中松義郎
中松 義郎(ドクター・中松) なかまつ よしろう(ドクター・なかまつ) | |
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| 生誕 |
1928年6月26日(98歳) |
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| 別名 | ドクター・中松 |
| 教育 | 工学士(東京大学)[1] |
| 業績 | |
| 専門分野 | 発明 |
| 受賞歴 | イグノーベル賞(栄養学賞)(2005年) |
中松 義郎(なかまつ よしろう、通称:ドクター・中松[注 1]、英語表記:Dr. NakaMats 1928年〈昭和3年〉6月26日[2])は、東京大学工学部石油工学科卒、発明家、実業家、講演家、政治活動家。元は三井物産系の商社マンで、そのかたわら映画・音響関連の発明品で話題となる。独立後は録音テープや磁気ディスクなどを中心とする輸入販売業を営みながら、発明の事業化を開始。発明家として発明活動や発明団体の運営に携わり、その経験や自身の発明哲学を「創造学」として世界各地で講演する。その後、東京都知事選挙に繰り返し出馬するなどのパフォーマンスで注目を集め、タレントとしてテレビに出演するようになった[3]。「ドクター・中松創研」代表取締役、「国際発明協会」[4]および「世界天才会議」の主宰者[5]。自称「エジソンを超えた発明家」であり、その根拠はエジソンの特許取得件数1,093件に対して、それよりも少ない特許出願件数に、何かしらを含めた発明件数で上回ったことであった。
この記事には中松[注 2]の複数の異なる話[注 3]と、中松の話とは異なる史実、利害関係のない独立した第三者からの情報が多数含まれている。
プロフィール
経歴
東京府(現:東京都渋谷区)出身[6]。父・中松一は横浜正金銀行行員、母・芳野(旧姓:桐村)は京都府天田都立高女(現:京都府立福知山高等学校)を経て[7]、東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)家事科第二部を大正9年に卒業し、石川県立金沢第二高女史(現:石川県立金沢桜丘高等学校)[8]などで教師を5年間勤めた[9]。中松の発明の才を開花させたという母方の父・桐村義英はハワイで大病院を経営して財産を作った[10][11][12]京都府の士族[13]である。学校は、初め「番町小学校」に越境通学した後、東京・原宿の自宅から至近の「青山師範学校附属小学校」(現:東京学芸大学附属世田谷小学校)に4年生から編入した[14]。最初の発明は模型飛行機(木製)をより遠くへ飛ばすための発明だった。
1941年(昭和16年)に「麻布中学校」(5年制の旧制中学校)入学。小学生の頃からの趣味の模型飛行機づくりが高じて、軍隊に行ってからも好きな製図や実験を続けたかったことを理由[15]に、1945年(昭和20年)4月に16歳で「海軍兵学校」(兵77期、機58期。海軍機関学校入学直前の1944年10月に海軍兵学校舞鶴分校として統合)に入学[10]。なお旧制中学校の修業年限は本来5年であるが、戦時中による中等学校令で4年に短縮され、さらに昭和19年2月公布の「国民学校令等戦時特例」[16]第4条に該当する中松は4年で卒業している[17]。中松は一部の著書で「最後の帝国海軍将校生徒」を主張している[18]が、海軍兵学校に入学した1945年(昭和20年)の8月、在校中に終戦を迎え、同年10月に予期せず閉校となったため、中松は実戦部隊に配属されておらず海軍生徒時代はわずか6か月(実質4か月)であった[19][注 4]。復員後は「成城高等学校[20](旧制)理科甲類」に入学、高校生の頃に特許第一号(正確には実用新案)を取得[10]する。1950年(昭和25年)4月に21歳で「東京大学工学部(旧制)石油工学科」に入学[21]、1953年(昭和28年)3月末に24歳で東京大学を工学士として石油工学科を卒業した[22]。東大在校中に「東大発明研究会」を創設して自ら会長に就任、アルバイトを兼ねた学生だけの発明グループとして新聞記事になった[23]。
1953年(昭和28年)4月、中松は24歳で大学を卒業し「日本機械貿易」に就職[24]、日本機械貿易は旧三井物産の財閥解体によって誕生した商社の一つで機械関連の輸入販売を行っていた。卒業一年前、中松が東大在校中にサンフランシスコ平和条約が発効され日本の航空主権が回復したことにより、日本の航空活動(民間航空や学生航空など)が再開されていた。日本機械貿易は1953年(昭和28年)2月に米国ベル・エアクラフトとの契約でへリコプターの輸入販売権および製作権を入手(ただし製造は川崎機械工業株式会社)しており[25]、設立前の日本ヘリコプター輸送(現、全日本空輸・ANA)にヘリの売り込みをしていた会社だった[26]。その日本機械貿易に入社した中松は「航空特機課」に配属[24]され、ヘリコプター部品の営業マンとして働いた。その後、1955年(昭和30年)7月に日本機械貿易は「第一物産」に吸収合併される[27]。第一物産で中松は「機械第二部航空特機課」に配属[28]され、第一物産の原子力事業が軌道に乗りだした1958年(昭和33年)初頭頃に中松はセールスエンジニアとして「業務部原子力室」へ異動となった。この頃に中松は、映写機「ナカマスコープ」やシート型録音機「ナカビゾン」の発明で、第一物産に在籍している発明家として知られるようになる。1959年(昭和34年)2月に第一物産を中心に複数の三井物産系の会社が統合して新たな「三井物産」が誕生、ほぼ時を同じくして中松は三井物産の後援で「ナカマスコープ株式会社」を世田谷区下馬の自宅がある場所に設立(創業は1957年6月26日)し、31歳で三井物産を退職して独立した[29]。
独立後、1959年(昭和34年)8月に、録音テープの輸入販売業で有名な「イ・アイ・イ株式会社」(イ・アイ・インターナショナルの前身)に、郷百合子社長の後継者として顧問名目で入社、年数回のペースで海外で自身の発明品の宣伝を兼ねて営業回りを行った。また「電工開発株式会社」(イ・アイ・イ社の開発事業部から独立)の設立にも携わり、1962年(昭和37年)3月、電工開発をイ・アイ・イ本社が入居する銀座の数寄屋橋ビルに設立[30]、自動販売機の販売を専業とする会社[31]である。1960年(昭和35年)、郷は養子縁組を結んで中松を養子にし、当時の重役の反対を押し切り取締役事業部長に選任、その後中松は副社長となったが一部の社員との亀裂を生み、発明品を売っていこうと中松は提案するも、売るものがないと同意を得られなかった[32][33]。イ・アイ・イ社は1952年(昭和27年)から録音テープの輸入販売を手掛けており、米スリーエム社の日本総代理店としてスコッチテープを主力商品とし、1964年(昭和39年)12月にコンピュータ用と計測用の磁気テープ、1967年(昭和42年)6月に工業用と電気絶縁用の粘着テープの輸入販売を開始した[34]。磁気テープによって国内の大型コンピュータ産業の黎明期に業績を伸ばしたが、磁気テープの輸入自由化と国産化が進んだことで徐々に業績は低迷した[34][35]。1971年(昭和46年)頃に中松はイ・アイ・イ社を退職しているが、中松は「高橋父が僕が留守のうちに社内に裏工作を進め、僕を追い出した」[注 5]と主張している[35]。
1971年(昭和46年)6月、日本で始まった第一次ベンチャーブームの頃に、中松は42歳で自身の会社として新たに「ナコー株式会社」を東京都港区赤坂のランディック第2赤坂ビルに設立[36][37][38]、自身の発明品を事業化するための会社[39]であるが、製造・生産部門を持たない(開発立案と検査・販売部門のみ)ことがポリシーであった[40]。主力はコンピュータ関連製品の輸入販売であり[41]、1977年(昭和52年)時点で米Dysan社の日本総代理店[42]として、磁気ディスクやフロッピーディスク(ディスケット)などを輸入してナコーブランドで販売していた[43]。1979年(昭和54年)に磁気テープリールや磁気ディスクに関する周辺特許・実用新案の使用許諾をIBMに与えたことが、1981年(昭和56年)に公表され話題となる。毎年開催されていたニューヨークの発明展示会に、1982年(昭和57年)から発明品を出展するようになり、自身も発明展示会や発明関係団体の運営に関わり、本の出版や日本を含む世界各地、大学などで自身の発明哲学の講演活動を展開して、国際的な認知度を高めた。1985年(昭和60年)頃より大学生の頃に発明したシート型録音機「ナカビゾン」がフロッピーディスクの発明だったと主張するようになる。1986年(昭和61年)頃に「ドクター中松株式会社」(電子計算機操作員の人材派遣[44])を赤坂ビル内に設立。その後、1989年(平成元年)頃にナコー株式会社から「ドクター中松総合研究所」に改称[45]。本業は「コンピュータ関連製品等ドクター中松発明品 研究開発販売」で、新事業は「頭のよくなる◯◯」であった[46]。
1991年(平成3年)に東京都知事選に62歳で初出馬し、発明品をアピールするなどで注目を集めテレビに出演するようになった。1996年(平成8年)頃、ドクター中松総合研究所から現在の「ドクター・中松創研」へ改称[47]、当初の本社はナコー株式会社と同じく赤坂ビルにあったが、2001年(平成13年)頃から自身のウェブサイト[48]で商品販売を始め、2004年(平成16年)、75歳頃に世田谷区下馬の自宅の住所を本社とし[49]、現在の会社概要では(ナカマスコープ株式会社を創業した)1957年(昭和32年)6月26日に創業したということになっている[50]。2005年(平成17年)に77歳で「34年間にわたり自身のすべての食事を撮影・分析した」としてイグ・ノーベル賞(笑えて考えさせられる研究に贈られる賞)を受賞[51]、以降現在まで、国政選挙や東京都知事選への立候補、発明活動や発明団体の運営、本の出版などを続けている。
学歴
「ドクター・中松」という通称で知られているが、中松が保有するとされる博士号(ドクター)の存在は確認されていない[52][53]。
中松は一部の著書[18]で「最後の東京帝国大学卒業生」であり成績優秀者を集めた第一工学部だったと主張しているが、1947年(昭和22年)9月、中松が入学する前に東京帝国大学から東京大学へ改称済み[54]であり、第一工学部と第ニ工学部は両学部同等[55]とされ、場所の違いであって成績で分けたものではなく、1949年(昭和24年)5月、中松が入学する前に第二工学部の募集も停止済みであり[54]、そもそも石油工学科は第一・第ニ工学部に分かれていない。各大学では4年制の新制大学への移行が始まっていたが、中松が入学・卒業したのは3年制の旧制大学である(最後の東京旧制大学卒業生)。
