高橋紹運

ウィキペディアから、無料の百科事典
 
高橋紹運 / 高橋鎮種
天叟寺所蔵
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文17年9月24日(1548年10月25日)
死没 天正14年7月27日(1586年9月10日)
改名 千寿丸(幼名)→吉弘弥七郎→鎮理、高橋鎮種→紹運(号)
別名 通称:弥七郎、三河入道、主膳兵衛、主膳入道(仮名)
渾名:乱世の華、風神、戦神の化身、弓矢八幡・摩利支天の化身[1]
諡号 紹運、紹雲
神号 三岩霊神、性海霊神
戒名 天叟院殿性海紹運大居士
墓所 福岡県太宰府市の西正寺
岩屋城二の丸跡の高橋紹運墓
福岡県柳川市の天叟寺
福岡県大牟田市の紹運寺
官位 主膳正
幕府 室町幕府
主君 大友宗麟→義統
氏族 吉弘氏→高橋氏
父母 父:吉弘鑑理、母:大友義鑑娘[注釈 1]、高橋鑑種姉[異説][3]
兄弟 吉弘鎮信、紹運、桜井正続室、戸次鎮秀室、尊寿院(大友義統室)
妻 正室:斎藤鎮実の妹・宋雲院[注釈 2][注釈 3]
側室:萩尾大学の娘・松尾殿[異説][5]
子

立花宗茂、統増、市郎丸(統重)[異説]、某[異説][注釈 4]

娘・甲斐/信解院[注釈 5](立花成家室[9][10])、娘・於千代/栄長院[注釈 6](小田部統房室)、娘・瑠璃/退清院[注釈 7][注釈 8][12](大友義乗室)、嘉也/慈光院[注釈 9](立花親家室後に細川興元室)[14]
テンプレートを表示

高橋 紹運(たかはし じょううん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。

紹運は法名であり、初めは吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)と称した。

生涯

高橋家相続

天文17年(1548年)、大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男として豊後国筧城[15]に生まれる。義鑑の子・大友義鎮(のちの宗麟)と父・鑑理から1字ずつ賜り鎮理と名乗る。初陣は13歳で永禄4年(1561年)の第四次門司城の戦いと考えられている[16]。永禄10年(1567年)、大友氏の家臣であった高橋鑑種が豊前国・筑前国・肥前国の国人と連携して謀反を起こした際、父・鑑理や兄・吉弘鎮信と共に出陣して武功を挙げた。

永禄11年(1568年)、立花鑑載討伐の時、ある夜襲の作戦で兵士を励むために、自分の握飯を食べて配下たちにも与え食べさせ、士気を上げたという[17]。

永禄12年(1569年)に大友義鎮(宗麟)の命により高橋氏の岩屋城と宝満城の2城を継ぎ[18]、名を鎮種と改めた[19][20]。以降は北九州の軍権を任されていた立花道雪と共に筑前国を支配することとなる[21]。

北九州各地を転戦

天正6年(1578年)耳川の戦いで大友氏は薩摩国の島津氏に大敗を喫する。この大敗により兄・吉弘鎮信、義兄・斎藤鎮実、大友氏重臣の角隈石宗、佐伯惟教、田北鎮周など多数の有力武将が戦死。肥前国の龍造寺氏や筑後国の筑紫広門、筑前国の秋月種実らが大友領への侵攻を開始した。同年、鎮種は剃髮して紹運と号している。

その後、紹運含む大友の筑前五城将(道雪、紹運と鷲ヶ嶽城主・大津留鎮俊[注釈 10]、大津留鎮正[注釈 11]、荒平城(安楽平城)主・小田部鎮元[注釈 12]、柑子岳城主先後に臼杵鎮続、木付鑑実)と共に筑前において数年間、秋月種実・筑紫広門・原田隆種・田原鑑尚[注釈 13]、龍造寺隆信、宗像氏貞[注釈 14]、麻生元重[注釈 15]、杉連並、問註所鑑景[注釈 16]など筑前、筑後、肥前諸勢力に対して数々の戦を繰り返した。その戦いの一覧は以下の通りである。

天正9年(1581年)、男子のいない道雪の度重なる要請により、嫡男・統虎を道雪の娘・誾千代の婿養子とした[192][193][194][195][196][197]。これにより高橋家は次男・高橋統増が継ぐこととなる。

