『金史』巻1世紀には以下の記述がある。
金之始祖諱函普,初從高麗來,年已六十餘矣。 — 金史、巻一、世紀
「金の始祖函普は高麗からやって来て、年は既に60余歳であった」とあり、高麗から来たと記されている[2]。これを根拠にして、韓国や北朝鮮では「金は朝鮮民族起源国家」「金は朝鮮民族の建てた国家」「女真の起源は高麗人だから女真が建国した金と清は朝鮮の歴史」などと主張している人物が多数いる。ただし、韓国の主流歴史学界と教科書ではこのような主張をしない。該当人物が高麗出身であることは概ね認めている。
中国学者の多くは、『金史』の函普に関する記録、すなわち「従高麗来(高麗より来た)」という記事が比較的歴史的事実に近く、函普とその先祖は新羅に移住し、その後高麗国を経て、女真の同盟に加わった高麗出身の女真とする見解が一般的であり、張博泉は、函普は靺鞨あるいは女真と考えており、「函普はもともと女真であったが、高麗国に居住していた」と主張している[39]。孟広耀は、「新羅人と高麗人は朝鮮の主体的な民族であるが、函普のような靺鞨あるいは女真は主体的な民族に隷属していた」と主張している[39]。
中国学者たちは、高麗領内にはいくつもの民族が暮らしていたため、函普が「高麗から来た」というのは「高麗人」を意味するものではないと考えている[40][41][42]。現代的に言うならば、函普は高麗に居住していた女真人ということになる[43]。実際、『金史』列伝第三と洪皓の『松漠紀聞』は、いずれも函普が高麗から来たと記述しているが、その民族が高麗人なのか高麗に居住している女真人なのかは明らかにしていない。金代に完顔勗などが撰修した『祖宗実録』は、金始祖が高麗人や新羅人ではなく高麗に居住していた女真人であることを示している。
『高麗史』睿宗三によると、金景祖の烏骨廼の息子である完顔盈歌は、函普が高麗から来たことから、高麗王朝を「父母之邦」と称えている。しかし、上記の発言は、女真・高麗連合軍による遼への共同攻撃をおこなうために、高麗の外交的協力を得ようとした一種の外交辞令であることが指摘されている[44][45]。
孫進己は、函普は高麗から来る前から「完顏」姓を持っていたので、函普や函普の家族は高麗あるいは新羅に住んでいた女真人だったと主張した[43]。孟古托力と趙永春は、函普の祖先は女真人であり、新羅に居住し、その後、新羅を飲み込んだ高麗に住んでいたと主張した[46][47]。
欧米の学者は、函普を伝説的な故事とみなす。この女真の「祖先の伝説」は、10世紀のある時期に完顔部が高麗国と渤海国からの遺民を受け入れていたことを示唆していると、Herbert Frankeは説明する[48]。Frederick W. Moteは、完顔氏の「部族伝説」に基づいており、函普の兄弟が、1人は高麗に残り、もう1人は渤海国に残っていることは、高麗および渤海国の部族と完顔氏の祖先との縁を象徴していると推定している[49]。
元朝の官修『金史』は、「金人本出靺鞨之附于高麗者」と記録されており、金人の祖先は高麗王朝に居住していた靺鞨と記している。
金人本出靺鞨之附于高麗者。 — 金史、列傳第七十三
