喜界島

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喜界島

2011年3月撮影
所在地 日本の旗 日本・鹿児島県
所在海域 西側は東シナ海・東側は太平洋
所属諸島 奄美群島
座標 北緯28度19分1秒 東経129度56分22秒 / 北緯28.31694度 東経129.93944度 / 28.31694; 129.93944座標: 北緯28度19分1秒 東経129度56分22秒 / 北緯28.31694度 東経129.93944度 / 28.31694; 129.93944
面積 56.93 km2
海岸線長 48.6 km
最高標高 214 m
最高峰 七島鼻
喜界島の位置(鹿児島県内)
喜界島
喜界島
喜界島 (鹿児島県)
喜界島の位置(日本内)
喜界島
喜界島
喜界島 (日本)
 プロジェクト 地形
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喜界島(きかいじま、喜界島方言: キキャ[1])は、鹿児島県の離島で、鹿児島市と沖縄本島の間に連なる奄美群島内で最も北東部に位置する。鹿児島県大島郡喜界町に属し、人口は6千人弱。

地理

喜界島は奄美群島内で最も鹿児島市に近いが、同市から約380 km離れておりプロペラ旅客機で1時間、フェリーで11時間かかる。行政や経済等については喜界町を参照。

奄美大島に近い東の沖約20 kmの、東経130度線[注釈 1]上に位置している。東側の沖にはフィリピン海プレートが沈み込む位置に深い琉球海溝があるが、喜界島は珊瑚礁に囲まれており、景観の良さから百之台、阿伝集落、トンビ崎海岸、荒木海岸などが奄美群島国立公園に指定されている[2]。

隆起性サンゴ礁の島で、全島ほとんどがサンゴを起源とする石灰岩で出来ている。フィリピン海プレートの潜り込みによって約12万年前に海底から島として現れたと見られ、現在もプレートの影響を受けて年間約2 mmという高速で隆起を続けている。海岸段丘など、低い丘陵地が多い。

喜界島の位置(100x100内)
喜界島
喜界島の位置

自然

喜界島の空中写真。画像上方は北西方向。2008年12月3日撮影の41枚を合成作成。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)(現・地図・空中写真閲覧サービス)の空中写真を基に作成。

オオゴマダラ、アサギマダラなどの蝶が舞い飛び、近年はスクーバダイビングやホエールウォッチング[3]などのマリンレジャーのスポットとしても注目されつつある。

サトウキビ畑などの開発が進んでいるため、手付かずの山林が少なく、原生林が残る奄美大島などと比べると固有の動植物が少ないが、カタツムリや昆虫などに固有種が見つかっている。

ハブは生息していない。

動物
植物

歴史

喜界島南部の先山遺跡[7]から、約6000年前の縄文時代前期にあたる条痕文土器などが出土しており、その頃から島に人が定住していたとされる。

平安時代には大宰府と密接に繋がっていたことが、文献上記録されている。『日本紀略』長徳4年(998年)の記述として、大宰府が貴駕島に対して、暴れ回っている南蛮人を捕えるように命じている(南蛮賊)。ここで記述されている「南蛮人」とは、西に位置する奄美大島の島民を指しているものと『小右記』長徳3年(997年)の記述から判断されている。また、長徳5年(999年)に大宰府が朝廷に対して、南蛮人を追討したと報告しているが奄美群島の中心部から離れた喜界島に拠点が設けられたのは、島に有毒のハブが棲息していないことが理由の一つではないかと見られている。

喜界島は奄美群島に属しながら、中世には城久遺跡群に代表される大規模拠点を持ち、海上交易や物資集積の中核であった可能性がありうる喜界島。そのため、奄美の海上経済は、各島からの近距離輸送と喜界島のような結節点からの広域交易を組み合わせた、琉球経済圏とは別の奄美経済圏構造であった。 9世紀から15世紀にわたる城久遺跡群からも、白磁器や徳之島カムィ焼土器など、島外の遺物が多く、南西諸島の中でも独自性が強いとされる。最近の調査では12世紀の製鉄炉跡も多数発見された。 [1]