筑後遠征

天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺氏が敗北すると、大友氏は失地回復の好機と見て3月、豊後国の大友軍・田原親家と田原親盛は7,000兵を率いて黒木家永の筑後猫尾城を攻撃したが、城方の奮戦や猫尾城の支城・高牟礼城に成富茂安、太田茂連[注釈 18]、倉町信光[注釈 19]、久布白信員[注釈 20]、土肥家実[注釈 21]、馬場信貞[注釈 22]ら龍造寺方の援軍2,000余兵力を前に戦線は膠着した。 8月18日、道雪と紹運は大友義統の出兵要請を受け、両家合わせておよそ5,000の兵で出陣し、山険難所を越え[注釈 23]、鉄砲隊で埋伏していた秋月、筑紫、草野、星野連合軍を鉄砲名手の家臣・市川平兵衛と立花家臣たちの奮戦により蹴散らし(田主丸町・片瀬、恵利渡口・石垣表の戦い)、1日で筑前から筑後まで15里(約60キロ)の行程を走って、8月19日夕方、高牟礼城下に到着した。20日に道雪はさっそく城将・椿原正治[注釈 24]を調略し、24日に高牟礼城は開城降服して、土肥家実らも城から佐賀へ戻った[199][200]。つづいて犬尾城の河崎鎮堯(川崎重高)も降り、25日には川崎の大籠山に陣替えしたが、筑後高良山座主・丹波良寛や大祝・鏡山保真、大宮司・宗崎孝直、上妻鎮政、甘木家長、社家・稲員安守らも大友軍に加わった[201][202][200][203][204][205]。

28日[注釈 25]には道雪一族の立花鎮実(戸次右衛門大夫)[注釈 26]を将として800の別働隊を率いて坂東寺に入り城島城を攻めた。立花勢は鎮実以下、竹迫鑑種(竹迫日向守)と安倍親常(安倍六弥太)[212][注釈 27]が勇戦して数人を討ち取って城の外郭を壊したが、城主西牟田氏の率いる300城兵の激しい抵抗に遭って100余りの死傷者を出して敗走した[注釈 28]。 道雪と紹運の本隊は酒見・榎津・小保などの集落を焼き払って、折地、古島、水田を経て柳川の城下町に至った。城主の龍造寺家晴が籠城に徹したことで[214][215]、両将は城下町を焼いた後、軍勢を転じて高良山にいた大友諸将と軍議をひらいて猫尾城の総攻撃を決めて、9月1日(一説には5日)[216]に落城させて黒木家永は降伏もしくは自害した[199][217][218][219][220]。

9月8日から11日まで、蒲池鎮運の山下城や谷川城、辺春城、兼松城、山崎城など筑後諸城を攻落し、西牟田氏・和仁氏・辺春氏・三池氏が近日中に龍造寺氏と手切れし降伏するとの申し出を受諾した[221]。この間の9日に柳川城周辺・東側の白鳥表に小競合いがあり[222]、10日に上瀬高・下瀬高・鷹尾村を焼き払った。 そして15日にもう一度坂東寺に陣を取り、豊後大友軍の総大将・田原親家と軍議して三潴郡の西牟田村・酒見村・榎津近辺数百の民家を焼き払い、山門郡内の龍造寺方の諸城を攻めて城主・田尻鑑種が不在であった鷹尾城 (筑後国)も占領した[注釈 29]。 次に筑後最大の処点・柳川城の攻略を始めようとしたが、この城は九州でも屈指の難攻不落の水城であり、縦横に張り巡らされた水路と広がる沼沢地が天然の防壁を形成していた。城主の龍造寺家晴は、空閑氏・内田氏・犬塚氏・草野鎮永[注釈 30]ら諸氏の兵力数千を集めて籠城し、城西側の海岸から佐賀方面と自由に往来する数十艘の番船によって水路を確保し、十分な用水と兵糧を備えて固く守り、容易に出撃しなかった。 さらに城の防衛体制として、西北には太田家豊[注釈 31]・太田茂連兄弟が酒見城を守り、要地である榎津城には中野清明[注釈 32]が配置され、東方の蒲船津城には百武賢兼の妻・百武円久尼[注釈 33]が在番していた。これらの支城が相互に連携し、柳川城を中心とする防衛網を形成して頑強に抗戦したので、攻略の進展ができなかった。そのため、10月3日には筑後高良山座主・丹波良寛の勧めもあって、高良山に引揚げた[224]。