函普の本姓は何かという疑問があるが、中国学者は、函普が完顔部に来る以前からの本姓が「完顔」であることは間違いないと結論づけている[39]。史料には函普の本姓が「完顔」であることは記録されていないが、函普の兄の阿古乃と函普の弟の保活里の子孫はいずれも「完顔」姓であるためである。函普の本姓を「完顔」とする理由は、熟女真の曷蘇館女真出身である石土門と弟の完顔忠は、函普の弟の保活里の子孫であり、『金史』は、石土門を「耶懶路完顔部人」と明示し、完顔忠は「本名迪古乃,字阿思魁,石土門之弟。」と明示している。「完顔」姓である完顔忠および「完顔」姓である完顔忠の兄が石土門であることがわかり、両人が「完顔」姓であることがわかる[39]。そして、新羅や高麗国には「完顔」姓は存在せず、女真にのみ存在する[50]。
史料によると、金の始祖である函普以降、六世の孫である烏骨廼の誕生までの正確な時間の記録はない。金の建国前の最初の明確な時間記録は、烏骨廼に関する記録である。『金史』には、烏骨廼が遼聖宗の太平元年(1021年)に生まれたと記録されている。具体的な史料などがない場合の歴史的な時間を推測する方法として、歴史学者たちは世代数と各世代間のおおよその時間で歴史的な時間を推計しており、1021年を基準にして、函普の完顔部への渡来時期を算出している。張博泉は、「烏骨廼は、遼聖宗の太平元年(1021年)に生まれ、重熙七年(1038年)に完顔部の酋長になった。函普から烏骨廼までは五世だったが、一世代を25年とすれば計125年であり、烏骨廼が重熙七年(1038年)に完顔部の酋長になったとすれば、その125年前は919年になる」として、919年頃に函普は牡丹江一帯に住む完顔部に渡来したと主張している。孟広耀は、「烏骨廼は、遼聖宗の太平元年(1021年)に生まれた。函普から烏骨廼に至るまで、函普、烏魯、跋海、綏可、石魯の五代である。当時の結婚年齢は早く、通常であれば各世代に20年ずつなので、ちょうど100年ということになる。1021年から100年遡る921年頃が、函普が兄弟と別れて、牡丹江一帯に住む完顔部に至った時期になる」と述べている。孫進己は、「金の先祖の系譜によると、第六代烏骨廼は1021年に生まれ、第七代劾里鉢は1040年に生まれ、第八代烏雅束は1061年に生まれており、各世代で約20年の差がある。そうすると、第二代烏魯は、1021年より80年前の940年代に生まれた。したがって、函普は930年代に高麗から完顔部に来たと推測できる」と述べている[39]。
『松漠紀聞』などには、函普は「新羅人」と書かれている。函普を「新羅人」と記述している史料は以下である。
| 著者 | 著書 | 記述内容 |
|---|---|---|
| 洪皓 | 『松漠紀聞』 | 女真酋長(指函普)乃新羅人,號完顏氏。完顏,猶漢言王也。女真以其練事,後隨以首領讓之。兄弟三人,一為熟女真酋長,號萬戸。其一適他國。完顏年六十餘,女真妻之以女,亦六十餘,生二子,其長即胡來也。自此傳三人,至楊哥太師無子,以其侄阿骨打之弟諡曰文烈者為子。其後楊哥生子闥辣,乃令文烈歸宗。 |
| 徐夢莘 | 『三朝北盟会編』 | (女真)酋長本新羅人,號完顏氏,完顏猶漢言王。女真以其練事以為首領,完顏之兄弟三人,一為熟女真酋長,號萬戸,其一適他國。完顏年六十餘,女真妻之以女,亦六十餘,生二子,其長即胡來也,自此傳三人至楊哥太師以至阿骨打。 |
| 李心伝 | 『建炎以来朝野雑記』 | 完顏之始祖指浦(函普)者,新羅人,自新羅奔女真,女真諸酋推為首領。七傳至而始大,所謂阿骨打也。 |
| 李心伝 | 『建炎以来繋年要録』 | 即阿固達(阿骨打),其先新羅人也。 |
| 陳均 | 『九朝編年備要』 | 女真,其初部族本新羅人,號完顏氏。完顏,猶漢言王。女真妻之以女,生二子,其長烏古廼也。自此傳三人,至英格太師以至阿固達(阿骨打)。 |