砂鉄経済圏

10世紀から12世紀(平安時代末期から鎌倉時代初期)にかけて、南西諸島を舞台とした環東シナ海交易ルートにおいて、鉄製品および鉄素材(塊錬鉄など)は極めて重要な経済的価値を持っていた。近年の考古学的調査により、砂鉄をはじめとする資源の調達と加工を巡り、種子島と喜界島の間で広域的な「砂鉄経済」と呼ぶべき交易関係が形成されていた可能性が指摘されている。喜界島における鉄生産:喜界島の中央部に位置する城久遺跡群や崩リ遺跡などからは、11世紀から12世紀前半にかけての大規模な製鉄炉跡、鍛冶炉跡、精錬鍛冶滓(ノロ)、そして原料となる砂鉄が多数出土している。これらの円筒形に近い製鉄炉は、当時の九州本土(熊本県の有明海沿岸など)の技術的影響を強く受けたものとみられている。喜界島は平坦な隆起サンゴ礁の島であり、地質学的に島内での砂鉄自給は不可能であるため、製鉄に使用された砂鉄は外部から搬入されたものであることが確実視されている。種子島の資源供給拠点としての役割:喜界島へ供給された砂鉄の有力な調達先(産地)の筆頭候補として挙げられているのが種子島である。種子島は古くから良質な砂鉄の宝庫として知られ、海岸部(現在の鉄浜海岸など)には大量の砂鉄が堆積していた。島内には中世から近世にかけてのたたら製鉄所跡(西之表市現和の武部製鉄所跡など)が点在しており、古くから製鉄・鍛冶の高度な技術的風土を有していた。環東シナ海交易と経済圏の形成:種子島から運ばれたとみられる砂鉄を原料に、喜界島で集中的に精錬・加工された鉄は、農耕具や武器などの鉄製品として南西諸島一帯へ供給された。喜界島は中国産の陶磁器や白磁、朝鮮半島産の遺物、九州本土の土器(カムィヤキなど)が大量に行き交う「環東シナ海交易の結節点」であり、鉄生産は同島が中世南島交易の中心的地位(大宰府の出先機関等とも推測される)を維持するための基盤となっていた。この、種子島の「砂鉄・燃料資源」と喜界島の「交易・生産拠点」としての機能が結びついた広域経済圏の存在は、従来の日本本土を中心とした歴史観(南島史)を大きく塗り替える発見として重視されている。

[3] [4] [5] [6]


9世紀から15世紀にわたる城久遺跡群からも、白磁器や徳之島カムィ焼土器など、島外の遺物が多く、南西諸島の中でも独自性が強いとされる[8]。最近の調査では12世紀の製鉄炉跡も多数発見された[9]。 

江戸時代に薩摩藩重臣にあて『薩摩経緯記』を著した佐藤信淵は、喜界島・屋久島・種子島の島民気質について「豊かになろうと心がける気持ちが弱く、産業に励む者は希」としつつも、島の経営方針について「島民は愚昧であるが誠実をもって教化し、よく島民に勉強を勧めて物産を多く産出させるべき」と説いている[10]。

1853年にマシュー・ペリーが日本に到来した際に喜界島を「クレオパトラ・アイランド」と名付けたとして地元の観光業などがPRしていたが、2000年に文献が再検討された結果、喜界島は「バンガロー・アイランド」と名付けられていたことが判明した[注釈 2]。

平安時代から中世にかけて流罪の島として存在した鬼界ヶ島と同一の島である説が古くから唱えられているが、喜界島は『平家物語』にある火山島でなく高山もないなど記述との齟齬があることから、硫黄島とする説も有力視されているが、島内には『平家物語』において鬼界ヶ島に流された逸話で知られる俊寛の像が建てられている。

沿革

産業

農業
島一面にサトウキビ畑が広がる。米作はほとんどない。かつての農業用水の水源は、ため池に頼るのみであったが、地下ダムの建設と用水路の敷設により生産量が安定した。また、白ゴマの生産量は国内首位。花良治(けらじ)みかん、喜界島みかん(キャーミカン、クリハー)という島みかん[17]やタンカンなどの柑橘類、ソラマメ、パパイヤの産地としても知られる。近年はトマト、マンゴー、メロンの栽培も増えている。
水産業
近海の魚やクルマエビ、海ぶどうなどの漁や養殖が行われている。
工業
サトウキビの搾り汁を煮詰めて作った黒砂糖と米麹から奄美群島特産の奄美黒糖焼酎が作られる。喜界島には朝日酒造と喜界島酒造がある。このほか喜界島特産種の「島そら豆」を使ったグルテンフリー醤油の醸造が開始された[18]。粗糖、ザラメの製造、そら豆やゴマを利用した菓子などの食品工業も行なわれている。