肩書き
リンカーン記念平和財団総裁、世界宗教連合会総裁、世界宗教法王庁第二代法王、国際学士院大学総長、日本文化振興会第10代会長、現副総裁[56][57]、世界婦人平和促進財団最高顧問、全米がん撲滅協会会長などの肩書きを称している。ただし詳細が不明で第三者情報にて事実確認できていないものが含まれている。
金剛大阿闍梨[否定]
2010年(平成22年)、インド・デリーの寺院でチベット仏教ゲルク派のトップ(教主)である第102代ガンデン・ティパ(第3世セ・リンポチェ)から「金剛大阿闍梨」に認定されたという[58][59]。一方、問い合わせを受けたガンデン・ティパは、中松に金剛大阿闍梨の地位を授けたことはなく、そもそもガンデン座主にそのような権限や風習がない、とその事実を否定した[60]。
人物
努力と粘り強さをモットーとしており、海軍兵学校の入学試験時の身体測定時に、胸囲測定において意地悪な水兵に腹に近い部分を測定され基準以下となり不合格となりそうになるも、試験場でたまたま出会った将校に検査の顛末と自分がいかに勉強と身体鍛錬を重ねたかを訴えた結果、再測定が叶い合格したとの逸話がある[61]。
私生活
| 中松義郎 (ドクター・中松) なかまつ よしろう (ドクター・なかまつ) | |
|---|---|
| 生年月日 | 1928年6月26日(97歳) |
| 出生地 |
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| 出身校 | 東京大学工学部 |
| 前職 | 発明家・実業家 |
| 現職 | 政治活動家 |
| 所属政党 |
(無所属→) (発明政治→) (新自民党→) (無所属→) (自由連合→) (無所属→) (幸福実現党→) (無所属→) (つばさ日本→) 無所属 |
| 配偶者 | 中松滋里 |
| 子女 | 2男1女 |
その他の職歴 | |
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総裁・党首:(大川隆法→) (大川隆法・本地川瑞祥→) (木村智重→) (小林早賢→) (石川悦男→) (立木秀学) (2009年7月29日 - 2010年8月6日) | |
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初代 つばさ日本 最高顧問 代表:小林興起 (2013年 - 2014年) | |
妻・滋里(1966年1月結婚)との間に義樹(2019年12月に長男・義瑛誕生。中松の初孫)、義成(ミュージシャン)、娘の2男1女を授かる。座右の銘は「撰難楽」(“せんなんらく”。愚か者は楽な道を、天才は困難な道を選ぶという意味)。趣味・特技はカメラ、ピアノ、ダンス[62]。 尊敬する人は101歳で死去した母・芳野であり、東京都知事選への出馬を促したのも母だったという[63][64]。

「君が代」をコンピュータで行進曲調にアレンジし、歌詞は原曲の通りに自身で吹き込んだシングルCDを発売したことがある[65]。
闘病
2013年12月に受けた健康診断で前立腺導管がんと診断された[66]。
2014年(平成26年)5月に、全米がん撲滅協会の会長に就任し、がん撲滅の発明をすることを明言していたが、6月に自らも末期がんであることを公表。2015年(平成27年)4月18日にがん撲滅ソング「ガンの顔つき悪くても」(2015年6月24日発売)で歌手デビューを果たす[67]。
2015年に「前立腺癌で余命は平成27年末日までと告知された」と公表[68]。
その後、6年にわたるがん治療を終えた後のPSA検査の結果、完全に治ったと判断できる0.01という数値が出て寛解と診断された[69]。
発明活動
ここでの発明は、中松が発明したと主張しているものであり、特許・実用新案を取得した(取得できた)という意味ではない。特許法第2条第1項[70]における「発明」の定義、「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」の意味ではなく、中松が主張する発明には、特許法の発明に該当しないと明記されている「自然法則自体」「単なる発見であって創作でないもの」「自然法則に反するもの」「自然法則を利用していないもの」「技術的思想でないもの」「発明の課題を解決するための手段は示されているものの、その手段によっては、課題を解決することが明らかに不可能なもの」も含まれている。また中松が特許を取得したと主張しているものの一部は実用新案(高度ではない技術的思想の創作で、物品の形状や構造または組合せ)[71]で、(中松が主張する意味で)発明したのは事実であっても世界初または日本初でないものも含まれている。詳細は各項目を参照すること。
発明品
- 自動重心安定装置(模型飛行機用)
- 1933年(昭和8年)、中松が5歳の時の発明第一号で(木製の)模型飛行機の重心を一定の位置に保てると主張している仕組み。中松は(3歳年上のいとこの影響で)5歳の頃に模型作りを始めた[72]が、2006年頃以降は3歳から模型作りを始めた[73]。中松は「どこから、どう、風がこようと、風鈴本体がどう揺れ動こうと、中の鈴が風鈴に当たる部分は一定している」ことに気づき、「風鈴の鈴」みたいなものを模型飛行機の胴体にくくりつければ、「飛行機がどう揺れようと、鈴の(つまりおもり)部分は、一定のところ保たれている」から模型飛行機の重心の位置を保つことができると主張[74.1]している。また別の著書では「風鈴の錘が揺れ動こうと、風鈴本体は一定の方向を保ちながら錘に当たっている」と主張[75.1]している。なお風鈴とは釣鐘の形をした風鈴本体の中で鈴が紐で吊り下げられており、鈴の下の短冊で風を受け、風鈴本体の中で鈴が前後左右に動き風鈴のあちこちに当たることで音が鳴る仕組みで、風鈴本体も風によって動くこともある。中松はこの発明が「現在、ジェット機でも使われているオートパイロット」だと主張している[76]。
- 引込脚付きの模型飛行機
- 中松が発明したと主張している模型飛行機用の引込脚の仕組み。1958年(昭和33年)の『週刊新潮』では10歳の時の発明と記載されている[10]が、中松は著書で小学2年生(昭和11年から昭和12年、7歳から8歳)の頃に発明したと主張している[74.2]。中松によると、東大航空研究所が開発した主翼の長い「航研機」が満州上空を何時間も飛び続けて滞空時間の世界記録を樹立したことが大ニュースとして報道され、「当時五歳だった私は見よう見まねで一生懸命にこの模型をこしらえた」と主張[74.3]しており、先の発明「初めての発明、自動重心安定装置を付けた飛行機を持つ著者」の写真[74.2]には、特徴的な形の主翼の長い模型飛行機が確認できる。ただし航研機の説明にあるように、航研機が日本上空を飛び続けて世界記録を樹立したのは1938年(昭和13年)5月、中松が小学4年生(9歳)の頃であり、満州上空を飛び続けたのは航研機ではなく、同じ東大航空研究所が1942年(昭和17年)に開発した「A26長距離機」で世界記録を樹立したのは1944年(昭和19年)である。また中松は「当時としては、実際の飛行機だって脚を出したまま飛んでいた」と主張している[74.4]が、航研機は引込脚である。なお、模型飛行機用自動引込脚の作り方は、中松が小学4年生だった1938年(昭和13年)5月の雑誌に掲載されている[77]。
- デルタ翼機・ステルス機・後退翼・ジェットエンジンなど
- 1945年(昭和20年)、模型飛行機づくりに明け暮れた中松は、中学校を4年生で卒業し、16歳で海軍機関学校(正しくは海軍兵学校舞鶴舞鶴分校)に在籍していた4ヶ月に間に、1958年(昭和33年)の『週刊新潮』によると翼が三角の紙飛行機に似た形の戦闘機の図面を引いたとされている[10]。また2007年には海軍機関学校の生徒時代に、デルタ翼機、ステルス機を発明したと主張しており[78.1]、「海軍機関学校でスエプトウイング(後退翼)を発明し、世界初のジェットエンジンの完成に協力しました。」との主張もしている[79]。しかし、これらは中松が海軍機関学校に入校する以前から海外で研究されていたものであり、日本でそれらを研究開発していた人物として知られているのは中松ではない。
- 無燃料暖房装置
- 1947年(昭和22年)、中松の実用新案第一号となった発明で、終戦直後、復員した中松が冬の日に、炭が配給制でコタツにもろくに当たれない中、燃料を使わずに部屋を温めようと考案したものである[10]。中松はこれを中学2年生の時に権利を取得した特許第一号と主張している[74.5]が、出願内容[80][81]から実際には実用新案であり出願時点で高校1年生(19歳)、権利取得は高校3年生の頃である。また燃料を使わないということになっているが、実際にはペダルを踏んでピストンを動かす「足こぎ式」で、複数個のシリンダーにその周りの空気を囲む形で保温装置を組み合わせたものである。空気を圧縮して温度を上げる「断熱圧縮」の原理に基づいており、この原理を応用した着火装置として圧気発火器(ファイヤー・ピストン)が昔から知られていたが、断熱圧縮で生じる高温は一瞬である。中松はこれを「急速断熱圧縮暖房機(エコキュート)の発明」と主張している[78.1]。
- 醤油チュルチュル(台所用品)
- 中松は1942年(昭和17年)の中学生時代に、一升瓶に入った醤油を苦労して醤油差しに移し替える母親を見て「醤油チュルチュル」というサイフォンと呼ばれる器具に手動ポンプを組み合わせた「一升瓶を立てたまま醤油を移せる道具」を考案し、1947年(昭和22年)の高校生時代にこれを「サイフォン」の名で実用新案として出願し、1949年(昭和22年)に登録された[82][81]。ゴム球を使った手動ポンプは1907年(明治40年)に「生花水吸取器」として出願されて既に登録されており[83][81]、金属製の手動ポンプは古くから広く使われていたが、中松の「サイフォン」はサイフォンに相当する硬いプラスチック(セルロイド)製の管に手押しポンプを組み合わせたものである。中松はこれが後の灯油ポンプになったと主張しているが、現在のプラスチック(ポリエチレン)製灯油ポンプとは材質が異なり、「握りポンプではなくバネが仕込まれた手押しポンプである」「管が固く曲げられず、長さ調整のため逆止弁の部分で取り外しが可能となっている」「握りポンプの頭部にサイフォンを停止させるためのネジがない」などの違いがある。なお、現在の灯油ポンプは日本ホースポンプ株式会社を設立した斎藤正保が発明した「ホースポンプ」を金属製ポンプの代わりとして使えるように形を変更した「ベビー型」が直接のルーツである[84]。中松が著書で提示している「醤油チュルチュルの写真」[75.2]に写るものは、実用新案で説明されている通りの構造や形状ではなく、市販のプラスチック製の灯油ポンプである。
