大法寺 (江戸川区)
| 大法寺 | |
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| 所在地 | 東京都江戸川区平井1-25-37[1] |
| 位置 | 北緯35度42分11.8秒 東経139度51分02.5秒 / 北緯35.703278度 東経139.850694度座標: 北緯35度42分11.8秒 東経139度51分02.5秒 / 北緯35.703278度 東経139.850694度 |
| 山号 | 宝聚山[1] |
| 宗派 | 日蓮宗[1] |
| 創建年 | 大永2年(1522年)[2] |
| 開山 | 大権院日巧[1] |
| 法人番号 | 3011705000132 |
大法寺(だいほうじ)は、東京都江戸川区平井にある日蓮宗の寺院。大権院日巧が大永2年(1522年)に創建[3]。山号は宝聚山。旧本山は本所法恩寺、小西法縁。日蓮が刻んだとされる広布石は、疱瘡の守護として江戸時代に庶民の信仰を集めた[4]。常磐津の岩沢古式部、俳人の四世咫尺斎寥和の墓所がある[1]。
歴史
鎌倉時代・広布石の宝塔建立
鎌倉時代の建長5年(1253年)夏、開宗まもない日蓮(31歳)は房州(千葉県南部)の清澄寺を追われ鎌倉へ向っていた。道中の亀戸(東京都江東区)で武家の千葉某が日蓮の教えに帰依、日蓮から書き与えられた題目『南無妙法蓮華経』を石に刻み、宝塔を建立した。石は日蓮が広宣流布の大願をこめた「広布石」と人々から呼ばれ、参拝祈願されるようになった[1][3]。
室町時代・大権院日巧が開山
宝塔建立から250年以上を経た室町時代、千葉常明の子・万千代(6歳)が疱瘡を病んで没した晩、常明の夢枕に三十番神が現われ「広布石護持の功徳により子を助ける。成長したら出家させよ」と告げられたという。生き返った万千代は成人すると本所(墨田区)の法恩寺住職・日悦の弟子となり、名を大権院日巧と改めた。日巧は大永2年(1522年)、法恩寺の境内に大法寺を建立。奉安した三十番神と広布石は江戸時代に疱瘡の神として広く人々から信仰されたと伝わる[1][3]。江戸名所図会にも登場する広布石は千葉石とも呼ばれ、現在も寺宝としている[4]。
昭和時代・被災からの復興移転
草創当初、本所にあった大法寺は麹町に移転、その後火災で谷中へ移り、元禄年中(1688~1704年)には本所業平へ戻ったとされるが、大正12年(1923年)に起きた関東大震災で寺院が再び焼失[1]。被災した大法寺47世・順祥院日進は、国が推し進める帝都復興計画の後押しもあり[5][6]、昭和4年(1929年)11月5日に江戸川区平井へ移転し新たな寺院を建立した[3]。
昭和11年(1936年)千葉県茂原市にある日蓮宗本山の1つ、常在山藻原寺の78世貫首・常壽院日我が没すると、江戸川区一之江の感應寺36世・妙宏院日隆が藻原寺79世貫首に就任。大法寺47世・日進が感應寺37世を継ぎ、大法寺48世を日隆の子・泰観院日養が継承した[7][8]。
交通アクセス
- 平井駅より徒歩13分。
近隣の日蓮宗寺院
脚注
- 1 2 3 4 5 6 7 8 江戸川区史.
- ↑ 大法寺の正門前に立てられた江戸川教育委員会の掲示板や『小西法縁名鑑』に大永2年(1522年)創建とあり、寺が公式に認めた創建年と考えられる。一方で江戸時代の地誌『新編江戸志』の明記を基に『本所區史』『東京名所図会』『江戸川区史』には大永6年(1526年)創建と記されている
- 1 2 3 4 “大法寺|江戸川区平井にある日蓮宗寺院”. 猫の足あと. 2026年10月26日閲覧。
- 1 2 むかし墨田にあったお寺 1983, p. 3.
- ↑ “関東大震災後の寺院の経営と再建”. 市街地寺院研究会(まちでら研). 東京理科大学総合研究機構 火災科学研究センターPD研究員 田中 傑. 2026年10月26日閲覧。
- ↑ “関東大震災による寺院移転:「得生院誌」をめぐって”. 歴史地震研究会. 小堀鐸二研究所 武村雅之. 2026年10月26日閲覧。
- ↑ 『小西法縁名鑑』一乗寺、1977年11月25日、27-28,31-32,89頁。
- ↑ 『日蓮宗事典』日蓮宗宗務院、1981年10月、1295頁。
参考文献
- 「民俗・文化・自然編 第二章 神社と寺院 第二節 寺院 三 各神社の由緒沿革 九二 大法寺」『江戸川区史』 第三巻、江戸川区、1976年3月、535頁。
- 墨田区教育委員会社会教育課編集『むかし墨田にあったお寺』墨田区教育委員会社会教育課、1983年3月、3頁。
関連資料
- 『東京名所図会』