文化

言語

喜界語は、国際SILでは、琉球語の中の喜界島方言とひとまとめにされてKZGというコードが与えられているが、現地調査に基づけば、主に母音などの音韻的特徴から北部喜界島方言(小野津、志戸桶など)は奄美大島方言、徳之島方言とならぶ北奄美方言に属すが、南部喜界島方言(湾、阿伝、上嘉鉄など)は沖永良部島方言、与論島方言とならぶ沖永良部与論沖縄北部諸方言に属すとする説[19]が有力である。北部喜界島方言には中舌母音2種があり、母音は7種(i、ɪ、u、e、ɘ、o、a)であるが、南部喜界島方言では5種(i、u、e、o、a)である。本土の単母音の[e]は[ɪ]に、単母音の[o]は[u]に対応し、[e]、[o]、[ɘ]はそれぞれ [ai]、[au]、[ae] など、母音の連続(連母音)から変化した例が多い。また、北部喜界島方言ではハ行の子音が [p](パ行音)または [ ɸ ](ファ行音)と対応する例が多いが、南部喜界島方言ではハ行音である(例:蝿は北部で [peː]、南部で [heː])。北部喜界島方言ではツ、ヅの音が[ tsu ]、[ dzu]である例が多いが、南部喜界島方言ではトゥ [tu]、ドゥ [du] と対応する例が多く、キの音が南部喜界島方言ではチ [ tɕi]と対応する例が多いが、北部喜界島方言ではキ [ki]である(例:傷は北部でキズ [kidzu]、南部で チドゥ [tɕidu] など[20])。これらの各音韻の違いの境界線は一致しておらず、アクセントの違いを含め、島内各集落間でグラデーションのように徐々に異なっている。カの音がハ [ha](または [ xa])となる例は、全島共通している(例:金は北部でハネィ [hanɪ]、南部でハニ [hani])。

音楽

食文化

建造物

台風の被害を避けるため、珊瑚礁の石を使った石垣が民家の周りに作られた。また、アカテツの木も防風林として集落に植えられた。

水源に乏しい土地のため、横穴式斜面井戸が掘られ「ウリガー」「ウリハー」(降り川)と呼ばれた。近年は農業に利用するための地下ダムが多く作られている。水位を肉眼で見ることができる国内唯一の地下ダムもある。

第二次世界大戦時に戦闘機を格納するための掩体壕(えんたいごう)が数多く作られた。湾集落には現在も残されている。

宗教

祖霊信仰、自然崇拝が主で、女司祭ノロによる祭礼が行われていた。民間では巫女であるユタに霊的に各種問題の解決、判断を依頼していた。

葬法に関しては、琉球王国とも共通する風葬の風習が中世から20世紀まではあった。1966年に火葬場ができてからは全て火葬に代わっている。崖下に喪屋(ムヤ)と呼ばれる横穴墓を掘り、そこに遺体を安置する[21]。

その他

19世紀末から20世紀初頭も首里など、沖縄本島からの文化移入は盛んで、泡盛の製法、赤土を使った陶器の窯などの技術が移入されている。現在島内には純黒糖と米麹を原料とする奄美黒糖焼酎の蔵元が二社ある。

交通

空路

喜界空港

通常ダイヤではいずれも午前・午後の1日2往復であり、羽田または伊丹発では鹿児島経由・奄美経由のいずれのルートでも午後の便で喜界空港に到着できる。喜界発では鹿児島行きの午後便に乗ると羽田・伊丹とも当日中に到着可能である。

道路

航路

喜界港(湾港)

江戸時代元禄年間は、奄美大島との間は、笠利の節田と湾泊の間で渡しが行なわれていた。

路線バス

観光

百之台展望台からの眺望
雁股の泉
喜界島手久津久集落にある樹齢100年を超えるガジュマル巨木

奄美群島では与論島、沖永良部島と並んでハブがいない島である。

  • 百之台 - 奄美群島国立公園の一部。奄美十景の1つ。展望台から島の南東側海岸を一望できる。
  • 七島鼻 - 朝日と夕日の名所。標高211.96mの島内最高地点があり、旧日本軍の通信施設跡がある。
  • 空港臨海公園
    • スギラビーチ
    • 喜界ガーデンゴルフ場
  • 池治海水浴場 - 近くにグラスボートの乗り場がある。
  • 阿伝集落、嘉鈍集落 - サンゴの石垣が多く残され、奄美群島国立公園に指定[2]。島内にはハブが生息していないことから、棲みかとなりやすいと敬遠される石垣も多く作られ、今まで残ったといわれている。
  • ムチャ加那公園 - 小野津集落。シマ唄「ムチャ加那節」の碑がある。
  • 城久遺跡群 - 城久地区の9世紀から15世紀の8遺跡の総称(国の史跡)
  • ウフヤグチ鍾乳洞 - 防空陣地として使われたため、鍾乳石や石筍は壊されている。洞内には入れない。
  • ガジュマル巨木 - 手久津久集落にある。樹齢は100年を超えると言われており、高さ17.7メートル[24]。