| 不明 | 『続編両朝綱目備要』 | 完顏之始祖浦(函普)者,新羅人,自新羅奔女真,女真諸酋推為首領,七傳至而始大,所謂阿骨打也。 |
| 宇文懋昭 | 『大金国志』 | 或又云,其初酋長本新羅人,號完顏氏。完顏,猶漢言王也。女真妻之以女,生二子,其長即胡來也。其自此傳三人至楊割太師,以至阿骨打。 |
| 馬端臨 | 『文献通考』 | 又云,其酋本新羅人,號完顏氏,猶漢言王也。女真服其練事,以首領推之。其酋自龕福(函普)以下班班可紀。 |
これらの史料は、函普を「新羅人」、そして三兄弟であり、後に函普は生女真完顔部の酋長となり、三兄弟の一人は熟女真の酋長となり、一人は他国に行ったと記している。趙永春(吉林大学)の考証によると、これらの史料の函普の記事は基本的に同様であり、文言・語句まで酷似している。これは、函普の記事内容に関する情報源が同じであることを意味する。これらの史料の著者に共通するのは、すべて北宋または南宋と元初の人々であり、女真が台頭した時代に比較的近く、女真の台頭について理解しておく必要があるため、函普の初期記録について、様々な各種史料を参照したとみられる。以上から、これらの史料が完成した年代順を遡ると、函普の記事内容に関する情報源は、洪皓が著した『松漠紀聞』にたどり着く[39]。洪皓は、金に15年間抑留され、女真の貴族である完顔希尹の一族が生活する冷山に住んでいた。結果、宋の人々や後世の人々が函普を理解するための重要な情報源となった[50]。しかし、洪皓が女真のなかで生活していたのは、函普没後100年以上経過しており、函普から直接聞いたのではなく、口承であることは疑いない。口承である以上、事実もあれば、事実と異なるものもあり、函普が女真から得た口承が事実であったとしても、理解や回想に食い違いが生じる場合もある。実際、『松漠紀聞』には数多の間違いがある。例えば、『松漠紀聞』には、函普に「二人の息子がおり、その長男が胡来である」とあるが、実際は「胡来」は、金景祖である烏骨廼のことであり、『金史』世紀によれば、烏骨廼は函普の六世の孫であり、洪皓が烏骨廼を函普の息子としているのは明らかに誤りである[50]。
この他にも『松漠紀聞』には数多の誤りが指摘されており、『松漠紀聞』が完全に信頼できる史料ではないため、函普の記事内容も誤りがある可能性を排除できない。『松漠紀聞』は、函普が「新羅人,号(称号)完顔氏。」と記しているが、事実と異なり、新羅や高麗国に完顔氏は存在せず、女真にのみ存在する。『松漠紀聞』にある函普の「号(称号)完顔氏。」は、函普が新羅人であることを説明していないばかりか、逆に函普が女真であることを示している[50]。
上記の史料は、『松漠紀聞』の記録に基づき、函普を「新羅人」と記しているが、『松漠紀聞』の記録を疑問視する意見がある。『文献通考』は「又云」、『大金国志』は「或又云」、つまり「また(あるいは)とも言われている」と不確定的な書き方をしており、『松漠紀聞』の記事に納得していないことが窺われる[50]。「又云」あるいは「或又云」という不確かな説法の『文献通考』『大金国志』の両史料は、後代に大きな影響を及ぼしており、清代に編纂された『満洲源流考』は、『文献通考』『大金国志』に基づき、「金之始祖諱哈富(函普),初從高麗來,按通考及大金國志皆云,本自新羅來,姓完顔氏,考新羅與高麗舊地相錯,遼金史中往往二國互稱不為分別,以史傳按之,新羅王金姓,相傳数十世,則金之自新羅來,無疑建國之名,亦應取此,金史地理志,乃云以國有金水源為名,史家附會之詞未足憑耳,居完顔部」と記している。