ジョシュア・ハッサン
| ジョシュア・ハッサン | |
|---|---|
| 初代・第3代 ジブラルタル首相 | |
| 任期 1964年8月11日 – 1969年8月6日 | |
| 君主 | エリザベス2世 |
| 知事 | アルフレッド・ダドリー・ウォード ジェラルド・ラスベリー ヴァリル・ベッグ |
| 前任者 | 新設 |
| 後任者 | ロバート・ペリザ |
| 任期 1972年6月25日 – 1987年12月8日 | |
| 君主 | エリザベス2世 |
| 知事 | ヴァリル・ベッグ ジョン・グランディ ウィリアム・ジャクソン デイヴィッド・ウィリアムズ ピーター・テリー |
| 代理官 | アドルフォ・カネパ |
| 前任者 | ロバート・ペリザ |
| 後任者 | アドルフォ・カネパ |
| 初代 ジブラルタル市長 | |
| 任期 1955年 – 1969年 | |
| 前任者 | 新設 |
| 後任者 | ウィリアム・トンプソン |
| 個人情報 | |
| 生誕 | ジョシュア・アブラハム・ハッサン 1915年8月21日 ジブラルタル |
| 死没 | 1997年7月1日(81歳没) ジブラルタル |
| 政党 | 公民権推進協会 |
| 配偶者 | ダニエラ・サラサール (結婚 1945年、離婚 1969年) マルセル・ベンシモン(結婚 1969年) |
| 子供 | 4女。マーリーン・ハッサン・ナホン、フルール・ハッサン・ナホウム、他二人。 |
| 専業 | 弁護士 |
| この記事は ジブラルタルの政治と政府 に関する記事群の一部である。 |
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ジョシュア・アブラハム・ハッサン( Joshua Abraham Hassan)は、英領ジブラルタルの政治家である。
「サルバドール」(救世主)という愛称で知られ[1]、初代ジブラルタル市長および初代・第3代ジブラルタル自治政府首相を務めた。首相として4期、通算20年以上在任した[2]。 ジブラルタルの公民権運動における中心人物であり、同地域の自治制度の創設に重要な役割を果たした。
幼少期
1915年8月21日、モロッコおよびメノルカ島にルーツを持つセファルディ系ユダヤ人の家庭に生まれた[2]。ミドル・テンプルで弁護士としての教育を受け、1939年にイングランドおよびウェールズの法廷弁護士資格を取得した[2]。 第二次世界大戦が勃発すると、ジブラルタル防衛隊の砲兵として志願した[2]。 民間人の大半が疎開し、わずかな住民だけが残るなかジブラルタルにとどまった。
経歴
ジブラルタル首相
1942年9月、労働組合活動家のアルバート・リッソに率いられた事務職員や労働者を含むジブラルタル住民の一団が、疎開者の帰還とジブラルタル住民の市民権を訴える団体を結成し、ハッサンに参加を求めた。「ジブラルタル協会」と名付けられたこの団体はハッサンの助言を受け、より広範な目標を示す「公民権推進協会」へと名称を変更した。ハッサンはリッソ会長の下で副会長を務めた[3]。 1948年にリッソの後を継いで会長となり[3]、 その後約40年間にわたり公民権推進協会の指導者および同地域の政治における中心人物であり続けた。
1956年9月19日に行われた選挙では、当選した7人のうち4人を公民権推進協会が占めた。当選者はハッサン、アブラハム・セルファティ、アルバート・リッソ、J・E・アルカンタラであった[4]。
首相在任期間は、1964年8月11日から1969年8月6日まで、および1972年6月25日から1987年12月8日までであった。1960年代、ハッサンは国連脱植民地化特別委員会で2度演説し、スペインによるジブラルタル領有権主張に反対するとともに、ジブラルタル住民の圧倒的多数がイギリスへの帰属継続を望んでいると訴えた[2]。 また、第2代シェパード男爵マルコム・シェパードが議長を務めた1968年の憲法会議に参加し、1969年ジブラルタル憲法令の起草に携わった[5]。
ハッサンが選挙で敗北したのは1969年の選挙だけであった。この選挙で公民権推進協会は15議席中7議席で第一党だったが、過半数にあと1議席届かなかった。最大野党対英統合党(5議席)は無所属会派イソラ・グループ(3議席)と連立して8議席を確保、対英統合党党首のロバート・ペリザが首相に就任した。ハッサンは1972年に首相に復帰した。1987年、スペインとイギリスがジブラルタル空港の共同使用に関する協定に署名した後、個人的な理由を挙げ、任期を全うせずに首相を辞任した。後任には当時の副首相アドルフォ・カネパが就いた。しかし、カネパは1988年の選挙でジブラルタル社会労働党のジョー・ボッサノに敗れ、公民権推進協会はその直後に解散した。ボッサノはハッサンをイギリス政府に対して融和的すぎると非難していた[2]。
