ゆきゆきて、神軍

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ゆきゆきて、神軍
The Emperor's Naked Army Marches On
監督 原一男
製作 小林佐智子
出演者 奥崎謙三
奥崎シズミ
撮影 原一男
編集 鍋島惇
公開 日本の旗 1987年(昭和62年)8月1日
上映時間 122分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
前作 極私的エロス 恋歌1974
次作 全身小説家
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『ゆきゆきて、神軍』(ゆきゆきて、しんぐん)は、原一男が監督を務めた1987年公開の日本映画[1][2][3]。

太平洋戦争の激戦地ニューギニア戦線で生き残り、「神軍平等兵」を称して慰霊と天皇の戦争責任の追及を続けた奥崎謙三の言動を追うドキュメンタリー映画である[1][4][5]。日本国内外で多くの賞を受賞した[6]。

キャッチコピーは「知らぬ存ぜぬは許しません」。

あらすじ

奥崎謙三は第二次大戦中に召集され、日本軍の独立工兵隊第36連隊の一兵士として激戦地ニューギニアへ派遣されていた元日本兵である。ジャングルの極限状態のなかで生き残ったのは、同部隊1,300名のうちわずか100名だった。復員後、奥崎は傷害致死で懲役10年の実刑判決を受けて服役。その後も1969年の一般参賀で、バルコニーに立つ昭和天皇に向かって「ヤマザキ、天皇を撃て」と叫びながらパチンコ玉を発射。懲役1年6ヶ月の実刑判決を受けて再び服役した。中古車販売やバッテリー商を営む彼の店舗のシャッターや街宣車には「田中角栄を殺すために記す」などの過激な文言が並ぶ[3]。

1983年、60代を迎えた奥崎は自らが所属した第36連隊のウェワク残留隊で、終戦後に隊長による部下射殺事件があったことを知り、殺害された2人の兵士の親族とともに、処刑に関与したとされる元隊員たちを訪ねて真相を追い求める。すると、生き残った元兵士たちの口から戦後36年目にしてはじめて、人肉食を含む驚くべき事件の真実と戦争の実態が明かされる。元隊員たちは容易に口を開かず、中には発砲を否定する者もいたが、奥崎は時に暴力をふるいながら証言を引き出し、ある元上官が処刑命令を下したと結論づける。この間、元兵士の親族は途中で同行から降り、以後は関係者が(実際の身分は明かさずに)その代理を務めた。映像として記録されるのはこのシーンまでである。

映画の結末は、奥崎が元上官宅に改造拳銃を持って押しかけ、たまたま応対に出た元上官の息子に向け発砲し、殺人未遂罪などで逮捕されたことが字幕で紹介される。

出演者

  • 奥崎謙三
  • 奥崎シズミ(奥崎の妻、旧姓:石地)
  • 崎本倫子

スタッフ

  • 監督:原一男
  • 企画:今村昌平
  • 製作:小林佐智子
  • 撮影:原一男
  • 録音:栗林豊彦
  • 編集・構成:鍋島惇
  • 演出助手:安岡卓治、大宮浩一
  • 撮影助手:高村俊昭、平沢智
  • 演出協力:徳永靖子、三宅雄之進
  • 選曲:山川繁
  • 効果:伊藤進一
  • ネガ編集:神谷編集室
  • タイトル:日映美術、8 - 8光映、にっかつスタジオセンター、IMAGICA
  • 製作協力:今村プロダクション、残像舎 ほか

製作

企画から撮影まで

本作は奥崎謙三が今村昌平に企画のような話を持ち込んだことに始まる[7]。しかし今村は『女衒』で忙しく、原一男に企画を振った[7]。

1981年12月、原は今村から奥崎の1冊の著書を見せられる。それは、『田中角栄を殺すために記す』というタイトルの自費出版本であった。原は奥崎に直接会いたいというと、今村は「電話をかけておくから、これを渡しなさい」と言いながら、「原一男君を紹介します」と書き添えた自分の名刺を渡した。数日後、原は妻であり、疾風プロダクションプロデューサーの小林佐智子とともに神戸に向かった[8]。