『文献通考』『大金国志』が参照した『松漠紀聞』に疑念がある以上、『文献通考』『大金国志』を孫引きしている『満洲源流考』にも疑念が生じる。『満洲源流考』は、『金史』地理志を「史家附会之詞(史家の附会の言葉)」と罵倒しているが、『満洲源流考』によると、女真が金を国号としたのは、新羅王家の姓氏に由来したといい、事実上の附会の言葉になっている[50]。さらに、『満洲源流考』が収集した史料は、中国王朝の過去の正史の記録であり、満洲族独自の伝承はほとんど収集されておらず、渤海国の首都である上京龍泉府の遺跡を金の上京会寧府の遺跡に比定したように、考証が杜撰であることを指摘する意見がある[51]。
明代に編纂された『高麗史』は、「或曰:昔我平州僧今俊遁入女真,居阿之古(按出虎)村,是謂金之先。或曰:平州僧金幸之子克守初入女真阿之古村,娶女真女生子曰古乙太師,古乙生活羅太師,活羅多子,長曰劾里鉢,季曰盈歌。盈歌最雄傑,得衆心。盈歌死,劾里鉢長子烏雅束嗣位。烏雅束卒,弟阿骨打立。」としているが、函普が高麗国平州僧侶今俊(金俊)、あるいは高麗国平州僧侶金幸の息子という根拠を一切提示しておらず、函普が高麗国平州僧侶今俊であると断言せずに、曖昧に「或曰(あるいは曰く)」としており、高麗に伝わる不確定情報に過ぎないことを示唆している[50]。
『松漠紀聞』は洪皓が女真から聞いた口承に基づくが、口承は様々な条件の制約のために偏差が生じる。したがって、函普の出自を明らかにするためには、実際の女真自身はどう考えていたのかを探らなければならない。女真自身による直接的な意見の方が口承よりも正確だからである。『金史』によると、阿骨打が女真文字を作成するにあたり、完顔希尹を任用した際に「既未有文字,亦未嘗有記録,故祖宗事皆不載。…宗翰好訪問女真老人,多得祖宗遺事。…詔書求訪祖宗遺事,以備国史,命勗与耶律迪越掌之。…采摭遺言旧事…自始祖以下十帝,綜為三巻。(文字も記録もなく、先祖の事績も記録されていない。…粘没喝は女真の老人を好んで訪問し、先祖の遺事を多く得た。金太宗即位後、国史を整備するために先祖の遺事を探し出すよう、完顔勗と耶律迪越をその責任者に任命した。完顔勗などが先祖の遺事を集めて『祖宗実録』を撰して、始祖以下十代の帝の事績を総合して三巻にまとめた)」と述べた。完顔勗などが編纂した『祖宗実録』は、実際の女真自身による意見であり、さらに、完顔勗などが検証・考証しており、最も歴史の事実に近い。元朝が『金史』編纂する際に参照した重要史料は、完顔勗などが編纂した『祖宗実録』であり、『金史』の成立は『松漠紀聞』などよりも後発であるが、函普の出自に関しては、最も歴史的事実に近いとみられる[50]。
| 著者 | 著書 | 記述内容 |
|---|---|---|
| トクト | 『金史』世紀・始祖函普紀 | 金之始祖諱函普,初從高麗來,年已六十餘矣。兄阿古廼好佛,留高麗不肯從,曰:「後世子孫必有能相聚者,吾不能去也。」獨與弟保活里俱。始祖居完顏部僕干水之涯,保活里居耶懶。其後胡十門以曷蘇館歸太祖,自言其祖兄弟三人相別而去,蓋自謂阿古廼之後。…始祖至完顔部,居久之,其部人嘗殺它族之人,由是兩族交惡,鬨鬭不能解。完顔部人謂始祖曰:「若能為部人解此怨,使兩族不相殺,部有賢女,年六十而未嫁,當以相配,仍為同部。」始祖曰:「諾。」廼自往諭之曰:「殺一人而鬭不解,損傷益多。曷若止誅首亂者一人,部内以物納償汝,可以無鬭而且獲利焉。」怨家從之。乃為約曰:「凡有殺傷人者,徴其家人口一、馬十偶、牸牛十、黄金六兩,與所殺傷之家,即兩解,不得私鬭。」曰:「謹如約。」女直之俗,殺人償馬牛三十自此始。既備償如約,部衆信服之,謝以青牛一,并許歸六十之婦。始祖乃以青牛為聘禮而納之,并得其貲産。後生二男,長曰烏魯,次曰斡魯,一女曰注思板,遂為完顔部人。 |
