長野助盛

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長野助盛
時代 戦国時代
生誕 1535年?[城井鎮房庶兄説]
または1550年?[長野種信同人説]
死没 1611年?
改名 長野助盛(助守・祐盛か)
別名 三河守(官途名)、三郎左衛門(通称)
戒名 圓相寺殿泰雲慧照大居士[1]
主君 毛利隆元→大友義鎮→毛利輝元→龍造寺隆信→島津義久→小早川隆景
氏族 豊前長野氏[2]
父母

父:長野胤盛[3]
父:城井長房[城井鎮房庶兄説]

父:長野弾正[長野祐盛同人説][注釈 1]
父:秋月文種[長野種信同人説][4]
兄弟

助盛、城井鎮房[城井鎮房庶兄説][注釈 2]、規矩重之[異説][注釈 3]、朝氏、助永[5]

長野筑前守[長野祐盛同人説][注釈 4][注釈 5]、庄野五郎[長野祐盛同人説]、大膳[長野祐盛同人説][注釈 6]

秋月晴種、秋月種実、高橋種冬、原田親種室[長野種信同人説]
妻 秋月文種の娘(秋月種実の妹)[6]
子 長野永盛、田原親貫、長野三郎祐綱[長野祐盛同人説][注釈 7]、為盛[注釈 8]、泰譽春桃[異説][注釈 9]
養子:長野重勝[異説][注釈 10]
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長野 助盛(ながの すけもり)は、戦国時代の武将。長野胤盛の子。豊前国京都郡馬ヶ岳城主。

生涯

豊前国の国人である長野胤盛の子として生まれるが、俗説では筑前国の国人秋月文種の四男・種信[注釈 11][注釈 12])と混同され、弘治3年(1557年)に文種が自害すると、兄の秋月種実とともに再起を図り、行動を共にする。

永禄4年(1561年)、小三岳系長野氏の長野祐盛という人物が大友氏に人質を出しているが、翌永禄5年(1562年)、大友宗麟は、佐田隆居らに命じて城井鎮房、長野祐盛の討伐を命じた。

永禄8年(1565年)に大友勢の田原親宏と田原親賢、佐田隆居の軍に居城小三岳城を攻撃され、降伏した[8]。この際に子の親貫[注釈 13]が田原氏の養子に入った。

永禄11年(1568年)に今度は毛利氏の攻撃を受け、長野三河守助守という人物が等覚寺城に籠城してこれに対抗した。5月3日に大三岳系の長野筑後守(吉辰・江量。助盛の兄か)が宇佐の到津氏の配下の者に殺害された[9]。 8月に別系の長野壱岐守(克盛か)、9月4日に小三岳城の長野兵部大輔(左京・弘勝。助盛の叔父か[10])[11]、翌5日には大三岳城と等覚寺城[12]、11月5日には三岳・小三岳城にいた長野系の長野盛春(石田兵庫頭)・長野義永(堀越弥太郎)、永禄12年(1569年)3月22日に大三岳系の長野義孝・義有・盛長父子三人、長野系の長野義勝など、長野氏の諸城は相次いで落城し一族は戦死または各地に離散し、助盛と父・胤盛は豊後へ落ち延びて大友氏を頼ったとされる。これにより、長野氏の勢力は大きく衰退した[13][14][15]。


天正元年(1573年)頃、大友宗麟は高橋鑑種の要請を受け、永禄11年(1568年)に戦死した長野壱岐守の跡に秋月種実の弟・種信[注釈 11][注釈 12]を入れ、長野三郎左衛門種信(鎮辰・鎮展)を称させたとされる。種信は馬ヶ岳城に在城していたとみられる。 一方、長野壱岐守とは別系統の小三岳系長野三郎左衛門助守(助盛)は、永禄11年の毛利氏の侵攻によって規矩郡から退いていたが、宗麟はこれに松山城を与え、馬ヶ岳城の支城として整備したという。助守は子の永盛を松山城に配置し、その守備に当たらせたとされる[16]。 その後、天正6年(1578年)には、長野三郎左衛門助盛[17]と長野系の長野義俊が馬ヶ岳城に復帰したと伝えられている。