10月4日、両軍は草野鎮永、草野親永[注釈 34]親子の竹井城を進攻しこの城を焼却した。28日、発心岳城に逃げ込んだ草野を追撃したが、天険を利用して築いたこの城は容易く落ちることができないので、兵を転じて星野鎮胤の鷹取城・星野城(山ノ中城)・妙見城(生葉城)・福丸城、そして11月14日に問註所康純の井上城を攻めて牽制する[225]、さらに秋月領の甘木、甘水辺りまで焼き討ちした後、もう一度三潴郡の諸城を掃討した。その際、田原親家と秋月軍との戦いは敗れたので、道雪と紹運は高良山に戻って朽網鑑康、志賀親守らと合流し、高良山を中心に筑後川に沿った柳坂から北野に布陣したまま、年の越えを迎える[226][227][228][229]。

天正13年(1585年)2月上旬から4月23日まで龍造寺政家・龍造寺家晴・鍋島直茂・江上家種・後藤家信・筑紫広門・波多親・草野鎮永・星野鎮胤・秋月種実・問註所鑑景・城井鎮房・長野種信・千手氏など肥前・筑前・筑後・豊前連合軍およそ30,000余の大軍と小森野[230][231]、十三部[232]・千本杉・祇園原など(総じて筒川合戦や久留米合戦)[233][234] で数々の激戦があった。 道雪と紹運・鑑康・良寬ら大友軍は9,800の劣勢ながら、兵法・戦術や兵器・陣形を活用してしばしば局地戦で敵大軍を撃破し、討ち取った雑兵数百及び兜首計約470の戦果を挙げたが、決定的勝利が得られず、そのまま両軍対峙の状態となった[235][236][237][238]。

天正13年(1585年)9月、道雪が病没[239][240][241][242]。これを好機と見た筑紫広門に宝満城を奪取されたため、紹運は筑後遠征を中止して宝満城を奪回する[243][244][245]。のちに広門と和睦し、広門の娘・加袮を次男・統増の正室に迎えた[246][247]。

岩屋城の戦い

天正14年(1586年)、島津氏が大友氏を滅ぼすべく岩屋城・宝満山城のある太宰府まで北上[248][249]。紹運は防御の薄い岩屋城にておよそ763名と共に迎撃、島津軍の降伏勧告を拒絶し、半月に及ぶ戦い(岩屋城の戦い)の末、敵兵多数を道連れにし玉砕。岩屋城は陥落した。享年39[250][251][252][253][254][255][256]。

激戦の様子について、

  • 『筑前続風土記』には「終日終夜、鉄砲の音やむ時なく、士卒のおめき叫ぶ声、大地もひびくばかりなり。城中にはここを死場所と定めたれば、攻め口を一足も引退らず、命を限りに防ぎ戦ふ。殊に鉄砲の上手多かりければ、寄せ手楯に遁れ、竹把を付ける者共打ち殺さる事おびただし」
  • 『北肥戦記』には「合戦数度に及びしかども、当城は究竟の要害といい、城主は無双の大将といい、城中僅かの小勢にて五万の寄せ手に対し、更に優劣なかりけり」
  • 『西藩野史』には「紹運雄略絶倫、兵をあげて撃ち出し、薩軍破ること数回、殺傷甚だ多し」

などと記されている。

紹運は度々の降伏勧告を拒絶し玉砕したというのが通説だが、当時の島津の記録である『上井覚兼日記』天正14年7月26日条において、紹運が笠の陣まで出向き退城しないことを条件に講和を持ちかけたとの記録も存在する。

墓所、死後

墓所は家臣・藤内重勝が開いた福岡県太宰府市の西正寺、岩屋城二の丸跡の高橋紹運墓、子の柳河藩初代藩主・立花宗茂が建立した福岡県柳川市の天叟寺と孫の三池藩初代藩主・立花種次が建立した福岡県大牟田市の紹運寺[257]。