| トクト | 『金史』完顏胡十門伝 | 高永昌據東京,招曷蘇館人,衆畏高永昌兵強,且欲歸之。胡十門不肯從,召其族人謀曰:「吾遠祖兄弟三人,同出高麗。今大聖皇帝之祖入女直,吾祖留高麗,自高麗歸於遼。吾與皇帝皆三祖之後。皇帝受命即大位,遼之敗亡有征,吾豈能為永昌之臣哉!」 |
二つの史料はそれぞれ、函普が「同出高麗」あるいは「従高麗来」、すなわち「高麗から来た」といい、「高麗人」であるとはいっていない。これは表現の問題ではなく、深い意図を含んでおり、高麗王朝には様々な種族、新羅人・高麗人・漢人・女真などが暮らしていたため、高麗王朝から来た新羅人、高麗王朝から来た高麗人、高麗王朝から来た漢人、高麗王朝から来た女真なのか断定することはできない[50]。
貞祐四年(1216年)二月、金の重臣張行信は、王澮の「本朝紹高辛,黄帝之後(金朝は、黄帝の子孫である高辛より生まれた)」に関する議論に関して、「按『始祖実録』止称自高麗而来,未聞出于高辛(『祖宗実録』によれば、高麗から来たというだけで、高辛に由来したものではない)」と発言している。高辛は黄帝の子孫であるが、魏晋南北朝時代の「高句麗之支庶」出身の高雲は、顓頊の子孫を称しており、顓頊すなわち高陽氏は、黄帝の子孫である。張行信が「按『始祖実録』止称自高麗而来,未聞出于高辛(『祖宗実録』によれば、高麗から来たというだけで、高辛に由来したものではない)」と主張していることは、女真は自らを黄帝の子孫であることも、高句麗の子孫であることも認めていないことを意味する[50]。
元人が『金史』を編纂した際に参照した完顔勗が編纂した『祖宗実録』は函普が高麗人ではないことを明らかにしている。『金史』高麗伝は、「唐初,有粟末,黒水両部,皆臣属于高麗(唐初、粟末と黒水の二族があり、共に高句麗に臣属していた)」と記し、『金史』高麗伝「賛」には、「金人本出之附于高麗者(金人は、もともと高麗に附いていた)」と記している。孟古托力は、この史料に登場する「金人」は、金代の女真の祖先である函普を指していることを指摘している。したがって、『金史』は、女真の先祖である函普は「もともと高麗に附いていた者」と主張している。『金史』『新唐書』『唐会要』によると、黒水靺鞨は、かつて高句麗に隷属し、後に唐に隷属し、渤海国建国後は渤海国に隷属していが、唐代の黒水靺鞨は、五代十国時代に女真と呼ばれるようになり、以後、黒水靺鞨を女真の先祖と認識することが多くなり、遼初には黒水靺鞨を指して女真と呼ぶ事例もある[50]。