原は1982年に奥崎に初めて会い[9]、そのエネルギーに圧倒され、この人のドキュメンタリーを作ってみたいと考え、製作がスタートした[9]。原は奥崎の著書や資料を読み漁り、それに出て来る関係者に取材した[9]。宮城県、新潟県、広島県など各地で調査で回っていくうち、所属部隊での部下の処刑事件が分かってきた[9]。結果的にこのエピソードが映画のメインになったが、最初の段階ではこのエピソードは本編の3分の1ぐらいの予定だった[9]。途中からこの処刑事件をメインでやろうと決めた。実際の事件は、戦争中の話でもあり、証言も食い違い、真実はヤブの中になるだろうという予感はあったが、元兵士たちの過去の話、奥崎が未来へ向けてどう変わっていくか、自分たちと付き合うことによってどんな生き方に今後なるのか、リアルタイムのエピソードをドキュメンタリーで追う、という大まかなプランを立てた[9]。カメラを回す前に原と奥崎は何度か打ち合わせをした[9]。ドキュメンタリーのため、当然シナリオはないが、これを基にやっていこうというプロットは作成している[9]。

撮影

撮影は1982年初頭から1983年春にかけて行われた。監督の原がカメラも兼ねた[10]。撮影が進んだある日、奥崎が撮影したフィルムと原が編集したフィルムを較べたいと言い出した[9]。生理的に逆なでされた気分になった原は非常に不愉快になり、「奥崎さん、監督をなさりたいなら、自分でスタッフを集めて、どうぞ自由に撮って下さい。僕らは降ります」と言ったら、奥崎が「いえいえ、監督は原さんで結構です」と矛を収めた[9]。また、ある段階から「自分のやっている事、全部撮影して欲しい」と言い出した。16mmは高いので「オレはアンタの単なる随行記録班じゃないんだ、何を取るかはこっちが決めるんだ」と言い返した。最大の危機が、奥崎がどうしてもラッシュを見せろというので仕方なく、当たり障りのないシーンを1時間ぐらい繋いで見せたとき[9]。奥崎がそのラッシュフィルムに感動して「原さんは何てダメな方なんでしょうとか何度も言いましたが、もう二度と映画をやめるなんて口が裂けても言いません」と言った後、「ちょっと相談があるんですが」と言われ、別室で奥崎から「私は古清水さんを殺す決心をしました。是非、原さんにそのシーンを撮って頂きたいんです。これは私から原さんへのプレゼントで(笑)...OKかこの場で返事をして下さい」と言われた[9]。「考える時間を下さい」という余裕もなく、奥崎が恐ろしく体が震えて止まらない[9]。原がパッと浮かんだのは「迫ってくる奥崎の顔をカメラで撮らなくてはいけない」だったが、カメラはレンタルで高く、撮影のない日は返していたため、その日は持って来ていなかった。何とか返事を伸ばせば同じ話をカメラの前でするだろうと「恐いです。撮れる自信はありません」と言ったら、さっきまで「二度と映画をやめるなんて言いません」と言っていたのに奥崎は溜め息をついて「あー、原さんは何てダメな人なんでしょう。もう映画はやめます。今まで撮影したフイルムは燃やして下さい」と言った[9]。これに原は「撮ると言うしかない」と考え、プロデューサーに相談したら「あなたがそのシーンを撮るなら、私はこの映画を降りる。あなたが撮るかどうかを考えていること自体がおぞましい」と反対された。多くの人に相談したら、作家はタブーに踏み込むべき、という人と、その犯行に至ったかを描くのが作家の仕事だという人がいた。その一人で映画公開時には亡くなった浦山桐郎から、「奥崎のオッサンもオモロイけど、のたうち回っているキミたちを見てる方が、よっぽどオモロイで!ドキュメンタリーだから、これからのことは、どうにでも撮れる。問題は過去だ。なぜ普通の庶民が反権力の思想を獲得していったかを描くべきだ」などと助言された[9]。結局、原も結論は出なかったが、映画製作は中止にならなかった[9]。その経緯については不明。田原総一朗には「『ゆきゆきて、神軍』はタブーの世界に一歩踏み込んでいったんじゃないか」と評価してもらったが[9]、原としては「踏み込み得たというものはない」などと話している[9]。

撮影地は兵庫県神戸市の奥崎の自宅兼店舗や、広島県江田島、大竹市など[2]。1983年3月、西ニューギニアで2週間ロケが行われ、クライマックスとして、奥崎が俘虜となった集落を訪れるシーンなどが撮影されたが、帰国当日にインドネシア情報省にフィルムを没収されたため、この「ニューギニア篇」は陽の目を見なかった[2][11]。その後、奥崎が殺人未遂で逮捕、収監され、原は「もうダメだ」と一旦匙を投げたが[2]、「今ある分で何とかしよう」と[2]、1986年に改めて編集作業を行い、作品を完成させた[2]。