- 農薬散布装置「ナカサンダスタ」(ヘリコプター部品)
- 中松が日本機械貿易または第一物産に勤務していた頃に製作した、ヘリに取り付けて空中から農薬を散布する装置である。昭和33年4月の『週刊新潮』によると、事の起こりは昭和29年9月の洞爺丸台風による北海道の風倒木被害で、農薬会社から話が持ち込まれたとなっている[10]が、中松の著書では、当時セスナなどの軽飛行機で行われていた農薬散布をヘリにやらせることができないかと考えて発明を行い、昭和28年に神奈川県藤沢市の藤沢飛行場で実験したとあり話に矛盾がある[74.6]。中松は実験翌日の新聞で「ヘリで農薬散布。新しい試み、大成功」と報じられた[74.7]と主張しているが、新聞社や記事の日付は記載されていない。農林水産航空協会(農林水産業における航空機による薬剤、肥料等の散布等、航空機を利用する事業の発展を図る、農林省の許可を得て発足した団体)の資料[85]によると、日本における農薬の空中散布は、昭和28年7月21日に藤沢飛行場での軽飛行機による散布実験から始まった[85.1]もので、その頃に藤沢飛行場でヘリによる散布実験が行われた記録はなく、日本初のヘリによる空中散布試験は、昭和28年7月24日に石川県小松市で北陸航空輸送と小松農協によって行われたものである[85.2]。また藤沢飛行場に初めてヘリが配置されたのは昭和31年3月19日、朝日ヘリコプター社(現、エアロトヨタ)によるものである[86][87]。厚生労働省によると、日本のヘリによる農薬の空中散布は、1953年(昭和28年)から研究が始まり1961年(昭和36年)頃に実用化に至ったもので[88]、大学の研究チームやヘリコプター会社が主体となって、空中散布の有効性が検証され、効率的な散布のための散布装置の開発やヘリ操縦技術が確立されたものである[89]が、中松の著書では中松が農薬散布装置を発明して、それがすぐに使われるようになり世の中に広まった話となっている。
- 北海道の風倒木被害に関する記録[90]によると、ヘリによる薬剤散布は1955年(昭和30年)と1956年(昭和31年)の2回行われており、初回は日本ヘリコプター輸送(現、全日本空輸)、2回目は日本ヘリコプター輸送と朝日ヘリコプターが散布実験を行っている[90.1]。このときに日本ヘリコプター輸送が使用した農薬散布装置は、一機は共立農機が製作したものであり、残り三機はベル航空純正のものであった[91]。1955年9月の雑誌『航空』[92](特集・空から森林へ薬剤をまく)によると、共立農機は日本ヘリコプター輸送からの依頼で昭和28年に農薬散布装置の開発を開始[92.1]しており、また日本ヘリコプター輸送はエンジンの冷却風を利用した「ベンチュリー効果」で粉剤をほぐす、三角型の「葉山式ヘリコプター粉剤散布機(ダスター)」を昭和31年7月21日に完成させている[93.1]。中松が発明した農薬散布装置は粉を「ラムジェット」で吹き飛ばす仕組み[74.8][注 6]で、その形状[78.2]は、日本初の空中散布試験の農薬散布装置[94]、共立農機[89.1]、葉山式[95]のいずれとも異なる。
- 中松は農薬散布装置付きのヘリを売り出すことで、「農家や農協から注文が殺到し、装置ともども自動的にヘリコプターも売れるようになった」と主張している[96]が、当時の農家や農協では手持ち式の農薬散布機を使用しており、中松によるとヘリの値段は一機2500万円(1981年時点で6億円相当)[75.3]であり、中松が三井物産系商社に在籍していた期間のヘリの登録情報[87]の中に農家や農協の名前はない。また中松は新人一人ひとりに月1機(年間12機)のヘリコプター販売のノルマが課せられた[74.9]と主張しており、中松は農薬散布装置を開発したことで「ひと月一台など苦もないことだ」「私は私のノルマの余りを仲間たちにどんどん回した」と主張している[74.7]が、各年のヘリの登録台数は中松が入社した1953年(昭和28年)の18機を除いて年間12機未満である。中松は1977年の著書で農薬散布装置に「ナカサンダスタ」と名前をつけたと書いており、新聞(新聞社日付などの記載なし)で取り上げられたことで注文の大部分は「ナカサンダスタつきヘリコプターを」と指定してきたと主張している[74.7]。また2007年の著書では「『空中撒布装置──ナカサンダスタ』は、世界初の発明として世界の航空業界で認められている」と主張している[78.3]が、アメリカでは1940年中頃から農薬空中散布が行われており、空中散布装置の特許も1947年に出願され、1952年に権利が取得されている[97]。
- ドクター・中松パター
- ゴルフクラブのパター。一般的なクラブよりグリップが太く短く、普通は右利き用の場合で右手の方がヘッドに近い位置を握るのに対し、両手で同じ位置を握る。
- 原子力除雪装置
- 1982年に特許を出願した、除雪車に搭載された原子炉の炉心に直接雪を送り込み、その熱で雪を溶かして一次冷却水にするというもの。放射性物質に汚染された排水の処理の仕方が明記されていないとの理由から拒絶されている[98]。
- 頭の働きを良くする食品
- 1985年4月に特許を出願した「頭の働きを良くする頭に良いものを入れた事を特徴とする食品」であるが、拒絶査定となっている[99]。先の出典からたどることができる「拒絶平01-020597」(平成1年審判第20597号)の審決によると、中松が頭に良いとしてあげた栄養素を組み合わせた食品はこれまでの刊行物から容易に発明できるものであり、各栄養素の組み合わせを考慮してバランスよく摂取することで健康を良好に保持することは栄養学の常識であると指摘されている。また中松の「頭の働きが良くなる食品成分」と「栄養的に優れた食品成分」は異なるという主張に対して、中松が提示する資料(中松の著書)「ドクター中松の頭をもっと良くなる101の方法」および「ゴロ寝してスーパーマンになる法」を見ても、中松の主張を裏付けるに足る根拠が明らかでなく、頭の働きが良くなる食品成分は栄養的に優れた食品成分の中に包含されると指摘されている。中松は他にも、「目を良くするスナツク等食品」(特願昭63-065750)、「頭脳活動を活性化し、且つ味を改善するふりかけ」(特開平07-227240)、「頭を活性化するキャンディーなど食べ物」(特願2000-213541)、「頭脳活性化長寿食」(特開2007-135448)の特許を出願しているが、いずれも特許として認められていない。
- フライングシューズ(ピョンピョンシューズ)
- 底が板バネになっており、ピョンピョンと高くジャンプできる靴。「翔ッ靴」の名で1989年に出願して日本の特許を取得しているが[100][101]、同種のものは1972年に他者からも出願されている[102]。中松の代名詞的発明であり、テレビ出演時にこれを履いて登場することが多い。このまま旅客機に乗り込もうとして、ピョンピョン跳ねた勢いで天井に頭をぶつけてしまい「頭が悪くなったらどうしてくれる!」と怒鳴ったというエピソードを持つ。
- ラブジェット
- 中松が発明した「セックス方程式」に基づいて開発された性感度が3倍になるとされる香水。男女共用で若返り効果もあるとしている。
- ハイドロジェン・オン・デマンド (HOD)
- 燃料電池用の水素の精製法の一つで、水に水素化ホウ素ナトリウムを混ぜて金属触媒によって水素を取り出す技術。2006年(平成18年)に中松が発明して特許を取得したとされるが、該当する特許は確認できない。この技術自体は以前から各所で研究されており、「HYDROGEN ON DEMAND」という名称もアメリカで2004年に登録されたMillennium Cell, Inc.の商標(登録2900094)。
- この発明に、環境技術に関する映画を企画していた米国の製作会社「ダークホース・エンターテインメント」が注目、中松を主題としたドキュメンタリー映画「マスター・オブ・イノベーション〜ドクター・ナカマツ・ストーリー」の制作を2007年1月に発表した。制作発表ではこれは日本人として史上初の「個人」が扱われるハリウッド映画であり、年内に米国と日本で公開するとしていた[103]が制作されなかった。
- ウデンワ
- 2003年(平成15年)に発明した既存の携帯電話を左手にベルトで固定する道具。
フロッピーディスク
フロッピーディスクは1971年にアラン・シュガートらがIBMで開発した[105]が、中松は1985年頃から[注 7]自分の発明であると主張している[106]。しかしIBMは否定しており、また中松の主張は時期により変遷し、その特許番号も不明で、主張の時期の類似の特許はいずれも音声録音用でフロッピーディスクのようなコンピュータの磁気データ保存用ではない。
中松が1985年(昭和60年)に配付したとされる資料では[107]、1947年(昭和22年)の東大在学中に「シートに面積型に記録する媒体」とその再生を行うドライブの着想を抱き、1948年(昭和23年)に特許を出願し、1950年(昭和25年)に完成させ、1952年(昭和27年)に特許が認められ、その製品化で1956年(昭和31年)に三井物産の株が上がったとしている[108]。また中松は1979年(昭和54年)にパテント契約をIBMと締結したとして、フロッピーディスクは中松の発明によるものだとしている[108]。
実際にはIBMの特許は日米ともに審査を経て認められており[109]、中松が1983年に改良型フロッピーディスクを出願した際にも、審査でIBMの特許が参照されている[110]。中松の主張に対しIBMの担当者は、「IBMはいくつかの特許使用契約を中松から得たことがあるが、それはフロッピーディスクのものではなく、フロッピーディスクはIBMが独自に開発したものである」と述べている[111]。