その他

脚注

注釈

  1. ↑ 島の中央よりも東寄りでε形の複雑な入江に面した早町集落と北側の小野津集落(海岸近くに位置を示すモニュメントあり)を通っており、真北に長崎市がある。
  2. ↑ 「クレオパトラ・アイランド」は十島村の横当島、上ノ根島ではないかとされる。
  3. ↑ 運航距離は約26㎞(16マイル)と日本の国内線としては最も短い。

出典

  1. ↑ “喜界島”. コトバンク. 2026年2月2日閲覧。
  2. 1 2 3 4 5 “喜界島の国立公園指定地”. 喜界島ナビ.com. 喜界島観光物産協会 (2017年3月10日). 2017年3月12日閲覧。
  3. 1 2 “【荒木・中里遊歩道】喜界島の自然に癒されるサンゴ礁や夕日とクジラスポット”. りとふる. 2026年2月2日閲覧。
  4. ↑ おかえり!喜界馬!『広報きかい』2019年1月号, p11, 喜界町
  5. ↑ “ホエールウォッチング情報(1月15日)!”. 喜界町. 2019年1月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月2日閲覧。
  6. ↑ “奄美大島周辺におけるミナミバンドウイルカの出現状況に関する論文が掲載されました”. 沖縄美ら島財団. 2026年2月2日閲覧。
  7. ↑ “先山遺跡”. sitereports.nabunken.go.jp. 2022年6月4日閲覧。
  8. ↑ 『発掘された日本列島2008 文化庁編』(朝日新聞出版) ISBN 978-4-02250415-9 p.62
  9. ↑ “南島史が塗り替わる 12世紀製鉄炉跡の衝撃”. 日本経済新聞 (2015年7月30日). 2026年2月2日閲覧。
  10. ↑ 佐藤宏之 著 中塚武 監修「第二章 近世種子島の気候変動と地域社会」『気候変動から読み直す日本史6 近世の列島を俯瞰する』p53 2020年11月30日 臨川書店 全国書誌番号:23471480
  11. ↑ “喜界島の「喜」とは何か? - 株式会社風と光”. 2022年6月4日閲覧。
  12. ↑ “喜界島酒造くろちゅうマガジン29 喜界島驚きの遺跡”. www.kurochu.jp. 2022年6月4日閲覧。
  13. ↑ Kyōkai kara mita uchi to soto : "Kyūshū shigaku" sōkan 50-shūnen kinen ronbunshū ge. Kyūshū Shigaku Kenkyūkai, 九州史学研究会.. Tōkyō: Iwata Shoin. (2008). ISBN 978-4-87294-534-8. OCLC 308171816
  14. ↑ “勝連屋敷跡(かつれんやしきあと) - 喜界島ナビ” (2022年4月20日). 2022年6月4日閲覧。
  15. ↑ 鹿児島県. “宇留満乃日記”. 鹿児島県. 2022年6月4日閲覧。
  16. ↑ 竹内譲『喜界島の民俗』黒潮文化会、1969年、1頁。doi:10.11501/9768943。
  17. ↑ “島みかん(クリハー、ケラジみかん)”. 喜界町. 2007年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  18. ↑ 「離島輝け 夢はでっかく」(『日経産業新聞』2017年8月25日1面)
  19. ↑ 中本正智・中松竹雄「南島方言の概説」(『講座方言学10 沖縄・奄美の方言』国書刊行会、1984年)
  20. ↑ 木部暢子・窪薗晴夫 ほか『消滅危機方言の調査・保存のための総合的研究 喜界島方言調査報告書』(国立国語研究所、2011年)
  21. ↑ 安陪光正「与論島と喜界島における風葬の変遷」(『西日本文化』2012年2月号)pp42-47、福岡、西日本文化協会
  22. ↑ 日本エアコミューター (JAC)によりJAL便名での運航
  23. ↑ 路線バス(島バス) - 喜界島ナビ.com(ポータルサイト、2010年11月1日閲覧)
  24. ↑ 喜界町. “ガジュマル巨木”. 喜界町. 2025年7月5日閲覧。

参考文献

  • 『日琉交易の黎明 ヤマトからの衝撃』(叢書・文化学の越境17)谷川健一編、森話社、2008年
  • 『古代中世の境界領域 キカイガシマの世界』池田榮史編、高志書店、2008年

外部リンク