処刑事件に関わった人々は撮影当時は一市民として日常に溶け込み、事件自体も時効となっていた[12]。だが突如来訪した奥崎に事件について矢継ぎ早に詰問されて、彼らは動揺して言い分けじみた答弁を繰り返す。戦争という状況下では上官の命令が絶対なためやむを得ない行動でもあったが、多かれ少なかれ処刑という行為に加担してしまったことが、各人のトラウマになっている。奥崎の暴力を躊躇しない詰問ぶりは狂気を含み、これによって導き出せることがあったことも事実で、処刑事件の真相追求を通して戦争の傷跡をあぶり出した[12]。この点も本作が議論を呼ぶ一因となった[12]。

過剰なる演技

奥崎はしばしば原に対し、演出や脚本に対して要求を突きつけ、原との間でもめることが多くあった[2][12]。また、カメラが回っている最中には過剰な演技をすることがあった[12]。奥崎にとっての本作は己の思想や活動を広めるためのいわば、プロモーション映画[12]。ドキュメンタリーというジャンルに反する奥崎の行為に原は異を唱えたが、奥崎は「私は行動者で、原さんは語り部です!語り部は黙って行動者を撮ればいいんですよ! 原さんが私を演出するなんて10年早いんですよ!」などと烈火の如く怒鳴り散らし、結局は原が折れざるを得なかった[12]。結果として、平穏な日常に闖入する過剰さという本作のスタイルは、奥崎謙三の"確信犯"的なパフォーマンスを、原一男がドキュメンタリーとしてカメラの収めるという、屈折した関係性により生まれた[12]。

自宅に独居房

奥崎は自宅の屋上に「独居房」を建設するアイデアを思い付いた。原もまたこのアイデアを気に入り、ラストシーンに使うことも想定した。独居房設計図の作成のために、神戸拘置所に頼み本物の独居房の寸法をはからせてもらう目的で一行は同拘置所へ向かったものの、数人の警備官と押し問答となる。奥崎は警備官らに向かって「何か出来たらやってみろ!人間の面、一人もしとらんじゃないか!天皇裕仁と同じだ、ロボットと同じだ、貴様ら。悔しかったらやってみろ!人間なら腹立ててみろ!」などと叫んだが、その後の奥崎は原に向かい「どうでしたか?私の演技は」と尋ねた後、その日は原らスタッフを自宅に泊めたため、寝不足で相当疲れがたまり、イライラをぶつけるには、彼らはちょうどいい相手ですから、などというのを聞き、原はその場に相応しくない当日の奥崎の警備官に対する発言を思い出し、それが「演技」なのだと初めて知る。その後は、この過剰な「演技」に度々悩ませられる羽目になる[13]。

警視庁覆面パトカー特別出演

奥崎は元軍曹にニューギニア行き同行を依頼するために埼玉県深谷市へ向かうが、都内に入ると警視庁覆面パトカーが尾行した。この際、原は元軍曹の入院する深谷赤十字病院へ着く奥崎の車のカットに覆面パトカーを「特別出演」させることを思いつく。すると奥崎はその意図を素早く察知し、自ら警視庁の覆面パトカーへ近づき、刑事に簡単に了承させた。さらに、それぞれの車の車間距離や速度、赤色灯の点灯などの要求も認められ、一同はドラマのアクションシーンのような興奮状態へ誘われた。これをきっかけとして、スタッフは刑事らと口をきき挨拶を交わすようになる。刑事らは奥崎に、親しみ溢れる対応をしていたが、原はその方が情報を得られやすいと奥崎の性格を知った上でのテクニックなのだろうと感じた[14]。

配給

当初、東映に配給を依頼した[15]。東映も「これは面白い、ウチで上映したい」と乗り気であり、洋画系での公開を考えていたとされるが[15]、東映は当時右寄りの映画が多く[15]、上映したら右翼団体からの妨害が予想され[15]、東映ファンを裏切りたくないと判断し、自社での配給を断念。単館での上映を薦めた[15]。