子孫の三池藩六代藩主立花種周と七代藩主立花種善は、文化二年(1805年)奥州伊達郡下手渡村(福島県伊達市)に移封となり、天保6年(1835年)種善の長男・下手渡藩二代藩主立花種温の代に紹運の義烈を顕彰すべく、7月5日には紹運に性海霊神の神号が贈神されて神祇伯に請いて三笠神社が創建された。明治維新により三池復封となり明治3年遷座、明治4年縣社に列せられ明治16年火事により明治29年8月現在地に遷座された。以後三笠神社は郷土の発展とともに武勇の神をまつる神社として広く尊崇されている[258]。

人物・逸話

  • 度量寛大にして、高義真実の士なり、此人こそ英雄なるべし[259]。
  • 「文武に通じ徳智謀達し、諸人に情深く忠賞も時宜に応じ私欲は無く、古今稀なる名将であり」、数百人の侍が岩屋城で共に戦死した理由がそこにあると記し、また紹運の人となりを義に於き「義に生き義兵を以て義に死んだ。家中の勇も仁義の勇である。」、「賢徳の相有りて、衆に異る。器量の仁にてましませば」[260]。
  • 立花道雪と並んで大友の双璧、風神・雷神と称される(風神が高橋紹運、雷神が立花道雪)。
  • 「紹運 平生情深かりし故 且は其の忠義に感化せし故 一人も節義うしなわざるべし」[261]と評価される。
  • ルイス・フロイスは本国宛の報告書で、紹運を「希代の名将」と絶賛した。
  • 斎藤鎮実の妹(一説には娘ともいわれる)・宋雲院との結婚が決まっていたが、度重なる戦で婚儀が延び、その間に鎮実の妹は疱瘡を罹い、容貌が悪くなってしまった。鎮実は破談を申し出たが、紹運は「私は彼女の容姿に惚れて婚約を決めたのではない、心の優しさなど内面に惹かれて婚約を決めたのだから、容姿が変わろうとも問題はない」と、そのまま正妻として迎え、二男四女を儲けた[262]。紹運の菩提寺である柳川市天叟寺に祀られている紹運の位牌は現在、宋雲院との比翼の位牌となっており、墓所も夫婦合葬されている。
  • 長男の統虎の婿入りの際、紹運は統虎に対し「道雪殿を実の父と思って慕うように」と言い聞かせた。また、備前長光[263][264]を与え「道雪殿とわしが争うことになったならこれでわしを討て」と訓戒したといわれている[265][266][267]。
  • 愛用の太刀は仁王三郎清綱、のちに次子・統増に譲った[268]。
  • 耳川の戦いでの大敗を機に、前当主・高橋鑑種の頃からの筆頭家老・北原鎮久は紹運に大友氏を見限るよう説得したが、紹運はそれを拒絶した。秋月種実はこれに目をつけ鎮久を籠絡し、主君・紹運を放逐させるよう画策したが、企みは紹運に露見し失敗。鎮久は岩屋城に登城するところを誅殺された[80]。その後紹運は、経緯を知らない鎮久の子・北原種興に誅殺の仔細を説明し、種興を不問に付して遺領を継ぐことを認めた。一方、秋月種実は鎮久の内応確約を受け取り、内田彦五郎に命じ岩屋城を奪うべく300名ほどの軍勢を派遣するが、この内応確約は紹運と示し合わせた種興の策略であり、紹運率いる軍勢に待ち伏せされて内田は戦死、軍勢も生きて帰れたのは30余名ほどだったと言われる(龍ヶ城夜襲戦と血風奈須美の陣[114][115][116])[269]。汚名を雪いだ北原種興はその後、高橋家の重臣として用いられることとなった。
  • 秋月氏、筑紫氏、原田氏ら周辺の反大友勢力と常に数の上では劣勢となる戦いを強いられたが、敵陣に援軍到着の虚報を流し、退路に見せかけの援軍の旗を立たせて混乱を誘うなど、武勇だけではなく、智将としての活躍も伝えられている(柴田川の戦い[43][44][45][46]や血風奈須美の陣[119][116])。