中松はフロッピーディスクのパテントを主張する一方で具体的な特許番号を明かしていないが、中松の主張にある「1948年(昭和23年)に特許出願して、1952年(昭和27年)に登録されたフロッピー媒体」[108]と時期が重なる特許に「重色レコード」(特公昭27-001322)[112]および「積紙式完全自動連奏蓄音器」(特公昭27-002166)[113]の2つがある。重色レコードは音の波形が段状に記録(印刷)された紙であり、積紙式完全自動連奏蓄音器は重色レコードの波形を光学的に読み取って音を再生するので(オプティカル・サウンド参照)「シートに面積型に記録再生する媒体とドライブ」ではあるが、フロッピーディスクの特許に抵触する様な内容ではない。磁性体に円弧形に音声を記録する、よりフロッピーディスクに近いものは星野愷が開発して「シンクロリーダー」としてキヤノンから1958年に製品化されている。なお重色レコードの特許は料金未納で既に権利が消滅していた事が後日判明している[114]。その後シンクロリーダーの機能を簡略化した「シンクロファクス」をリコーが開発して1959年に製品化し[115]、そのシンクロファクスに類似した「万能シートレコーダー」が「ナカビゾン」の別名で日本コロムビアから1961年に製品化された[116]。ナカビゾンは中松が開発したとされる。
中松の主張は変遷しており、1992年の著書では、中松はナカビゾン等の”フロッピー媒体”に代わってフロッピーディスクそのものを完成させ、コンピュータ用として日本の各社に売り込むも相手にされなかったところを、IBM副社長が権利を求めて来日したという話になっている[117]。2017年現在でも中松のウェブサイトでは「フロッピーディスクの発明者、ドクター・中松」としてサイン入りのフロッピーディスクを販売しているが[118]、このサイトで販売されている「フロッピーディスク」は重色レコードや磁気シートではない、パソコンの5.25インチドライブで扱う本物のフロッピーディスクである。
ドクター・中松エンジン
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ドクター中松ショップ・オンライン |
中松が1991年に完成させたという原動機[119]。同名の燃料電池と区別して「ドクター・中松エンジンII」とも呼ばれる。同年9月に出版された著書では「宇宙エネルギエンジン」とだけ記述されていたが[120]、10月の著書では、原理を明かさないまま「人類の夢であった永久機関」であるとした[121.1]。1992年2月の著書では「宇宙エネルギー」なるものをアンテナで取り込む事によって無接触で回転すると説明されたが、その宇宙エネルギーについての説明では、「原子核と電子の間に存在する『宇宙エネルギー』」[122]、「宇宙にある赤外線、可視光線、紫外線、エックス線、ガンマー線など」[123]と、同じ本の中で記述が異なっている。
本人は、この装置を熱力学第二法則に反さない永久機関であるとしているが[121.2]、外部から何らかのエネルギーを供給されている以上、永久機関の条件を満たしていない。機械的に接触せずに回転するので、摩擦抵抗が無く一度回り出したら永久に回るともしているが[124]、藤倉珊によると、手で光を遮ると回転は止まったという[125]。以後の中松の著書ではあまり取り上げられることもなくなり、取り上げられる際にも「仮想永久エンジン」と書かれるようになった[78.1]。
中松は1983年1月に「光や熱の放射エネルギを直接回転力等にする装置」の名で、同一原理と見られる装置の特許を出願しているが[126]、アメリカでベル研究所が1955年に出願した特許と同じであるとして異議が申し立てられ[127]、1989年に拒絶の審判が下されている[128]。この装置は太陽電池とブラシレスモータの組み合わせであり当然永久機関ではなかったが、「宇宙からの(太陽光という)エネルギーで(発電して)無接触で(ブラシレスモータが)回転する装置」ではあった。
1995年にはこれを応用した太陽光発電装置を「高効率発電装置」の名で再度出願し、請求の範囲を狭めることで特許を取得した。この特許公報では「宇宙エネルギ」という語も説明無しで使われている[129]。1997年の著書では、これと同一と見られるものが、宇宙エネルギから直接交流を発電する「ドクター・中松ジェネレータ」として言及されている[130]。
リボディ理論
中松は食事を二食、一食と減らして自身の体調の変化を観察したところ、一食の時に調子が良かったことから、「リボディ」という健康法を思いついた。その中身とは、一日一食主義をはじめとして、体に良い五十五品目の摂取、ビタミンBやC、D、亜鉛といった栄養素の重要性、調理器具の正しい選択、強い精神の鍛錬、心地よい睡眠などであり、実践すれば144歳まで生きられるとしている[131]。
しかし、自身の86歳の誕生日となった2014年(平成26年)6月26日、彼自身は治療不可能の前立腺がんに侵されており2015年(平成27年)末までの余命と医師から宣告されたことを公表した。彼は会見の場において、今後は残された時間を使って新しい「がん治療ロボット」の開発に取り組むことを宣言した[132]。
その後、宣告されたという余命直前の2015年12月24日、東京都千代田区の外国人特派員協会で記者会見を開き、自身の治療法の発明について「2年間全力で発明し、ギリギリで完成させた」と明かした[133]。
さらに、90歳を越えた2018年9月21日、東京都内で「イグ・ノーベル賞の世界展」オープニングセレモニーに登場し、食事と血液の研究により前立腺導管がんを克服したと明かした[134]。
20歳の頃にセックスをすると頭が悪くなると主張しており、その根拠として回路として脳と性器がつながっており、脳が半熟卵の状態でセックスすると、快感(セックス信号)が脳に伝わりスクランブルエッグになると説明、その理論に薄々気づいていた中松は、自身も24歳[135]までセックスをしなかった[136]。なお生きられる年齢144歳の根拠は初めてセックスした年齢、24×6であるとしている。
商標登録
特許以外にも数多くの流行語の商標登録出願を行い、「元祖平成維新」や「新・民主党」[137]、「知本主義」などの商標出願を行っている。
一方で、中松の商標登録は度々却下ないし取消しの処分を受けることが多い。「がんばれ日本(にっぽん)」はJOCから不使用取消審判が請求され、審決取消訴訟を経て、中松の商標登録取消が確定した[138][139]。
2011年(平成23年)12月16日、中松は「日本維新の会」「東京維新の会」の名称を商標登録するため特許庁に出願した[140]。中松は1989年(平成元年)より著書や講演活動などで「平成維新」の言葉を使用していると主張、同日に「東京都維新の会」[注 8]、「平成維新の会」[注 9]についても出願されているが、こちらは登録が認められている。2010年に「大阪維新の会」を結成しており、2012年9月8日に「日本維新の会」を設立した大阪市長橋下徹らは「日本維新の会」の商標登録を行う予定であり、「粛々と手続きをすすめる」としていた[141]。2012年8月16日に中松の申請は商標法第4条第1項第7号の「公の秩序又は善良の風俗を害するおそれがある商標」として却下され[137][140]、中松側の不服申し立ても2014年2月25日に再び却下された[注 10]。中松側は審決取消訴訟を行ったが、9月17日に知的財産高等裁判所は却下は妥当であるという判決を下した[140]。この間、「元祖 日本維新の会[注 11]」、「本家 日本維新の会[注 12]」、「元祖 維新の会[注 13]」の出願も行っている[140]。「日本維新の会」の商標は2012年11月22日に日本維新の会によって出願、登録され[注 14]、現在は「おおさか維新の会」を前身として結成された日本維新の会が権利を保有している。
また「新・民主党」(登録第2459663号。平成24年9月30日存続期間満了)の商標も登録しており、2008年に民主党が「民主党」の商標登録を行った際には、特許庁は出願を商標法第4条第1項第11号の規定により拒絶するよう求めたが却下された。2012年には「新・民主党」の存続期間が満了したことを受けて再出願を行ったが、これは商標法第4条第1項第6号の「公益に関する団体であって営利を目的としないものを表示する標章であって著名なものと類似の商標」と判断され、却下された。中松側はこれを不当として拒絶査定不服審判を起こしたが、2015年に査定は正当であったとして却下されている[142]。中松は2016年の民主党解党時に、自らが1989年に出願した「新民主党」の商標を提供したいというコメントを発しているが[143]、当時該当する商標を中松が保持していたことは確認されていない[144]。
発明件数
中松によると、これまでの発明件数は3,000件以上であり、トーマス・エジソンの1,093件を上回り世界一だとしている[2]。しかし、エジソンの発明が1,093件というのはアメリカ国内で取得した特許の件数であるが、中松による日本国内での特許取得件数は1991年時点で193件であり、中松の「3000件以上」という数字には特許を取得出来ていないなどの「発明」が多数含まれている[145]。中松がマスコミに登場する際には、しばしば「発明件数」が「特許件数」と誤って紹介されるのみならず[146][147][148]、本人の著書でも、著者紹介で誤って書かれている場合がある[149]。95歳になる2023年までに取得した特許の件数は594件とされ、まだ申請中のものもあるという[150][注 15]。
1980年(昭和55年)から1993年(平成5年)にかけては「発明件数2,360件」と主張していたが、『宝島30』1993年(平成5年)11月号に掲載された記事『「ドクター・中松」という珍発明』(松沢呉一)において発明件数が10年以上も全く変化していないことを指摘[151]されて以降は、「3,000件以上」へと変わった[145]。
なお、特許取得件数のギネス世界記録では工学博士の山崎舜平が2004年に3,245件の特許を取得したとして世界一に認定。2016年には11,353件で再認定されており[152]、中松の「発明件数」をも大きく上回っている。媒体によっては中松もギネス記録保持者として紹介されることがあるが[153][154]、2004年のギネス日本語版には「発明」の項があるものの中松の名は載っておらず、代わりに「もっとも多く特許を取得した人物」としてエジソンが挙げられている[155]。
発明家としての知名度