ジブラルタル市長
1964年に首相職が設置される以前、ハッサンはジブラルタル行政評議会委員(1950年–1964年)、ジブラルタル市長(1945年–1950年、1953年–1969年。1955年までは市長職の名称はジブラルタル市議会議長)、立法評議会主席委員(1950年–1964年)を務めていた。
1963年、エリザベス2世からナイト・バチェラーに叙され、以後「サー」の称号を用いた[2]。 1963年、ハッサンとピーター・イソラがピーター・イソラジョン・マッキントッシュ広場で群衆から歓呼を受けたジブラルタルへの「凱旋帰還」は、アンブローズ・アヴェラーノの絵画に記録されている[6]。
弁護士
ハッサンが設立した法律事務所ハッサンズは、現在ジブラルタル最大の法律事務所となっている。
私生活
1945年、ハッサンはスペイン人のダニエラ・サラサールと結婚し[2][7]、 2人の娘をもうけたが、1969年に離婚した[2]。 同年、モロッコ系ユダヤ人のマルセル・ベンシモンと再婚した[2]。 2人の間には2人の娘が生まれた。
娘に共にジブラルタル創始者で元ジブラルタル議会議員のマーリーン・ハッサン・ナホン、元エルサレム市議会議員で元エルサレム副市長のフルール・ハッサン・ナホウムがいる。
ハッサンは1997年7月1日、81歳で旧セント・バーナード病院において睡眠中に死去した。前日に背中の痛みを訴えて入院していた。ハッサンの死去当時、ジブラルタル首相だったピーター・カルアナは次のように述べた[8]。
"ジブラルタルの人々のアイデンティティを確立・促進し、その権利を守るために、彼ほど大きな貢献をした人物はいない。"
1997年、ジブラルタル切手局はジョシュア・ハッサンを称える記念切手を発行した[9]。
2026年7月、ジブラルタル政府はジブラルタル国際空港をジョシュア・ハッサン・ジブラルタル国際空港に改称した[10]。
注釈
- ↑ Edward G. Archer (2006). Gibraltar, identity and empire. Routledge. p. 80. ISBN 978-0-415-34796-9
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 Nash, Elizabeth (2 July 1997). “Obituary: Sir Joshua Hassan”. The Independent. 2010年8月18日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2009年11月23日閲覧.
- 1 2 コンスタンティン、346頁
- ↑ 「Gibraltar Election」『タイムズ』(ロンドン)、第53643号、1956年9月22日、5頁
- ↑ The Gibraltar Constitution – 1969 Archived 7 June 2011 at the Wayback Machine.
- ↑ 'The Triumphal Welcome' Panorama
- ↑ “Sir Joshua Hassan ex ministro principal de Gibraltar” (スペイン語). エル・パイス. 2 July 1997. 2010年1月21日閲覧.
- ↑ “Sir Joshua Hassan, 81, Fiercely Pro-British Gibraltar Leader”. New York Times. 3 July 1997. 2010年1月21日閲覧.
- ↑ Gibraltar Stamps
- ↑ “Gibraltar renames airport for former Jewish mayor, chief minister Joshua Hassan | The Jerusalem Post” (英語). The Jerusalem Post | JPost.com (2026年7月14日). 2026年7月23日閲覧。
出典
- Stephen Constantine『Community and identity. The making of modern Gibraltar since 1704』Manchester University Press、2009年。ISBN 978-0-7190-8054-8。
外部リンク
| 市政職 | ||
|---|---|---|
| 爵位創設 | ジブラルタル市長 1955年–1969年 |
次代 ウィリアム・トンプソン |
| 公職 | ||
| 爵位創設 | ジブラルタル首相 1964年–1969年 |
次代 ロバート・ペリザ |
| 先代 ロバート・ペリザ |
ジブラルタル首相 1972年–1987年 |
次代 アドルフォ・カネパ |