しかし高橋鑑種は大友氏の耳川の戦いに大敗した後に親毛利氏の立場として、天正7年(1579年)正月に毛利氏に反旗を翻して大友氏に寝返った蓑島城の杉重良を攻撃、同年3月4日に重良を討ち取った[18]。 杉重良を攻撃する前に、蓑島城北方の松山城にいる長野助守は高橋鑑種に攻められて同年に毛利氏へ降伏し[19]、杉重良の攻撃に参戦していた[20]。

さらに同年2月、高橋鑑種は大友方の千手鑑元[注釈 14]の守る鬼ヶ城・香春岳城を攻め落し養子・元種を城主として配し[21]、続く馬ヶ岳城の長野重勝を降し、これにより長野助守の所領が半減され、松山城を失う一方で馬ヶ岳城のみを保持することとなったとされるが[注釈 15]、秋月種実の弟・長野種信(鎮辰・鎮展)を入れて小三岳系の長野氏をも継がせる。 松山城については、高橋鑑種(またはその養子・高橋元種)に与えられたとみられる。 同年4月24日に鑑種は小倉城にて病死した。

天正8年(1580年)9月8日、城井鎮房および長野助守らは秋月方として行動し、宇佐郡の赤尾三河入道の屋敷を襲撃したうえ、村中に放火を行い、さらに切寄(光岡城)へ攻め寄せたとされる(佐田文書)[22]。

同じ天正8年(1580年)9月頃、龍造寺隆信の勢力拡大に伴い、隆信は弟の龍造寺信周を軍監として軍を率いさせ、豊前へ派遣した。これに対し、京都郡馬ヶ岳城主・長野種信(鎮辰・鎮展)は高橋元種や城井鎮房以下企救郡(規矩郡)・田河郡・仲津郡など諸郡の将士らとともに一戦もせず降伏した[23]。このため、豊前長野氏はこの時期に毛利氏への従属関係を維持しつつ、同時に龍造寺氏にも属していたものと推測される。

天正9年(1581年)、長野助守は松山城に在城する高橋元種を攻撃した。これは同じく毛利方内部における抗争であったため、毛利輝元は長野と高橋との間に私怨が存在した可能性を疑い、その旨を吉見正頼宛の書状に記している[24]。同年、馬ヶ岳城には長野助守(祐盛)が在城している[25]。

天正12年(1584年)、龍造寺隆信が沖田畷の戦いで戦死した後、島津氏の勢力拡大や秋月種実の仲介を受け、島津氏に従属するようになって、引き続き大友氏と抗戦し、天正14年(1586年)の岩屋城の戦いも島津勢連合軍の一部隊として参戦した[注釈 16]。

同14年豊臣秀吉の九州征伐時には、豊前の諸勢力と共に豊臣氏の軍勢に降伏した[26][27]。翌天正15年(1587年)年に馬ヶ岳城が秀吉の本陣となり[28][29]、助盛または種信(鎮辰・鎮展)は親族の秋月氏、高橋氏と対峙することとなった[30]。

同年、助盛は小早川隆景に属し、上筑後の領地弐百町(一説には五千石[31])を与えられた[32]。

種信(鎮辰・鎮展)は一時筑前国へ移り、小早川隆景に属し、天正16年(1588年)に原田信種・草野鎮永(原田種吉)らとともに肥後国に転封され、加藤清正の家臣として知行五千石[33]を与えられた[34]。その後、朝鮮出兵である文禄・慶長の役の時期には、加藤清正家臣・長野三郎左衛門が隈本に留守居したとする記録[35]と、朝鮮へ従軍したとする記録[注釈 17]の双方が見られる。また、秋月種長の妹婿・長野三郎左衛門鑑良については、種信(鎮辰・鎮展)の子であった可能性が指摘されている[注釈 18][注釈 19]。


以後の長野氏の動向については必ずしも明らかではないが、『博多風土記』には小早川氏家臣として長野三郎左衛門益重の名が見える。この益重については、助盛の養子とされる長野三郎左衛門重勝と同一人物である可能性が考えられるものの、確証はない。