作品の評価

興行成績

本作は昭和も終わろうとする1987年(昭和62年)の8月から[12]、東京渋谷のユーロスペースで公開された[2][12]。岩波ホールなども上映を検討したものの断念した結果であったが、異色の内容のため興行的な予想はつかなかった[12]。しかし蓋を開けてみると映画館の前に行列ができ[3]、3か月は連日立見[12]、結局ユーロスペース単館で20週連続上映[12]、5400万円ほどの興行収入をあげる大ヒットとなった[16]。要領を得ない回答をする相手には暴力を振るう等、奥崎のあまりにも衝撃的なキャラクターを各方面で議論を巻き起こし[12]、それが口コミとなって多くの観客が劇場に押し寄せた[12]。ドキュメンタリー映画に若年層を動員したのは異例で[12]、バブル期も間近な日本の若い観客たちは、極論を吐き殴りかかる幽霊のような奥崎をゲラゲラ笑ったという[2][12]。原は「奇矯さを認める『昭和』がまだ残っていた。ギリギリのところで奥崎さんはスーパースターになった」と評した[2]。

映画公開中の同年9月18日は奥崎の妻・シズミの一周忌に当たり、ユーロスペースの観客および関係者に、拘留中の奥崎から贈られた虎屋の特製「神軍饅頭」(神と軍の焼印を押した2個入り)が配布された[17][18][16]。

初公開以降、毎年どこかで再上映が行われる定番映画となった[12]。

批評

映画ライター杉田充生は「映画そのものが、ドキュメンタリーであそこまで撮ることは許されるのか、奥崎謙三という強烈な"確信犯"に作り手はどこまで対決できたのか、というスキャンダラスな問題を含む」などと評している[19]。

吉本隆明は「迫力のある映画で、久しぶりに衝撃を与える映画に出遇って、さまざまなことを考えさせられた。奥崎謙三がニューギニアで米軍に包囲されて飢餓状態に陥り、全滅寸前に追い込まれた日本軍のなかで起った兵士銃殺事件に固執し、当事者を追求して真相を告白させようというモチーフは、自分も兵士としてニューギニアにいて、飢餓の淵に追い込まれた体験を持ち、銃殺事件の当事者はかつての自分の上級者だったという因縁によるが、元をただせば無責任の体系の頂点にいる天皇の在り方が、軍隊の惨劇の無責任さまで貫徹しているからで、これを不問に附すことは許せないという考え方による、と映画は伝える(中略)そして奥崎が映画の中で喋言る言葉の端々から推察すると、さまざまな心の抵抗を排除し、克服して銃殺事件の真相をねじ曲げず隠すことなく、自身の行為を告白しえたときには、二人の兵士を殺した罪は『神』(『天』という言葉も出てくる)の前に赦されるという考え方を持っていることがわかる(中略)わたしが今までに観たドキュメンタリー映画やテレビの記録映像でこれだけ踏み込んだカメラアングルを観たのは初めてで、その衝迫力と場面把握の周到さにとても感銘を受けた」などと評している[5]。

内田栄一は「奥崎謙三という名前は、ぼくの中ではもう"レトロ"だった。70年代半ば、超過激に反天皇の言論と行動を展開していた彼のところへ、ぼくはぼくの劇団員ともども、いわば表敬訪問した。むろん神戸のバッテリー屋だった。奥崎さんは、すぐ近くのレストランへぼくたちを連れて行き、たぶん一様にランチを取ってご馳走してくれた。『つぎはわたし、何をしたらいいんでしょうね』というリフレインを差しはさみながら、数時間、そのランチに手をつけないで"独演"した。彼が皇室ポルノビラをばら撒く前だったと思う。ポルノビラを撒いてすぐ、奥崎さんのメモにぼくの名前があったということで、ある日、築地署の刑事が激しくドアを叩いて帰った。気持ちの上でぼくは西の奥崎さんと"共斗"しているつもりになっていたから、神戸に行ってよかったと思った。その奥崎謙三が、原一男の『ゆきゆきて、神軍』で甦った。試写を観終ってから原さんに『奥崎さん、丸くなったなァ』というと『とんでもない』という顔をしていた。奥崎流の"独自の行動"に手こずったのは、むろん画面を見れば分かった。ぼくなど彼の独演のあいだ、『はァ』とか『そうですね』とかの種類の言葉しか使えなかった。とにかく怪物なのだ。対話も自分としかしない人なのだ」などと論じている[20]。