函普について、『松漠紀聞』『文献通考』は「新羅人」と記しているが、『金史』は「同出高麗」あるいは「従高麗来」と記している。唐が高句麗を滅した後、新羅は朝鮮半島の大部分を支配したが、918年、新羅の支配下にあった王建が高麗王朝を樹立した。935年、高麗王朝は新羅を滅し、朝鮮半島を統一する。新羅と高麗王朝は連続した二つの政権であるが、高麗王朝が興り、新羅が滅亡するまでの一時期、二つの政権が併存していた[50]。したがって、『金史』の「同出高麗」あるいは「従高麗来」という記事と、『松漠紀聞』『文献通考』の「新羅人」という記事を整合的に解釈するならば、函普とその先祖は、新羅入国後、高麗王朝に移った。孟古托力の考証によると、函普が朝鮮半島を離れる時期は921年前後、楊茂盛の考証によると、函普が朝鮮半島を離れる時期は「926年に遼が渤海国を滅して2年から3年以内」といい、朝鮮半島を離れる以前の函普は高麗王朝で暮らしていた。したがって、「新羅人」と記している『松漠紀聞』『文献通考』よりも「同出高麗」あるいは「従高麗来」と記している『金史』の方が正確であることを示唆している[50]。
宋または南宋末と元初の史料『三朝北盟会編』『建炎以来朝野雑記』『建炎以来繋年要録』『九朝編年備要』『続編両朝綱目備要』『大金国志』『文献通考』は、『松漠紀聞』の記事内容を引用し、函普を「新羅人」と記している。しかし、宋代の史料には『松漠紀聞』の記事を採用していないものがある[50]。苗耀が著した『神麓記』は『松漠紀聞』とは異なり、「女真始祖浦(函普),出自新羅,奔至阿触胡(按出虎),無所帰,遂依完顔因而氏焉,六十未娶。是時,酋豪以強凌弱,無所制度,浦劈木為克,如文契約,教人挙債生息,勤于耕種者,遂致巨富。若遇盗窃鶏豚狗馬者,以桎梏拘械,用柳条笞撻外,賠償七倍,法令厳峻,果断不私。由是,遠近皆伏,号為神明。有隣寨鼻察異酋長,姓結徒姑丹,小名聖貨者,有室女,年四十余,尚未婚,遂以牛馬財用農作之具,嫁之于浦。後女真衆酋結盟,推為首領。」と記している。文中では、函普は「新羅から来た」となっており、「高麗から来た」とする『金史』とは異なるが、それ以外の函普に関する内容は、『神麓記』と『金史』は一致している[50]。孟古托力や楊茂盛の考証によると、函普とその先祖は、新羅入国後、高麗王朝に移った女真である可能性が高く、苗耀が函普を「新羅人」と記さず、函普とその先祖が新羅で暮らしてたことを表現し、「新羅から来た」と記したことは見識があるともいえる[50]。『金史』によると、函普は「六十歳」を過ぎた女性と結婚し、子供を儲けたとあるが、『神麓記』では、女性を「四十余歳」としており、子供を儲ける年齢は「六十歳」よりも「四十余歳」の方が現実的である。かかる事実は、『神麓記』が事実関係を慎重に扱っていることを示唆する。また、洪皓が得た函普に関する口承と一致しない情報を苗耀が得て、『松漠紀聞』と異なる記述をおこなった可能性もあり、『松漠紀聞』と『神麓記』を比較した場合、『神麓記』はより女真自身の言説に近いといえる。『神麓記』は、函普は「新羅から来た」となっており、「高麗から来た」とする『金史』とは異なるが、それ以外の函普に関する内容は、『神麓記』と『金史』は一致しており、その観点からも『金史』の正確性が窺える[50]。
| 著者 | 著書 | 記述内容 |
|---|---|---|
| 鄭麟趾 | 『高麗史』睿宗世家二 |
|
| 鄭麟趾 | 『高麗史』睿宗世家三 |
|
『高麗史』睿宗世家二には、睿宗四年(1109年)六月、女真の裊弗や史顕などが高麗王朝に出使した時に、高麗王に「父母之国」と上奏したと記されている。また、『高麗史』睿宗世家三には、睿宗十二年(1117年)三月、高麗王は阿骨打などから「父母之邦」という記述のある書簡を送られたとある。しかし、高麗王朝を「父母之国」あるいは「父母之邦」と呼んだという記録だけでは、函普が高麗人であることの証明にはならず、具体的な考証が必要となる[50]。