発明家としてメディアに露出していることで日本での知名度は高く、2006年(平成18年)に日本のインターネット世論調査会社が会員に対して行った調査で、「この人のおかげで今がある」とされる発明家として、6,088票中の129票と、1位のトーマス・エジソンの4%弱ながらも2位となった[156][157]。また別の日本語サイトで2016年に行われた特許数世界一の人物を問うアンケートでは、正解の山崎舜平や元世界一のエジソンを引き離し、13,961票中6,493票を得て1位となった[158]。
政治活動
1990年ごろ、藤村義朗から「君が日本の総理大臣になって日本を良くしてくれ」「立候補しろ」と言われたことが政治活動を始めるきっかけだと語っている[159]。
1991年東京都知事選挙に無所属で立候補、“21世紀の地球都市を発明する”の基本政策を掲げ、自作のジャンピングシューズ(ピョンピョンシューズ又はフライングシューズ)を履いたパフォーマンスを行った[3]。結果はわずか2万7,145票で惨敗ではあったが、一方でバラエティー番組に「奇抜な発明家」として登場する機会も増えた[3]。
翌1992年(平成4年)の参院選には比例区に政党「発明政治」を率いて出馬したが落選した[3]。
また、1995年東京都知事選挙に立候補を表明するも[160]、告示前に断念し[161]、上田哲候補の応援に回っている[162]。
2003年(平成15年)の都知事選では、会見で「ドクター・中松ディフェンス (DND)」という発明品で、「ミサイル攻撃を防止できる装置の発明で、首都を、そして都民をこのミサイル攻撃から救う」「北朝鮮のミサイルをUターンさせられる」などと発表した[3]。
2005年(平成17年)のインタビューで「元来、政治家は国のために働くもの。『国のため』という気概をどの程度が持っているかが重要なポイントだ」と政治家には愛国心が必要であると主張した[163]。
2007年(平成19年)、第21回参議院選挙に立候補した際に発表した「ドクター・中松ドクトリン」には、「私にしか出来ない最先端の発明が日本のためになる」「官僚はよく働く者のみなし数を1/2にする」「現行憲法は存在しない。現行憲法の名称は大日本帝国憲法の昭和二十一年改正であるべきである」等記載されていた。2013年(平成25年)に「真の近現代史観」懸賞論文で佳作を受賞した論文「日本は負けていない」でも同様の主張を行っている[164]。
2011年(平成23年)の都知事選に無所属で出馬した時には記者会見で、当選しない場合はあと10回以上選挙に挑戦し続けると宣言した[165]。また80代の年齢で都知事の激務に耐えられるかを尋ねられ、筋トレで身体を鍛えているため80歳時点で50トンの重り(キログラムの誤記ではない)を持ち上げることができ、体力に問題はないと答えた[166]。
2012年(平成24年)の都知事選では、届け出名をそれまでの「ドクター」から本名に変えたが、これは橋下徹が「『カタカナ名前はふざけている』と言ったらしい」というのが理由であるという[167]。
2013年(平成25年)、第23回参議院選挙を前に小林興起が設立した政治団体つばさ日本の最高顧問に就任し、公認候補として比例区から出馬すると発表[168]。しかしその後つばさ日本が候補者の選定などに難航し、同選挙への候補者擁立見送りを発表する[169]と、無所属で東京都選挙区から立候補すると発表した[170]。届け出名については前回に続き本名の「中松義郎」で届け出るとしており、理由については「偽物の博士が多くなった。一緒にされては困る。」と語った[171]。
2024年(令和6年)の都知事選に立候補[172]し、7月7日の投開票の結果、56人中11位となり落選した[173]。
| 年 | 選挙 | 選挙区 | 政党 | 得票 | 惜敗率 | 順位 | 供託金 | 名義 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1991年 | 東京都知事選 | - | 無所属 | 27,145 | 1.18% | 7/16 | 没収 | 中松義郎 |
| 1992年 | 第16回参院選 | 比例区 | 発明政治 | 139,728[174] | - | - | 没収 | 中松義郎[175] |
| 1993年 | 第40回衆院選 | 旧東京3区 | 新自民党 | 13,965 | 21.66% | 8/10 | 没収 | 中松義郎 |
| 1995年 | 第17回参院選 | 東京都選挙区 | 無所属 | 101,547 | 23.30% | 8/72 | 没収 | 中松義郎 |
| 1999年 | 東京都知事選 | - | 無所属 | 100,123 | 6.01% | 7/19 | 没収 | ドクター・中松[176] |
| 2001年 | 第19回参院選 | 比例区 | 自由連合 | 36,076 | - | - | 没収 | ドクター・中松[177] |
| 2003年 | 東京都知事選 | - | 無所属 | 109,091 | 3.53% | 4/5 | 没収 | ドクター・中松[178] |
| 2007年 | 東京都知事選 | - | 無所属 | 85,946 | 3.06% | 5/14 | 没収 | ドクター・中松[179] |
| 2007年 | 第21回参院選 | 東京都選挙区 | 無所属 | 92,512 | 13.53% | 10/20 | 没収 | ドクター・中松[180] |
| 2009年 | 第45回衆院選 | 比例東京ブロック | 幸福実現党 | 35,667[181] | - | 7/9 | 没収 | ドクター・中松[182] |
| 2010年 | 第22回参院選 | 比例区 | 幸福実現党 | 38,242 | - | - | 没収 | ドクター・中松[183] |
| 2011年 | 東京都知事選 | - | 無所属 | 48,672 | 1.86% | 5/11 | 没収 | ドクター・中松[184] |
| 2012年 | 東京都知事選 | - | 無所属 | 129,406 | 2.98% | 5/9 | 没収 | 中松義郎[185] |
| 2013年 | 第23回参院選 | 東京都選挙区 | 無所属 | 48,362 | 7.90% | 12/20 | 没収 | 中松義郎[186] |
| 2014年 | 東京都知事選 | - | 無所属 | 64,774 | 3.07% | 6/16 | 没収 | ドクター・中松[187] |
| 2014年 | 第47回衆院選 | 東京5区 | 無所属 | 12,777 | 12.47% | 5/5 | 没収 | ドクター・中松[188] |
| 2024年 | 東京都知事選 | - | 無所属 | 23,825 | 0.3% | 11/56 | 没収 | ドクター・中松[173] |
政策
幸福実現党からの出馬
2009年(平成21年)7月、宗教法人幸福の科学を母体とする幸福実現党に招聘されて同党特別代表に就任し同直前就任した新風講師団を離脱、2011年(平成23年)2月28日の退任まで務めた。中松は幸福の科学の会員ではないものの[192][193]、第45回衆議院議員総選挙(2009年)には同党の比例代表東京ブロックに立候補して落選している[194]。第22回参議院議員通常選挙(2010年)も同党から立候補するも落選[183]。その後は同党と一線を画し、無所属で立候補している。
受賞
米国国会表彰、アメリカ大統領賞、米国発明会議最高賞、世界名誉賞、ミズーリ大学総長賞、米国ナショナル大学世界指導者賞、シカゴハイテク研究所天才賞、国際著名人名誉殿堂入り、韓国文化勲章、世界平和大賞、米国発明協会最高賞、ミレニアム賞、韓国蒋英実科学文化賞[195]などの顕彰を受けている[58]。1982年(昭和57年)に全人類に最も貢献した世界一の発明家賞、1983年(昭和58年)に発明大賞科学技術庁長官賞科学技術振興功績者表彰、1985年(昭和60年)社会貢献者特別功労者賞、1987年(昭和62年)に国際照明フェア最優秀賞天才賞、ビジティングスカラー大賞、1988年(昭和63年)にはアメリカ発明会議ライフタイム・アチーブメント賞などを受けたともしている[196]。ただし詳細が不明で第三者情報にて事実確認できていないものが含まれている。
科学技術庁長官賞
日本の公的な賞である科学技術庁長官賞は、磁気テープドロップアウト除去装置の開発育成を評して1983年に実際に授与されており[197]、その年の園遊会にて中松が参列しているという写真が残されている[108]。
世界発明コンテスト
世界発明コンテストに11年連続でグランプリ受賞したとしているが、そのコンテストの主催者である国際発明協会(社団法人「発明協会」とは無関係の組織)の会長は中松自身である[145]。
イグノーベル賞
2005年(平成17年)、「35年間に渡り自分の食事を毎回撮影し、食べた物が脳の働きや体調に与える影響を分析し続けたこと」に対して、ノーベル賞のパロディであるイグノーベル賞(栄養学賞)が贈られた[198][199]。中松は42歳のときから食べた食事の記録、血圧や体重などの情報を集めるようになり、撮影した食事の写真は1万枚以上に上る[131]。
中松はこの受賞は、自ら提唱した健康理論「リボディ理論」が認められたためであると主張しており[199][200]、イグノーベル賞は「ノーベル賞の上のノーベル賞」であり、ノーベル賞受賞者が受賞者を選ぶと説明している[199][200]。実際にはイグノーベル賞(Ig Nobel Prize)はノーベル賞をもじった「Ignoble(恥ずべき、不名誉な)」という言葉を掛け合わせた名称で、選考の基本的な基準は「人を笑わせ、考えさせる研究」であり、ノーベル賞受賞者の役割は受賞者を選ぶことではなく、主催者が選考した受賞者に賞を手渡すことである[201]。なおノーベル賞の主催者はノーベル財団で選考は分野ごとに指定された機関が行うが、イグノーベル賞の主催者と選考は米国の科学ユーモア雑誌 「Annals of Improbable Research」の編集部[202]である。また中松は、政見放送や自サイトなどで「IG(アイジー)ノーベル賞受賞」と表記、または発音しており[199][203](ただし、2016年(平成28年)の自著『私は死んでる暇がない』では「イグノーベル賞」「Ig(イグ)ノーベル賞」と表記[204])、日本ではイグノーベル賞の受賞を積極的に宣伝し、ウェブサイトでの自己紹介でも一番に書かれているが、英語版の自己紹介では全く触れられていない[205]。
