月11日に建てられたものであって、覚苑寺の住職、進藤端堂が1939年(昭和14年)4月に設置した方の銅像・歌碑は金属類回収令により一度回収されてしまった。その後、乃木希典銅像の方は回収されたものの戦後戻ってきたため、それを再建したのが現在のものである。ただし、歌碑の方はもともとあった「大君の 御盾にならん 身にしあれば みがかさらめや 日本こころを」の歌碑が戻ってこなかったため現在の歌碑に変わってしまった。
萬骨塔の碑[位置 149] - 画像
長門尊攘堂隣の万骨塔前にある万骨塔についての解説碑。碑文は桂弥一が書き、1933年(昭和8年)10月に建てられた。
不許葷酒入山門の碑[位置 150] - 画像
功山寺総門前階段右側にある石碑。「くさみのある野菜と酒は修行の邪魔だから門より先には入るな」という意味であり、功山寺以外でも各地の禅宗寺院で見られる[755]。この石碑の裏には「七卿遺蹤地 功山寺」と刻まれている。実際、過去には総門の左側にこちらを表にして建てられていたのだが、そうなると石碑の向きとしては門から葷酒が出ていくような向きであった。それが原因なのかは定かではないが、この石碑は総門の右側に設置され、「不許葷酒入山門」が表向きとなった。
田上菊舎の句碑[位置 151] - 画像
功山寺山門前左側にある。この句碑に書かれている「鐘永る 夜や父母の おもわるる」は菊舎自身が全国行脚の途中、日光で詠んだものである。1973年(昭和48年)11月14日に長府観光協会によって建てられた。
雑賀以空の句碑[位置 152] - 画像
覚苑寺入口前方右にある句碑で「而して 桜は塵と なりにけり」とある。和同吟社という俳句の同人組織により1935年(昭和10年)に建てられた。雑賀以空は医師・俳人であり、都々逸や小唄なども歌っていた。号は「喃亭骨茶」。
生田蝶介の歌碑・面刻碑[位置 153] - 画像
覚苑寺本堂左横にある生田蝶介の歌碑と面刻碑。面刻碑の方は門下生らが生田蝶介が死去する1日前である1976年(昭和51年)5月2日にもとあった歌碑の横に建てたものである。生田蝶介は長府生まれであるうえ、覚苑寺の元住職、進藤端堂の甥であるために覚苑寺に面刻碑が建てられた。なお、ここでは著作権の問題上、歌碑に書かれた歌は掲載しない。
烈女佐津碑[位置 154] - 画像
本覚寺に入った後に左に見える石碑。加賀見山旧錦絵の登場人物、お初のもとになった松田さつについて書かれている。松田さつは1701年(元禄14年)3月3日誕生といわれているが死亡年月日についてはさまざまな説があり定かではない。松田さつの墓はこの本覚寺にもあるが、ここ以外にも3か所あり、島根県浜田市宝福寺、神奈川県平塚市廃・広蔵寺、千葉県多古町妙興寺がその3か所といわれる。
和敬の碑[位置 155] - 画像
功山寺山門前右側にある「和敬」と表に書かれた石碑。1984年(昭和59年)3月31日に建てられた。茶筅塚で、茶道の言葉である和敬清寂に由来する。
天長地久の碑[位置 156] - 画像
長府図書館横にあり、「天長地久」とだけある。詳細不明。
水師営の会見の歌の碑[位置 157] - 画像
かつては文部省唱歌に選ばれていた「水師営の会見」の歌の石碑。碑文上部は楽譜で碑文下部は歌詞が書かれている。作詞は佐佐木信綱で実際に水師営で乃木希典とステッセルの会見を聞いていた。水師営とは旅順北西部にある中国の地名。水師営の会見所には弾丸跡のあるナツメの木があったという話もこの歌に書かれている。
梅井の碑[位置 158] - 画像
乃木希典旧邸にあった「梅井」という井戸が説明された石碑。乃木希典は幼少期に寒い時に梅井の冷水を親にかけられ、自分を鍛えるために自分からも被るようになったという話が残っている。
誰知吾の碑[位置 159] - 画像
元長府博物館講堂前にある五輪塔に似た形をした石碑で「誰知吾」と書かれている。1963年(昭和38年)10月20日に長府博物館30周年の記念として建てられた。この石碑の中には遺品として、長府博物館運営に貢献した椿惣一元館長の万年筆と井上勝一の舞扇が入っている。「誰知吾」とは二人が石碑の名前を決めるときに「名前があると困るがなくても困る」ため「誰か吾を知らん」になったといわれている。
誰知吾の碑の隣にある四角形の石碑は「海石榴館」と書かれており、海石榴館というのは講堂の名前である。