桜田屋の祖先は天正年中豊前国馬ケ獄城(香春城)の城主長野三郎左衛門益重という武将で、予て周防の毛利氏に帰順の志であったが、筑前の領主小早川隆景に帰順して筑前に於いて五千石を賜り、その後小早川秀秋の代となり、備前、備中、美作の領主に国替えの際、秀秋に随従して行ったが、小早川家の断絶に遇って三郎左衛門は、弓矢を捨て筑前の芦屋に来住した。 その子も三郎左衛門を襲名し三代目は太郎左衛門、四代目吉左衛門、五代目彦太夫とそれぞれ名乗ったが、三代目太郎左衛門の時代から農業と商業を始めて、家門が次第に繁栄した。

彦太夫の嗣子藤右衛門の代になって、再び武家を志して江戸に上り、黒田藩の支藩直方藩の桜田屋敷に小士として多年勤仕したが、老齢に達したのでお暇を頂戴して筑前に帰り、直方に居住した。江戸で殿様からお暇を戴く際、殿様から其方国に帰って町人になるなら、由緒を以て『桜田屋』という家号を用いよ、といい渡された。 — 『博多風土記』


なお、『長野氏系図』によれば、助盛とともに馬ヶ岳城に入った義俊は立花宗茂に属したという[36]。一方で、大三岳系の盛義、長野系の義正、および助盛の子・永盛については、いずれも元和元年(1615年)の大坂の陣で戦死したと記されている。このことから、長野氏の一族の一部は豊臣氏に仕えた可能性が指摘される。ただし、その後の動向については不詳である。