完顔盈歌・烏雅束・阿骨打などが高麗王朝を「父母之国」あるいは「父母之邦」と称したのは、一定の理由があったとみられる。一時期、函普は高麗王朝で暮らしており、渤海統治下の諸民族が渤海人とされ、金統治下の諸民族が金人とされたように、函普も高麗人とみなされた。古代社会ではこのような広義と狭義の称を区別せず、混在して併用するのが常であり、完顔盈歌・烏雅束・阿骨打などは、函普が高麗王朝で暮らし、高麗文化の影響を受けたという側面から、広義の称において高麗王朝を「父母之国」あるいは「父母之邦」と称し、狭義の称、すなわち函普が高麗王朝統治下の女真であることを否定していない[50]。高麗王朝を「父母之国」あるいは「父母之邦」と称したとする『高麗史』の記事の背景には一定の理由がある。『高麗史』睿宗世家二の場合、高麗王朝が女真領を占領後、東北9城を築造したといい、その東北九城の返還を要求するために女真の裊弗や史顕などを使者として高麗王朝に派遣しており、東北九城の返還を実現するため、高麗王朝を「父母之国」と呼んだ[50]。すなわち、辞を卑しくしつつ、低姿勢を取らざるを得なかったのは、その国際的環境の緊張の要請からと考えられる[50]。
『高麗史』睿宗世家三の場合、金軍の保州占領時、契丹が保州を高麗王朝に献納したことから、阿骨打は保州を獲得するため使者を派遣し、女真と高麗王朝との関係を「父母之邦」であると述べたことから、事実上、友好関係を結ぶという以上の意味はない。女真が高麗王朝を「父母之国」あるいは「父母之邦」と称したとする記録はこの二例のみであり、その後、女真が高麗王朝を「父母之国」あるいは「父母之邦」と称したとする記録はない[50]。また、女真が高麗王朝を「父母之国」あるいは「父母之邦」と称したことに高麗人は同意しておらず、女真を「人面獣心」「貪而多詐」と称し、「夷狄」とみなしていた。宋が遼への共同攻撃に加わるため、金に使者を送ると、高麗の仁宗は宋の徽宗に医者を送り、「女真狼虎耳、不可交也」、つまり女真は狼虎耳であり、付き合うべきではないという書簡を送っており、女真を禽獣視し、同族と認識していないことは明らかであり、函普が新羅人あるは高麗人ではないことを示している。したがって、函普の出自について、狭義と広義の称から理解すべきであり、函普の狭義の称(民族)は女真である。一方、広義の族(事実上の国名)は、函普は新羅で暮らしていたため、渤海統治下の諸民族が渤海人とされ、金統治下の諸民族が金人とされたように、新羅で暮らしていた函普も新羅人とされ、その後、函普は新羅から高麗王朝に移り、高麗王朝で暮らし、高麗人という広義の称(事実上の国名)とされた[50]。
高麗遣上部大相可婁等進調。 — 日本書紀、天智紀10年正月丁末條
武藝忝當列國濫惣諸蕃,復高麗之舊居,有扶餘之遺俗。 — 続日本紀、神亀五年正月甲寅条
庚午。帝臨軒。高麗使楊承慶等貢方物。奏曰。高麗國王大欽茂言。 — 続日本紀、巻二二
黑水靺鞨居粛慎地,東瀕海,南接高麗,亦附於高麗。嘗以兵十五萬衆助高麗拒唐太宗,敗于安市。 — 金史、卷一、本紀第一 世紀
吾遠祖兄弟三人,同出高麗。今大聖皇帝之祖入女直,吾祖留高麗,自高麗歸於遼。吾與皇帝皆三祖之後。 — 金史、巻六十六、列伝第四
有合住者,亦稱始祖兄苗裔,但不知與胡十門相去幾從耳。 — 金史、巻六十六、列伝第四
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