山口猛は「この作品のタイトルの最初にある『企画・今村昌平』では、この作品にも、大なり小なり、彼が関与し、形は原監督の名にしているのではないかという疑問が残る。それでは散々苦労して映画作りをしてきた原監督が、それを受け入れる筈もないし、第一無礼である。今村監督は『女衒』で忙しく原監督を推薦し、奥崎氏と会った結果、映画を作ることになった。今村監督の役割はここまでであり、以降原監督に一切が任せられ、製作資金にしても、相当苦しい算段をしながらやっとのことで出来たものである。当然、横浜映画学校が個人の資格ではともかく、組織的に出資したということもない(中略)戦争責任について奥崎氏以上に考え、即行為に移している日本人はいないであろうが、奥崎氏が日本にいることだけで、それは一つの発見であり、救いであった。奥崎氏の行為は、健忘症の日本人への警鐘であったはずである。その奥崎氏が気〇がい扱いされることが、日本の状況であり、彼自身が抱える悲劇でもあった。多くの日本人は、戦争を単なる災害同様天災と同義に考え、被害者意識のみ多く、忘れることが何よりの解決策であったのである。これは別に戦争時の日本人に限ったことではなく、いわゆる全共闘世代の人々と全く同じであり、こちらは、いくら闘争といったところで、ベトナム戦争とは異なって、死と直結しない遊戯の範疇であったために、いとも簡単に引っ繰り返れば、日本経済侵略の先兵にもなる」などと論じている[7]。

佐藤重臣は「原一男の映画は、ドキュメンタリーとは一線を劃したくなるシネマ・ヴェリテの方法をとっている。奥崎謙三のとてつもない狂気をからめとりながら、即天皇、即国家、即戦争へと縦糸をつなぎとめていゆく作業を可能ならしめたのも彼が始めからシネマ・ヴェリテの作者であったことも味方している。他の映画作家だったら、この題材を映画にする〈方策〉がきっと見つからなかったのではないか。この映画はその方法論を点検すればするほど不思議なほどに幾つかのものが全部、原一男に味方している。『天』が味方している映画と言った方がいいのか、いや、この映画は『天』を描いている映画であり『天』と語り合っている映画なのだ。生き残りの兵隊たちの家を訪れ、奥崎が対峙する時、安遁から突如、叩き起こされた個々の人間の『形相』は、この世でいままで見たことのない『怖れ』の表情を見せる。その表情はやがて共謀して人肉を喰ったことを掘り起こされる『怖れ』であることが分かるのだが、これに対し、呪い/怒り/叫ぶ、奥崎もまた、文字で形容し難い顔をしている。それはあまりの怒りの激しさの為に狂気すらが枯渇した『羅漢』との狭間の顔である。鞭を振るうことすら許された羅漢である」などと論じている[21]。

マイケル・ムーアは「生涯観た映画の中でも最高のドキュメンタリーだ」と評価し[2]、マーティン・スコセッシは「誰もこんな映画を作ったことがなかった。誰もこんな映画を観たことがなかった」と述べている [22][23]。

受賞

1989年の「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋発表)では第40位にランキングされている。

備考

奥崎の自宅のシャッターには、本作で奥崎が名乗った「神軍平等兵」の文字が書かれていた。

公開中の1987年9月4日、広島高等裁判所における奥崎の第二回公判で本作のビデオテープが弁護側の証拠として採用され、法廷内で上映された[25]。このとき初めて作品を鑑賞した奥崎は、原監督に「全く面白くありません」と感想を手紙で述べたという[26]。

殺人未遂罪で起訴された奥崎は、懲役12年の実刑判決を受けて服役した。満期出所後は自らの理想郷「ゴッドワールド」構想をうち立て、1998年(平成10年)にはドキュメンタリー映画『神様の愛い奴』に出演。2005年(平成17年)に亡くなるまでアナーキストとして活動した[1][2][6]。奥崎の死後、自宅は取り壊され2013年(平成25年)時点でコインパーキングになっていたという[2]。

映像ソフト

  • 1987年12月8日、ユーロスペースよりビデオ版が発売。キャッチコピーは「買わぬ借りぬは許しません」
  • 2000年11月24日、パイオニアLDCよりDVD版が発売。
  • 2021年12月3日、初Blu-ray化リリース。デジタルリマスターされている。通常版とBOX版「大神軍BOX」の2種同時発売。原一男監督新録オーディオコメンタリー収録。