脚注

注釈

  1. ↑ 「同一ケ所大谷村右は長野三郎左衛門尉祐盛城主也。祐盛弟を庄野五郎と云ふ。祐盛親を長野彈正、弟を大膳と云ふ。四人一所に居住。黒田如水より攻戰の催有之に附き和談に成る。秀吉公九州御下向の時彈正祐盛父子供奉す。於筑後加藤清正に御頼にて肥後へ參り、大膳庄野五郎並に家老桐山孫兵衛○藤内馬ケ嶽にて死去。」『福岡県郷土叢書』
  2. ↑ 「馬カ岳城主の長野三郎左衛門助盛は宇都宮鎮房の庶兄にあたる事、鎮房の妻が大友義鑑の娘で、世嗣の朝房鶴姫の母にあたること。」『宇都宮落城記 (美夜古郷土叢書 ; 第1輯)』
  3. ↑ 「規矩掃部頭重之は長野三郎左衛門衛助盛の弟にして規矩郡蒲生の城主なり。」『小倉市誌 上編』P.379
  4. ↑ 地名辞書に「一書に云ふ、馬嶽は京都企救二郡の主・長野筑前守在城。大友家より攻め寄せられ、筑後勢力盡きて扱となり、長野は筑前に立退く。其の後、企救郡に立帰り、三ツ岳へ在城なり。弟祐盛に京都押へとして、等覚寺山に住す。又馬が岳へ在城して、京都仲津郡を領したり。秀吉公・九州下向の時、仲津郡今井より馬箇岳へ滞留あり。香春岳を攻めらる。長野氏・此の時退転す」『姓氏家系大辞典 第3巻』P.4241、『大日本地名辞書 上巻 二版』P.1433
  5. ↑ 一説には長野筑後守吉展。『史料通信叢誌 拾四』P.24-25、『企救郡誌』「豊前古城記」P.706
  6. ↑ 「同一ケ所大谷村右は長野三郎左衛門尉祐盛城主也。祐盛弟を庄野五郎と云ふ。祐盛親を長野彈正、弟を大膳と云ふ。四人一所に居住。黒田如水より攻戰の催有之に附き和談に成る。秀吉公九州御下向の時彈正祐盛父子供奉す。於筑後加藤清正に御頼にて肥後へ參り、大膳庄野五郎並に家老桐山孫兵衛○藤内馬ケ嶽にて死去。」『福岡県郷土叢書』
  7. ↑ 『豊津町史 上巻』[人畜改帳にみる社寺]P.945。寺伝によれば、「元徳年中(一三二九―三一)は天台宗、天正年間(一五七三―九二)以後馬ケ岳城主長野三郎左衛門祐盛の次男長野三郎祐綱が出家して吉祥院に入り、後に浄土宗に改む」
  8. ↑ 立野四郎。『企救郡誌』長野家譜・系図P.51
  9. ↑ 『小倉市誌 上編』P.608-609
  10. ↑ 「當時馬ケ嶽の城主長野某(實は城井朝房の庶兄なり。長野三郞左衞門重勝といふ。城井鎭房十七歲の時私生子なるを以て竊に企救郡長野城主某に養子とし、長野姓を冐せしなり)」『名家談叢』 (19)
  11. 1 2
    • 『太宰管内志 中巻』P.111[7]によれば、三郎種信は種実の弟・元種の兄。しかし、元種は実際には秋月種実の次男であり、諸史料においてしばしば種実の弟・種冬と混同されているため、種実の弟として誤記される例が見られる。また、本史料では種冬と元種を別人として明確に記しているものの、他の史料において元種が種実の弟と誤記されたことに引きずられ、元種を種実・種信に続く末弟(五男)として位置付けている例も見られる。
    • 『旧志に拠れる筑前秋月家の研究』(豐前軍記畧)によれば、文種の四男。
    • 『神道大系 神社編 49』、『宗像郡誌 中編』P.532によると、種実以下の三男と記されている。
  12. 1 2 一説は文種の嫡男で種実の兄。
    • 「秋月長門守文種大友ヲ叛キ滅亡ノ後文種ノ三子、鑑種ヲ頼ミ隠レ居ル、嫡子ハ豊前国ノ長野氏ノ養子ト為リ、長野三郎左衛門ト号ス、二男秋月左兵衛督種實九国二嶋隠ナキ知謀ノ勇士ナリ、三男高橋鑑種ノ養子トナリ、旧臣ノ亡散ヲ集テ豊前国小倉ノ城一取籠、高橋九郎冬種ト名乗リ(略)」『宮崎県史 史料編 近世 1』、『かがみ』 (21)
  13. ↑ 中村知裕『戦国九州と秋月種実』)P.121-122、中村氏の指摘によると、「親貫は秋月種実の弟長野助盛の子であるとされているが、これも確証はない。」、P.166に掲載された(秋月氏関係系図『歴史群像』186号(ワン・パブリッシング、2024年)93頁掲載図)によれば、助盛は種実の弟ではなく、種実の妹婿として記載されている。
  14. ↑ 千手美濃守入道宗元、重盛。香春岳・鬼ヶ岳城主。
  15. ↑ 天正7年(1579年)9月28日付の「長野助守覚書」によれば、助守は毛利氏から仲津郡を与えられたことに対する謝意を示すとともに、香春両岳(一岳・二岳)城が大友方によって占領されたこと、ならびに豊前・筑前一帯の情勢を勘案して松山城の修復を延期したことなどを記している。さらに、助守の子・五郎丸の処遇についての配慮を願い出るほか、門司城における人質についても宥恕を求めている。加えて、大友氏から与えられていた京都郡および仲津郡について、毛利氏のもとでの安堵を希望する旨も記されている。『行橋市史』(「長野助守覚書」)P.529
  16. ↑ 『島津国史 5』、『鹿児島県郷土史大系 第7巻 島津中興史. 中・下』、鹿児島短期大学研究紀要 (39)、『島津義弘公記』、『島津中興記』、『大宰府・太宰府天滿宮史料 巻16』などの二次資料では「長野三郎左衛門尉惟冬」と記されている。しかし、『町田氏正統系譜』附(上井覚兼日記天正14年7月17日)P.254の原文には、「豊前人城井弥三郎友綱及び長野三郎左衛門尉」とのみ記されており、「惟冬」の名は確認できない。 このため、二次資料に見える「長野三郎左衛門尉惟冬」の記載については、肥後国人で隈本衆に属した長野惟冬(中村惟冬?)と、豊前の長野三郎左衛門を混同した可能性が指摘されている。
  17. ↑ 『豊臣政権の対外認識と朝鮮侵略』、『佐賀県近世史料 第1編 第1巻』、朝鮮国吉州の守将の一人長野三郎左衛門が隈本留守居となっている「織豊期研究 (5);2003・11」
  18. ↑ 「種実の三弟で秀吉の先遣部隊に服従した長野種信(馬ケ岳城主)は加藤清正に仕えたが、のち日向·財部の秋月氏に吸収された。」『豊前・宇都宮氏 : 黒田藩戦国史』
  19. ↑ 「筑前守種年(種実)に至り、豐臣秀吉に歸順し、日向財部三萬石に封ぜらる、其子長門守種長、關ケ原の役初め西軍に屬し、後東軍に降りて本領を安堵す、財部は卽ち今の高鍋なり。初め種長嗣なし、種年(種実)の弟長野種信の孫釆女(種貞)を養ひて子とす、既にして種春を生む、慶長十八(十九)年六月種長卒。」『宮崎県大観』