2014年(平成26年)のイグノーベル賞のテーマは「食」に関するものであり(受賞者全員が「食」に関するものではない)、食に関する2005年(平成17年)のイグノーベル受賞者として、日本人初となる基調講演を行った[206]。当日は車いす姿で「がん撲滅食を発明した」と発表し、喝采を浴びた[207][208]。
逸話・俗説
三井物産の株が1日14円上がった(第一物産の株が2日17円)
中松は「自分の発明で三井物産の株が1日14円上がった」と主張しているが、実際には特許によって第一物産の株が2日17円上がった話である。中松はこの話を「フロッピーディスクの特許が取れた」と主張している[209]が、実際には「ナカビゾン(一型)」に関する特許である。この話は日本経済新聞にて1958年(昭和33年)2月27日からの3日連続の記事「第二のシンクロ騒ぎ 一物急騰にからむ」「問題のナカビ・ソーン 積紙式完全自動演奏装置」「中松氏の特許権消失 だが異議申立はできる」で報じられている[210]。
中松の著書ではこの話があった年が変更されており、初期の著書(『三倍の人生』[74.10]『独創力の秘密』[75.4]など)では日本経済新聞の報道通りの1958年(昭和33年)2月27日であり、中松が『週刊新潮』から取材があったとするもの[211][10]も昭和33年であるが、後の著書(『ドクター・中松の発明ノート』[78.4]など)では昭和31年2月27日に変更されている。なお中松は昭和32年に29歳で三井物産を辞めて独立したと主張しており[209]、その話が正しいならば中松は昭和33年に三井物産(第一物産)に在籍していなかったことになる。ちなみに第一物産が三井物産に商号を変更したのは、さらに後の1959年(昭和34年)2月26日である[212]。
第一物産の株価が急騰した理由は、三井物産の合同話に加えて、第一物産がキャノンから販売される予定のシンクロリーダー関連の特許を第一物産が持っているという噂が流れたためであった。第一物産の株価が急騰した理由を『野田経済』は、シンクロリーダーに目をつけた山一證券とそれに追従した投資家たちによってキャノン株が1957年(昭和32)年8月の130円から同年10月に270円と2倍以上に高騰していた所、山一證券と対等に張り合える日興証券がナカビゾンをきっかけとして三井物産の大合同を理由にキャノン株を売り第一物産の株を買ったことが原因だったと分析している[213]。なお、当時の第一物産の株価は120円程であった[214]。
第一物産が特許を持っているという噂が流れたが実際に特許を持っていたのは中松個人であり、日本経済新聞[210]の2月27日の記事では第一物産の水上副社長は「まだ中松氏個人の段階」としながらも、第一物産でナカビゾンを企業化する場合でも商社本来の事業と違うため、適当なメーカーと提携してやることになるだろうと答えている。その翌日の2月28日の記事内の「特許庁の見方」によると、シンクロリーダーはナカビゾンは考え方は同じでも技術的方法はいろいろあり、「長方形の紙に録音し音を再生させる装置」として中松が広範囲の権利を持つことはできないと特許庁は答えている。そらにその翌日の3月1日の記事では、中松の特許は特許料納入がないままにすでに権利が消失していることが分かったと伝えられた。
中松室と罷役(ヒヤク)
中松は1958年(昭和33年)2月27日にナカビゾンに関する特許で兜町で評判になり、「中松室」という特別室が作られたと主張している[209]。中松によると、会社の業務をする必要はなく、好きなことをなんでも自由にやって良いと言われたとのこと。そういう自由な状態でいいのかと考えた中松は「ナカマスコープ株式会社」を設立(設立は昭和34年2月[29])して三井物産を辞めて独立したのとのこと。
一方で中松は三井物産には「罷役(ヒヤク)」という制度があるので、それを使って「ナカマスコープ株式会社」を設立したと主張している[215]。罷役とは、会社を辞める(辞めさせる)人に通知する辞令で「雇用関係はあるが使用関係はない」状態を指す用語である[216]。会社から仕事を与えられず出世の道が閉ざされており、罷役の辞令を受けた人は一定期間は会社に残れるが、その間に将来を決める必要がある。
日本のベンチャービジネス第一号
中松は1959年(昭和34年)2月に設立した「ナカマスコープ株式会社」が、日本または通産省のベンチャービジネス第一号であり、通産省に頼まれて設立したと主張している[209]が、通産省(現・経済産業省)による日本の第一次ベンチャービジネスブームは1970年代である[217]。
マクドナルドを三越で最初にオープンした
中松は「日本に最初に進出したいと言ってるマクドナルドを三井系である三越で最初にオープンした」と主張している[218]が、マクドナルドが銀座三越にオープンしたのは1971年(昭和46年)7月20日であり、中松がナカマスコープ株式会社を設立して三井物産を辞めた1959年(昭和34年)よりもずっと後の話である[219]。なお、中松がイ・アイ・イ社を辞めて自分の会社「ナコー」を設立したのが1971年(昭和46年)である。
ドクター中松デー
アメリカ合衆国の11の州で名誉市民となっているほか、いくつかの場所では「ドクター・中松デー」という記念日が制定されている[220]。ただし、アメリカでは名誉市民賞や記念日は市に対して本人が寄付を行えば授与されるケースが多く、一般的な顕彰とは位置付けが違っている[145]。
ブッシュ大統領親書(ブッシュ副大統領からの祝辞)
1988年4月8日付けでジョージ・H・W・ブッシュから贈られた祝辞。中松宛てではあるが、発明家個人はなく、International Inventors Exposition, 1988(1988年 国際発明家博覧会)のChairman(会長)としての活動に対して贈られたものである。なお中松はブッシュ大統領と記載しているが、手紙の日付から当時は副大統領であり、当時のアメリカでは1987年から全米で発明教育活動「Invent America!」が行われており[221]、ブッシュ副大統領はその活動の名誉会長であった[222]。以下がその手紙の内容(これ以外は日付と「GEORGE BUSH」の名前とサインのみ)である[注 16]。
Dr. Yoshiro NakaMats
Chairman
International Inventors Exposition, 1988Dear Dr. NakaMats:
Congratulations on the fine things you are doing in the important area of developing the relationship between academia and the private sector in the transfer of high technology.
As time goes on, our world continues to get increasingly interdependent. The need is vital for improved communication between our schools and private enterprise in dealing with the technology that is so fundamental to the world's future prosperity, health, and peace.
Welcome to the United States, and best wishes for every future success.
翻訳(参考): 学界と民間部門との関係を発展させるという、重要な分野において、先端技術の移転に取り組んでおられる素晴らしい活動に対し、心よりお祝い申し上げます。時が経つにつれて、私たちの世界はますます相互依存するようになっています。世界の将来の繁栄、健康、そして平和にとって非常に根本的なものである技術を扱うにあたり、教育機関と民間企業間の意思疎通をより良くすることが、極めて重要となっています。米国へようこそ。そして、今後のあらゆる成功を心よりお祈り申し上げます。
中松はこの文章を、1990年の著書「政治を発明する」[223]にて次のように翻訳しており(太字は中松が付け足したもので元の文章の訳ではないもの)、最後の「Welcome to the United States」が削除されている。
ハイテク分野における学問及びその実用化において、重要な開発をなさっておられる中松義郎博士の素晴らしい業績を祝福します。
これからの素晴らしい世の中が進むにつれて、相互依存がますます高まります。
世界の将来の繁栄、健康、平和の基本となる技術に関する産学共同の必要性が強まってまいります。
中松博士のあらゆる将来の成功について、私は最大の期待と好意をお寄せいたします。
また、2018年の著書「世界発明武者修行」[224.1]では、我が国に学問的・技術的なことを教えて頂いたことに感謝します。アメリカ合衆国はドクター中松先生を歓迎します。これからのご活躍をお祈り致します。
と翻訳している。
世界で最も講演料の高い12人(各業界の人物の講演料)
1989年(平成元年)3月6日、ニューズウィーク誌に掲載された、話すことを武器とした講演ブームに関する記事、『Who Said Talk Was Cheap?』(慣用句「Talk Was Cheap」を使った意訳は「言うは易しなんて誰が言ったの?」だが、言葉通りだと「講演は安いと誰が言った?」と訳せる)において、各業界から代表的な人物12人の講演料が紹介された。元大統領としてロナルド・レーガン(5万ドル)、超音速機パイロットとしてチャック・イェーガー(2万5000ドル)、アメフトチーム監督としてマイク・ディトカ(2万5000ドル)、タイタニック号の発見者としてロバート・バラード(1万2000ドル)など、その中に中松が「フロッピーディスクを発明した'日本のエジソン'」として紹介され、講演料は1万ドルであった[225][注 17]。中松は挙げられた12人の中で最低額である[145]が、そもそもこれは講演料が高額なトップ12人を集めた一覧ではなく、講演者を紹介・仲介する会社などからの情報を元にした各人物の講演料の一覧である。
SOURCES: INTERNATIONAL GROUP OF AGENTS AND BUREAUS, INDIANAPOLIS SPEAKERS BUREAU AND OTHERS. ALL FEES ARE APPROXIMATE.
