安武方清

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安武方清
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 不明
死没 不明
改名 亀菊丸→方清→戸次鎮安→安武茂庵→東統番
別名 九左衛門、茂庵
主君 大友宗麟→義統→立花宗茂
氏族 菅原氏流高辻家庶流安武氏→戸次氏→東氏
父母

父:安武鎮政[注釈 1]

母:問註所鑑豊[注釈 2]娘・仁志姫[注釈 3]
養父:立花道雪、筥崎座主麟清[10]、戸次鎮林
兄弟

方清、吉子[注釈 4](米多比鎮久室)
異母兄:安武政勝[注釈 5]
異父妹:誾千代(立花道雪娘、立花宗茂正室)
異母弟:安武与作[注釈 6]

養兄弟:立花道清[注釈 7]、大鶴鎮治[注釈 8]室[注釈 9]、戸次政千代、立花宗茂、戸次鎮連、戸次親延娘(小野鎮幸室)、甲斐(高橋紹運次女、立花成家室)
子 安武左太輔、安武小十郎
養子:東豪清[注釈 10]
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安武 方清(やすたけ かたきよ/ほうせい)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。大友氏、立花氏の家臣。筥崎座主、法印、大僧正。

略歴

父は安武鎮政とされ、父母が離縁した後、母が立花道雪の継室として再嫁したため、その養子となる。後に大友義鎮(宗麟)の従兄弟で筥崎座主・麟清の養子となる。

天正6年(1578年)12月1日、龍造寺隆信と秋月種実と筑紫広門の連合軍が筑前国に侵攻する際、道雪の命令により、自身の組織する箱崎党400余名の兵を率いて立花山城に籠城した[13]。

天正14年(1586年)から始まる島津氏の筑前国侵攻時には、道雪の継承者・立花宗茂を協力のため再度箱崎党400余名の兵を率いて立花山城に籠城した。

天正15年(1587年)8月には大僧正となる。

小早川隆景が筑前の国主となると、天正19年(1591年)箱崎と多々良に新たな橋を建てた際に、その現場指揮に当たった。

のち立花宗茂に従って筑後柳川に行く、朝鮮派兵で碧蹄館の戦いに無嗣のまま戦死した立花・戸次一門の立花鎮林(戸次鎮林)の跡を継ぐ。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、立花宗茂が改易されると、その翌年に出家して茂庵と称し、家督を嫡男・豪清に譲った。元和6年(1620年)、立花宗茂が陸奥国棚倉から柳川藩主となった際に、茂庵は200石を賜る。茂庵の養子である東蔵人豪清も300石を賜る。

子孫は柳川藩士として仕えた。茂庵の名は現在も柳川市茂庵町(茂庵小路)として残っている。

脚注

注釈

  1. ↑
  2. ↑ 問註所安芸守。永祿2年(1559年)または永祿7年(1564年)4月2日(一説は5月2日)または永禄10年(1567年)7月11日、対筑紫惟門の筑前御笠郡侍島の戦いで戦死した。戒名:成德院本譽了覺大居士。
    • 筑前国侍島に於て、去る二日合戦のみぎり、親父鑑豊ならびに同名親類被官已下数十人戦死粉骨のおもむき、忠儀比類無く候、就中鑑豊事、連々頼み入り候処、かくの如きの次第、朦気賢察の前に候、併せて御名字の高名、永々忘却有るべからず候、必ず追ってこれを賀すべくの段、猶年寄共に申すべく候、恐々謹言 卯月(4月)七日(永祿七年) 問註所刑部大輔殿へ(鎮連)[1][2][3][4][5][6][7]
    • 大友義鎮は永禄5年(1562年)に剃髪した以降、文書の署名および花押を「宗麟」と改めている。したがって、本書状の内容に見られる「義鎮」期の署名および花押の様式から判断すると、永禄7年ではなく永禄2年のものとみるのが妥当である。「永禄7年」、「5月2日」、「永禄10年(1567年)7月11日」とする説は、問註所家譜・文書・系図・墓碑などの誤記によって生じたものと考えられる。
    • また、「天正六年戊寅(1578年)3月1日(または11日)卒」および「戒名:脊梁院殿章窓圭文大禅定門」は、鑑豊の父・加賀守親照のこと。「天正二年甲戌(1574年)6月8日卒」および「戒名:勝楽寺殿松巖善聴大居士」は、鑑豊の子・刑部少(大)輔入道善聴鎮連のこと。
  3. ↑ 宝樹院殿満誉慶円大禅定尼[8][9]
  4. ↑ 於吉、於與之とも。道雪の後妻(問注所氏=仁志姫=宝樹院)の連れ子(=道雪養女、誾千代の異父姉)。法名:清龍院殿信誉宗感大姉。寬永10年10月26日卒[11][12]。
  5. ↑ 安武安右衛門乗村。安武恒春氏所蔵文書、安武系図。安武鎮政の長男。
  6. ↑ 安武鎮政末子、二代目安武河内守。子に安武惣左衛門。安武恒春氏所蔵文書
  7. ↑
  8. ↑ 立花五右衛門鎮治(元の姓大鶴、大津留鎮正の子)
  9. ↑
  10. ↑ 戸次蔵人信番、津山治部左衛門。

出典

参考文献

  • 筑前博多史料豊前覚書 城戸清種著、川添 昭二校訂、文献出版、昭55