関連書籍

脚注

  1. 1 2 3 “『ゆきゆきて、神軍』公式ホームページ”. 『ゆきゆきて、神軍』公式ホームページ. 2020年10月10日閲覧。(Internet Archive)
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 鈴木繁「映画の旅人 広島県江田島市 『平等兵』破天荒な闘い『ゆきゆきて、神軍』(1987年) 地獄語ることが戦友の慰霊 『戦えなかった戦争』の責任を追及する『ゆきゆきて、神軍』」『朝日新聞be on Saturday』朝日新聞社、2013年8月31日、e1-2。オリジナルの2013年10月2日時点におけるアーカイブ。2020年10月10日閲覧。
  3. 1 2 3 神戸金史 (2023年6月7日). “伝説のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』原一男監督に聞く”. RKBオンライン. 2025年2月15日閲覧.
  4. ↑ “思想的な意図はない? 「昭和天皇」モデルのピンク映画 右翼重鎮が苦言 「不敬映画」の主なケース”. デイリー新潮. 新潮社 (2018年3月14日). 2026年3月27日閲覧。
  5. 1 2 吉本隆明「批評特集/ゆきゆきて、神軍とその周辺 『薄力』粉と『強力』映画」『映画芸術』1987年7月 第355号、編集プロダクション映芸、12–16頁。
  6. 1 2 木村元彦 (2021年3月13日). “極限状態のジャングルを生き抜き天皇をパチンコで撃った元日本兵…寡黙な男を駆り立てたもの 「国に借りは作りたくない」奥崎謙三という囚人 #1”. 文春オンライン. 文藝春秋. 2024年11月28日閲覧.
  7. 1 2 3 山口猛「批評特集/ゆきゆきて、神軍とその周辺 奥崎謙三を撮ることは可能か? それに答える成果から」『映画芸術』1987年7月 第355号、編集プロダクション映芸、19–20頁。
  8. ↑ 『製作ノート』 1987, p. 6.
  9. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 『シナリオ』1988年3月号, pp. 16–26.
  10. ↑ 原一男「撮影報告 「ゆきゆきて神軍」」『映画撮影』第97号、日本映画撮影監督協会、1987年7月30日、29-33頁、NDLJP:7954663/16。
  11. ↑ 『製作ノート』 1987, p. [要ページ番号].
  12. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 タダーヲ「色褪せぬ衝撃のドキュメンタリー デジタルリマスター版で初Blu-ray化! 『ゆきゆきて、神軍』」『映画秘宝』2021年10月号、洋泉社、75頁。
  13. ↑ 『製作ノート』 1987, p. 20.
  14. ↑ 『製作ノート』 1987, pp. 20–22.
  15. 1 2 3 4 5 山城 1993, pp. 88–89.
  16. 1 2 全国では最終的に興行収入1億円を超えると推定される。堀越謙三「インディペンデントの栄光・ユーロスペース 5」『ちくま』2014年12月号、26-29頁。
  17. ↑ 松田 & 高橋 1988, カバー折り返し「解説文」.
  18. ↑ 『非国民 奥崎謙三は訴える!!!』(新泉社・1988年) p.221
  19. ↑ 「CINEMA むにゅ MENU 今年(1987年)出版された、映画の本―主なものを拾って」『シティロード』1987年12月号、エコー企画、25頁。
  20. ↑ 内田栄一「批評特集/ゆきゆきて、神軍とその周辺 映画の中で映画した」『映画芸術』1987年7月 第355号、編集プロダクション映芸、16–19頁。
  21. ↑ 佐藤重臣「批評特集/ゆきゆきて、神軍とその周辺 いま なぜ シネマ・ヴェリテが甦える?」『映画芸術』1987年7月 第355号、編集プロダクション映芸、21–22頁。
  22. ↑ 「課外講座のお知らせ」武蔵野美術大学、2014年11月5日。2026年6月11日閲覧。
  23. ↑ 「【上官が部下を食べる究極のパワハラ】戦場での食人事件の真相を追求するドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」」YOSHIDA CRAFT、2018年4月4日。2026年6月11日閲覧。
  24. ↑ “1987年度 日本映画ペンクラブ選定 ベスト5”. 日本映画ペンクラブ. 日本映画ペンクラブ. 2020年10月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月7日閲覧。 “■日本映画部門1位:ゆきゆきて、神軍”
  25. ↑ 松田 & 高橋 1988, pp. 331–339.
  26. ↑ 尾形誠規 編「ゆきゆきて、神軍」『観ずに死ねるか! 傑作ドキュメンタリー88』鉄人社、2013年4月6日、24-27頁。ISBN 978-4-904676-72-1。

参考文献

外部リンク