出典

  1. ↑ 『小倉市誌 上編』P.610
  2. ↑ 『企救郡誌』長野家譜・系図
  3. ↑ 『姓氏家系大辞典 第4巻』P.4240-4241
  4. ↑ 武家家伝 豊前長野氏
  5. ↑ 武家家伝 豊前長野氏
  6. ↑ 中村知裕『戦国九州と秋月種実』(秋月氏関係系図『歴史群像』186号(ワン・パブリッシング、2024年)93頁掲載図)P.165-167
  7. ↑ 『太宰管内志 中巻』P.111
  8. ↑ 『行橋市史』(長野筑後守の取り扱いについて)P.506
  9. ↑ 『行橋市史』(仁保隆慰、宮尾城から敗走)P.510
  10. ↑ 『姓氏家系大辞典 第4巻』P.4241、『国史叢書』P.230
  11. ↑ 『宗像郡誌 中編』P.500
  12. ↑ 『行橋市史』(長野氏の城)P.509
  13. ↑ 『企救郡誌』長野家譜・系図P.44-51
  14. ↑ 『行橋市史』(毛利方の長野城攻め)P.511
  15. ↑ 『筑後国史 : 原名・筑後将士軍談 上巻』P.247-248
  16. ↑ 『豊前志』 重訂 今村孝次P.121、『京都郡誌』、八木田謙『北九州戦国史余話―毛利元就と門司城』
  17. ↑ 『大日本史料 第12編之21』P.346
  18. ↑ 八木田謙『北九州戦国史余話―毛利元就と門司城』
  19. ↑ 『企救郡(門司・小倉)古城址取調簿 改訂』
  20. ↑ 『行橋市史』(蓑島合戦)P.527
  21. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』P.115-116
  22. ↑ 『行橋市史』(「長野助守覚書」)P.529
  23. ↑ 川副義敦『戦国の肥前と龍造寺隆信』P.283、『鍋島直茂 上の巻』P.124、『北九州振興史』P.78、『豊前志』P.40
  24. ↑ 八木田謙『北九州戦国史余話―毛利元就と門司城』
  25. ↑ 『行橋市史』(秋月種実・高橋元種・長野助守の連合)P.530
  26. ↑ 『行橋市史』(馬ヶ岳城主長野三郎左衛門帰順)P.533
  27. ↑ 『日本戦史 九州役』P.22-23
  28. ↑ 馬ヶ岳城跡(うまがたけ じょう あと)の歴史行橋市 2020年1月16日閲覧
  29. ↑ 『企救郡誌』「豊前古城記」P.706
  30. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』P.294、304
  31. ↑ 『小倉市誌 上編』P.609
  32. ↑ 『企救郡誌』長野家譜・系図P.46、『筑後国史 中巻』P.465
  33. ↑ 『吉備群書集成 第壹輯』P.139、
  34. ↑ 「小早川家文書之一、長野三郞左衛門尉(鎭辰)、原田五郞(信種)、草野中務大輔(鎭永)両三人事、百町事、相渡之、則可令隨逐候也、天正十六八月十二日秀吉朱印」『豊公遺文』P.203、『福岡県農地改革史 上巻』、『黒田家文書 第1巻 /本編』、『萩藩閥閲録 第1巻』
  35. ↑ 『続群書類従 第23輯ノ上 合戦部』P.425、454
  36. ↑ 『企救郡誌』長野家譜・系図P.50