記事には12人に含まれていない人物として「ゴルフ界のスターであるアーノルド・パーマーやジャック・ニクラウスのような人々の中には、報道によれば4万5000ドルを要求する者もいる。なぜなら彼らは本当に話をしたいとも話をする必要があるとも思っていないからだ」と書かれている。中松はこれをニューズウィーク誌で世界ベスト12に日本人でただ一人選ばれ、1時間当たり1万ドルと評価される
と著書に記載し、「世界で最も講演料の高い12人」に選ばれたと主張している[226.1]。なお中松が要求する講演料は、2012年時点で100万円から150万円であった[227]。
メジャーリーグでの始球式
1990年(平成2年)5月6日にメジャーリーグ球団ピッツバーグ・パイレーツの始球式を行っている[226.1]。中松はメジャーリーグで始球式を行った初めての日本人だと主張しているが、実際にはティアック創立者の一人、谷鞆馬が1970年(昭和45年)6月22日にロサンゼルスのドジャース球場で始球式を行ったのが日本人初とされている[228]。また中松はブッシュ大統領の代役であったと主張している[121.3]が、ブッシュ大統領がパイレーツで始球式を行う予定だったわけではなく、元々ブッシュ大統領は1990年4月2日のシンシナティのリバーフロント・スタジアムで始球式を行う予定が、メジャーリーグの労使紛争(ロックアウト)により開幕が遅れ、同年4月10日にカナダのトロントあるスカイドームで始球式を行ったという経緯がある [229][注 18]。
ANA(全日本空輸)の設立・創設
中松は2015年の著書『打ち破る力』などでANA(全日本空輸)を創設した(ANAを創った)と主張している[230]が、ANA設立当時の中松は東京大学の3年生(昭和28年3月末卒業[22])である。中松はX.comで「ANAを創ったのは誰か?」として次のような発言をしている[231]。
当時三井物産がいた日産館の道路を隔てた真ん前の飛行館というビルに輸送用新会社を作ることにしました。その名を日本ヘリコプター輸送株式会社と名付けました。 そして当時満州飛行機という満州にあった日本の飛行機会社が終戦で満州が無くなったので、多くのパイロットや整備士が失業しました。こういう失業した満州飛行機から葉山さんなどの整備士をまず入社させました。 それからパイロットは当時陸軍などで名を馳せた名パイロットが失業しておりましたので、そういう人たちをパイロットとして雇いました。
ANAの前身である日本ヘリコプター輸送株式会社は、全日本空輸の社史より[93.2]、1952年(昭和27年)12月27日に創立された。また日本ヘリコプター輸送と名付けられ、その設立準備委員会が飛行館に創設されたのは、さらにさかのぼって1952年(昭和27年)5月22日である。中松は三井物産が「日産館」にいたと主張しているが、当時はまだ三井物産は大合同する前で、三井物産が日産館を買い取って「物産館」となるのは1956年(昭和31年)である。中松が入社させたと主張する葉山整備士は、終戦前に「満州飛行機(満飛)」ではなく「満州航空(満航)」で働いており[232]、終戦後は立川の米軍基地で働いていた[233.1]。
社長としては、当時朝日新聞の航空部の部長をしていた美土路さんを社長に据えました。(中略)そして専務として飛行体験者のプロを採用しました。これは中野という全学連の出身者です。全学連と言っても皆さんご存知の全学連ではありません。全日本学生飛行連盟が当時全学連と言われていたのです。
ANAの創設者である美土路昌一(みどろますいち)と、後のANAの副社長となる中野勝義は、まず終戦した年の1945年(昭和20年)12月に社団法人興民社を創設、終戦で失業した多くのパイロットや整備士を助けるためであった[234]。中松は中野を「飛行体験者のプロ」(テストパイロットの意味?)で「全日本学生飛行連盟(全学連)」の出身者と主張しているが、実際には中野は「日本学生航空連盟(学連)」の創設者である。1929年(昭和4年)7月、当時、中野が学生だった法政大学を皮切りに、各大学で次々と学生航空研究会が創設された。それら学生航空研究会を組織単位とする各大学をつなげる学生ための組織が日本学生航空連盟であり、1930年(昭和5年)に法政大学を筆頭として航空局と朝日新聞社の後援で創設された[235]。
当時大学3年生であった「中松義郎」の名前は、ANAの社史、『大空へ十年[93]』『大空へ二十年[236]』『限りなく大空へ : 全日空の30年(本編[233]、別冊[237])』の中に一箇所もでてこない。中松は大学卒業後に、すでにANAと取引を行っていた日本機械貿易[26]に入社した。
作品
図書
- 中松義郎『三倍の人生』学習研究社、1977年5月2日。全国書誌番号:77012803、NDLJP:12191776。
- 改訂「新2版」あり
- 中松義郎『独創力の秘密 画期的アイデアはどこから生まれるか 着想のヒント・成功への秘訣』PHP研究所〈PHP business library〉、1981年9月。全国書誌番号:81042185、NDLJP:12633021。
- 中松義郎『人間関係方程式 人生を数式で開拓するバイブル』現代史出版会〈Tokuma books〉、1983年9月。ISBN 4-19-502799-3。NDLJP:14877411。
- 中松義郎『中松義郎式新頭脳革命 ベンチャービジネスのパイオニア』山手書房、1983年9月。全国書誌番号:84029598、NDLJP:12683170。
- 背の書名「新頭脳革命」
- 中松義郎『中松義郎式新創造革命 技術タダ乗りを叱る』山手書房、1983年11月。全国書誌番号:84030061、NDLJP:12619004。
- 背の書名「新創造革命」
- 中松義郎『三倍の人生 脳細胞を三倍活用した人間ドキュメント』(新2版)シーピー、1985年11月。ISBN 4-915637-00-X。NDLJP:13128143。
- 奥付の書名「発明サスペンス3×の人生」
- 中松義郎『子どもの頭をよくする生活習慣』牧羊社〈ぼくようぶっくす〉、1986年2月10日。ISBN 4-8333-1560-2。NDLJP:12107352。
- 改訂「新板」あり
- 中松義郎『異学発想のすすめ』講談社、1986年4月。ISBN 4-06-202606-6。NDLJP:12619154。
- 中松義郎『中松義郎のゴロ寝してスーパーマンになる法 1%の汗と99%の超並イキスピレーション』 上(提言編)、マネジメント社、1987年4月。ISBN 4-8378-0198-6。NDLJP:12619046。
- 中松義郎『中松義郎のゴロ寝してスーパーマンになる法 1%の汗と99%の超並イキスピレーション』 下(実践編)、マネジメント社、1988年4月。ISBN 4-8378-0217-6。NDLJP:12619048。
- 中松義郎『ドクター中松義郎の発明百科』成美堂出版、1988年6月。ISBN 4-415-07365-4。NDLJP:13628758。
- 著者の肖像あり
- 中松義郎『ドクター中松平成日本を診断する 天気晴朗ならず波高し』ビジネス社、1989年5月。ISBN 4-8284-0391-4。NDLJP:13104992。
- 中松義郎『政治を発明する =Invention of politics 21世紀を拓く新発想』山手書房新社、1990年5月。ISBN 4-8413-0007-4。
- 中松義郎『「スジ・ピカ・イキ」で考えろ』情報センター出版局〈Joho business〉、1991年9月。ISBN 4-7958-0135-5。NDLJP:13968315。
- 中松義郎『ドクター中松の常識やぶりバンザイ! 世界最強の仰天科学者 1%の汗で成功する方法』ベストセラーズ〈ワニの本. ベストセラーシリーズ〉、1991年10月。ISBN 4-584-00774-8。NDLJP:13605908。
- 中松義郎『ドクター中松の頭をもっと良くする101の方法 「バカは死んでもなおらない」というウソ』ベストセラーズ〈ワニの本. ベストセラーシリーズ〉、1992年4月。ISBN 4-584-00795-0。NDLJP:13843109。
- ドクター中松の偉大なる経歴書 (pp. 200-211)
- 中松義郎『ドクター中松の0からの創造 知本主義の時代を生きろ』広済堂出版、1992年7月。ISBN 4-331-50357-7。NDLJP:13605948。
- 奥付の書名「0からの創造」
- 中松義郎『子どもの頭をよくする生活習慣』(新版)牧羊社〈ぼくようぶっくす〉、1992年11月。ISBN 4-8333-1560-2。NDLJP:13292548。
- 中松義郎『ドクター中松のスーパー育児術 頭の良い子を育てる』自由国民社、1993年1月。ISBN 4-426-83101-6。NDLJP:13253101。
- 中松義郎『頭の良い子を育てる環境・運動・食事 何歳からでも遅くない! ドクター中松のブレイン〈脳〉・エクササイズ』ベストセラーズ〈ワニの本. ベストセラーシリーズ〉、1994年2月。ISBN 4-584-00890-6。NDLJP:13316127。
- 改訂「新装版」あり
- 中松義郎『ドクター中松超常現象裏のウラ』ディーエイチシー、1994年7月。ISBN 4-88724-013-9。NDLJP:13628148。
- 引用参考文献一覧 (pp. 291-292)
- 中松義郎『日本劣頭改造論』創現社出版〈Go!books〉、1994年8月。ISBN 4-88245-107-7。NDLJP:13066810。
- 中松義郎『宇宙と地震のメカニズム 的中!!阪神大震災を唯一予知ドクター中松の』泰流社、1995年3月。ISBN 4-8121-0110-7。NDLJP:13941474。
- 中松義郎プロフィール (pp. 213-223)
- 中松義郎『ドクター中松の超パソコン発想入門 脱マニュアルへの道』青春出版社〈プレイブックス〉、1996年3月。ISBN 4-413-01662-9。NDLJP:14351185。
- 中松義郎『頭脳革命 脳外エネルギーで人生を変えろ!』WAVE出版、1996年11月。ISBN 4-900528-75-7。NDLJP:14351163。
- 中松義郎『ドクター中松の超創造力 頭脳こそ21世紀の究極資源』廣済堂出版、1996年12月。ISBN 4-331-50561-8。NDLJP:14351201。
- 中松義郎『東大キャンパスにおける創造学講義』ビジネス社、1997年1月。ISBN 4-915637-02-6。NDLJP:14163582。
- 改訂「新装版」あり
- 中松義郎『ドクター中松の独創思考』日本能率協会マネジメントセンター、1997年3月。ISBN 4-8207-1251-9。NDLJP:14351017。
- 中松義郎『ドクター中松のここちよいリボディ』成星出版、1998年2月。ISBN 4-916008-52-9。NDLJP:13946128。
- ドクター・中松『頭の良い子を育てる環境・運動・食事 何歳からでも遅くない! ドクター・中松のブレイン〈脳〉・エクササイズ』(新装版)シーピー、2002年6月。ISBN 4-915637-01-8。
- ドクター・中松『東大キャンパスにおける創造学講義』(新装版)シーピー、2002年6月。ISBN 4-915637-02-6。
- ドクター・中松『ドクター・中松のリボデイ 144才健康法』(新装版)シーピー、2002年6月。ISBN 4-915637-03-4。
- 背のタイトル「リボデイ」
- ドクター・中松『ドクター・中松ドクトリン 日本再生世直し発明』シーピー、2003年1月。ISBN 4-915637-04-2。
- フロッピー発明50周年記念出版
- ドクター・中松『ドクター・中松の発明伝説 スリル・サスペンスとロマン』シーピー、2003年9月。ISBN 4-915637-05-0。
- 発明活動70周年記念出版、英文併記「THE LEGEND OF Dr. NAKAMATS' INVENTIONS」
- ドクター・中松『ドクター・中松の発明ノート エジソンを超えた男』PHP研究所、2007年11月。ISBN 978-4-569-69298-2。
- 発明年表あり (pp. 314-316)
- ドクター・中松『バカと天才は紙二重 「ミサイルUターン」発想法』ベストセラーズ〈ベスト新書〉、2008年5月。ISBN 978-4-584-12187-0。
- ドクター・中松『お母様』ミヤオビパブリッシング、2008年11月。ISBN 978-4-900833-48-7。
- ドクター・中松『クリエイティブパワー 創造の心で宇宙は進化する』幸福の科学出版、2010年6月。ISBN 978-4-86395-051-1。
- 中松義郎『日本は負けたのではない 超経験者しか知らない大東亜戦争の真実』文芸社、2013年5月。ISBN 978-4-286-13911-1。
- 中松義郎『打ち破る力 ドクター・中松の最終講義』世界文化社、2015年7月。ISBN 978-4-418-15510-1。
- 年譜あり
- ドクター・中松『私は死んでる暇がない サムライスピリッツで正々堂々とガンと闘う! 23の頭脳を持つ超発明家からのメッセージ』ヒカルランド、2016年7月。ISBN 978-4-86471-394-8。
- サー・ドクター中松義郎『世界発明武者修行』2018年。
- 奥付なし、満90歳記念、ドクター・中松ダイレクトにて販売
- ドクター・中松『百歳脳 : ピッカピカの百歳So what?』青志社、2024年12月。ISBN 978-4-86590-181-8。
共著
- サー・ドクター中松 著「孤立剣残月」、NHK『わたしの藤沢周平』制作班 編『わたしの藤沢周平』遠藤崇寿・遠藤展子 監修、宝島社、2009年1月。ISBN 978-4-7966-5995-6。
- サー・ドクター中松 著「孤立剣残月」、NHK『わたしの藤沢周平』制作班 編『わたしの藤沢周平』遠藤崇寿・遠藤展子 監修、文藝春秋〈文春文庫 ふ1-92〉、2012年10月。ISBN 978-4-16-783827-0。 - 宝島社2009年刊の再刊。
- 中松義郎「日本は負けていない」『誇れる国、日本 謀略に!翻弄された近現代』 4巻、アパグループ、2011年12月。 - 「4」のタイトル関連情報:第四回「真の近現代史観」懸賞論文受賞作品集。
- 中松義郎「「違法輸入」の「麻薬憲法」論」『誇れる国、日本 謀略に!翻弄された近現代』 6巻、アパグループ、2013年12月。 - 「6」のタイトル関連情報:第六回「真の近現代史観」懸賞論文受賞作品集。
翻訳
- 中松义郎 (1989-06), 独创力的秘密, 张羽静, 上海科学普及出版社, ISBN 7-5427-0172-X
CD
シングル
- 「ガンの顔つき悪くても」(2015年6月24日発売、ユニバーサルミュージック、規格品番 UICY-5128)[67][238]
- 英語バージョン「Even Cancer Face Very Bad」は、2015年4月18日に配信先行発売[67]
出演
映画
この他、2007年にアメリカの映画会社が企画していた、燃料電池を扱ったドキュメンタリーに関し、中松も取材を受けていた[243]。
テレビ番組
- ビートたけしのお笑いウルトラクイズ(日本テレビ系)
- 良かれと思って!(フジテレビ系、2017年7月26日)[244]
CM
脚注
注釈
- ↑ 「ドクター」は通称の一部で公式に確認されている最終学歴は大卒である(工学士であって博士ではない)
- ↑ 中松の話をそのまま引用したと思われる、新聞、メディア、各情報系ウェブサイトを含む
- ↑ 中松の話(経歴や学歴や逸話など)は時期や著書によって言ってることが違っている
- ↑ 海軍機関学校卒業後は機関少尉候補生となり機関将校への道を進むのが一般的だが、中松は本来の教育・訓練課程をこなしたうえで卒業したわけではない
- ↑ 高橋父とは後にイ・アイ・イ社の社長となる高橋義治のことで、その後、息子の高橋治則に経営を引き継がせる。「僕が留守のうち」とは海外出張のこと。
- ↑ 一般的なヘリコプターにラムジェット(エンジン)は搭載されていない
- ↑ 1982年3月発行の「日本機械学会誌」第85巻第760号に掲載された中松の手記『シート記録再生システム「ナカビゾン」開発記 : ねばり・ひらめき・ビフテキ』ではフロッピーディスクについて、「ナカビゾンのあとからIBMで開発されたディスケットは、ナカビゾンとほぼ同じ技術思想である」(p.271) としか言及されておらず、この時点ではまだ自分の発明とはしていない。
- ↑ 商願2011-090948、登録5503113
- ↑ 商願2011-090949、登録5503114
- ↑ この時点で、日本維新の会の団体である「東京維新の会」は消滅しており、「日本維新の会」についても解体が確実視されていた情勢であった。7月31日、日本維新の会は解散し、同じく解散した結いの党とともに維新の党を結成している。
- ↑ 商願 2012-85150
- ↑ 商願 2012-85158
- ↑ 商願 2012-85165
- ↑ 商願2012-094884、登録5896379
- ↑ ただし、2023年時点で特許情報プラットフォームで確認できる発明は582件、そのうち特許を取得している発明は180件に留まっている、
- ↑ この記事の読者が、ブッシュ副大統領の本当の祝辞内容と、中松の主張を比較できるよう、ここでは全文を引用している
- ↑ Newsweekの太平洋版には記載なしとの情報があるが、リンク先のインターネットアーカイブにある版(US版?)には記載されている
- ↑ 中松はブッシュ大統領の代役として直接選ばれたわけではないが、ブッシュ大統領の予定変更に伴う各球場でのスケジュール調整において、別件で近くにいた中松が起用された可能性は考えられる
出典
- ↑ 1991年 東京都知事選挙 選挙公報誌 東京都選挙管理委員会発行
- 1 2 “ドクター中松プロフィール”. Dr_NakaMats_com (2008年). 2013年3月12日閲覧。
- 1 2 3 4 5 及川健二 (2007年6月8日). “Dr. 中松氏が「ハイブリッド政治」打ち出す 参院選に再び挑戦”. 日刊ベリタ. 2013年3月12日閲覧。
- ↑ 「国際発明協会」は公益社団法人発明協会とは一切無関係
- ↑ 世界天才会議
- ↑ “ドクター・ 中松 : プロフィル”. YOMIURI ONLINE (2011年). 2015年11月8日閲覧。
- ↑ 大蔵省印刷局『官報』1916年2月17日、7頁。
- ↑ 『真清水の心 : 石川県立金沢第二高女史』真清水会、1985年11月3日、106,136頁。
- ↑ 桜蔭会『桜蔭会史』桜蔭会、1940年、481頁。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 「発明二千件の頭脳 ナカマスコープの中松青年」『週刊新潮』1958年4月7日、36-41頁。
- ↑ 『布哇成功者実傳』布哇日々新聞社、1908年7月、36-38頁。
- ↑ 『布哇日本人銘鑑』布哇日本人銘鑑刊行会、1927年、342頁。
- ↑ 大蔵省印刷局『官報』1901年10月30日、19頁。
- ↑ 中松義郎. “母流のユニークな学校選択”. 頭の良い子を育てる環境・運動・食事〜ドクター中松のブレイン<脳>・エクササイズ. お受験どっとこむ. 2007年2月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年5月30日閲覧。
- ↑ 「〈特集〉才能の発見 - あなたの中に天才がある」『高校コース』学習研究社、1959年1月、38-57頁。
- ↑ “国民学校令等戦時特例(抄)(昭和十九年二月十六日勅令第八十号):文部科学省”. www.mext.go.jp. 2026年10月6日閲覧。
- ↑ 上垣渉 (2018-02-28). “昭和20年前後における中学校数学教育の諸断面”. 岐阜聖徳学園大学紀要. 教育学部編 (岐阜聖徳学園大学) 57: 1-20.
- 1 2 中松義郎『日本は負けたのではない 超経験者しか知らない大東亜戦争の真実』2013年5月22日。
- ↑ 『海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校』秋元書房、1971年6月1日、266頁。
- ↑ “学生だけの発明グループ アルバイトで研究費 ラジオ組立も引受ける”. 朝日新聞. 1953年1月18日. p. 7.
- ↑ 『東京大学一覧』東京大学出版会、1953年7月1日、796頁。
- 1 2 『東京大学卒業生氏名録 昭和27-28年度』東京大学、1954年10月7日、34頁。
- ↑ “学生だけの発明グループ アルバイトで研究費 ラジオ組立も引受ける”. 朝日新聞. 1953年1月18日. p. 7.
- 1 2 『会員氏名録 昭和28・29年用』学士会、1953年7月10日、358頁。
- ↑ 『東邦経済』東邦経済社、1952年4月、93頁。
- 1 2 『中野勝義の追憶』中野勝義追憶録刊行会、1963年10月30日、3頁。
- ↑ “社史詳細 - 年表 | 渋沢社史データベース”. shashi.shibusawa.or.jp. 2026年10月6日閲覧。
- ↑ 『会員氏名録 昭和32・33年用』学士会、1957年11月1日、379頁。
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- ↑ 全日空30年史編集委員会『限りなく大空へ : 全日空の30年 別冊』全日本空輸、1983年3月15日。
- ↑ “ガンの顔つき悪くても ドクター・中松”. ORICON STYLE (2015年). 2015年11月8日閲覧。
- ↑ KINENOTE「シベリア超特急3」
- ↑ KINENOTE「ヅラ刑事 THE RUG COP」
- ↑ インターネット・ムービー・データベース「The Invention of Dr. Nakamats (2009)」
- ↑ デンマーク映画協会「Opfindelsen af Dr. Nakamats / The Invention of Dr. Nakamats」
- ↑ Hollywood Producer Announces Water Fuel Film in Production PESN.com
- ↑ “ドクター・中松氏 現在の超莫大な収入源はあの発明「ひとりでにお金が入る」”. スポーツニッポン. 2017年7月27日. 2017年7月28日閲覧.
- ↑ 「[CM界]負け惜しみは発明の母? 不敵に笑うドクター中松」『読売新聞東京本社版』1997年6月23日付夕刊、16面。
- ↑ 「今月のLOCO-CM」『広告批評』第214号、マドラ出版、1998年3月1日、37頁、NDLJP:1852933/20。
参考文献
- 唐沢俊一、と学会「どのビート板を使うのがいいか? 凡人には「創造学」の理解は遠い」『トンデモ本1999 このベストセラーがトンデモない!!』光文社、1999年1月、93-98頁。ISBN 4-334-97204-7。
- 立花隆、東京大学教養学部立花隆ゼミ『二十歳のころ 立花ゼミ『調べて書く』共同製作』新潮社、1998年12月。ISBN 4-10-395503-1。
- 藤倉珊 著「ドクター中松(中松義郎)――発明世界一とフロッピー伝説の真相」、と学会 編『トンデモ本の世界』洋泉社、1995年5月、260-268頁。ISBN 4-89691-166-0。
- 松沢呉一「「ドクター中松」という珍発明」『宝島30』1993年11月号、宝島社、1993年11月。