  • 岩屋城の戦いの最中、島津方の武将・新納忠元が城方に矢止めを請い「なぜ仏法を軽んじ、キリスト教に狂い人心を惑わす非道の大友氏に尽くされるのか。貴殿の武功は十分証明されました。降伏されたし」と問いかけた時、紹運は中櫓の上から「主家が隆盛しているときは忠勤に励み、功名を競う者あろうとも、主家が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。貴方自身も島津の家が衰退したとき主家を捨てて命を惜しむのか。武家に生まれた者として恩・仁義を忘れるものは鳥獣以下である」と応え、敵味方双方から感嘆の声があがったと言われている[270][271][272][273][274]。
  • 岩屋城の戦いにおいて、紹運以下全員が玉砕することになるが、島津軍にも戦死傷者3,000人とも言われる甚大な被害を与えた。島津軍は軍備立て直しのため時間がかかり、豊臣軍の九州上陸を許してしまう。紹運らの命を賭した徹底抗戦は結果的に島津軍の九州制覇を打ち砕くことになった。
高橋紹運の墓(右)と岩屋城の戦いの戦没者慰霊碑(左奥)[岩屋城二の丸跡]
  • 岩屋城落城後、般若坂の高台にて紹運以下の首実検が行われた。攻め手の総大将・島津忠長は床几を離れ地に正座し、「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。紹運殿は戦神の化身のようであった。その戦功と武勲は今の日本に類はないだろう。彼の友になれたのであれば最高の友になれただろうに」と諸将とともに涙を流し手を合わせたと伝わっている。
  • 天正15年(1587年)、豊臣秀吉は薩摩国に入り島津氏を降伏させる。帰途、太宰府の観世音寺(後の山王の社)に立花統虎を呼び、父・高橋紹運の忠節義死を「この乱れた下克上乱世で、紹運ほどの忠勇の士が鎮西(九州)にいたとは思わなかった。紹運こそこの乱世に咲いた華(乱世の華)である」とその死を惜しんだと伝わっている。
  • 岩屋城甲の丸跡には、家臣の子孫によって建立された「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑がある。
  • 岩屋城下に石で築かれた塚がある。この塚は島津軍に金で雇われ、水の手に導いた老婆が落城後、紹運を慕う領民に責められ、生き埋めにされたと伝わっている。
  • 紹運以下、高橋家家臣団の命日7月27日には、現在でも縁者による岩屋城戦犠牲者追悼法要が行われている。[275]
  • 元和7年(1621年)、20年ぶりに柳川へ復帰した立花宗茂の側近・浅川伝右衛門安和が、宗茂や古老らから聞いた話を記録した『浅川聞書』には、薦野玄賀(増時)による紹運に関する逸話が記されている。当時、柳川藩では、天正14年(1586年)7月27日に宗茂の父・高橋紹運が籠城した岩屋城が、抵抗の最終段階において、なぜわずか一日で落城したのかについて疑問視する向きがあったという。宗茂の旧領復帰を祝う挨拶のため、仕官先の黒田藩から柳川を訪れた増時は、伝右衛門の問いに対し、岩屋城の守りは堅固であり、通常なら2、3日で落城するものではなかったとした上で、紹運が宗茂の身を案じ、あえて早期の決着を図ったと語った。増時によれば、籠城が長期化すれば宗茂は必ず救援のため出陣し、島津軍への夜襲を試みると考えられた。その隙に立花山城を秋月種実に攻められ、さらに宗茂までも島津軍に討たれれば、すべてが無駄になるとして、紹運は城兵に討死を命じ、自らも一日の戦いで死を遂げる覚悟を決めたという。当時、増時は80歳近い高齢であり、『浅川聞書』には古老として登場し、過去の出来事について語っている。この逸話によれば、紹運の岩屋城籠城と討死は、宗茂を生存させることを目的とした決断であったとされる[276]。

家臣団

岩屋城の戦い戦没者リスト[277][278][279][280][281][282]

高橋紹運を題材とした作品

脚注

注釈

  1. ↑ 貞善院義誉静(壽)音[2]
  2. ↑ 『續群書類従卷第六百四十七 高橋記』の紹運公御緣邊之事では「鎮実御妹」としている。『下記寛政重修諸家譜』によると鎮実の女と記載されたが、それは鎮実の父、長実が二階崩の変で歿後、家主となった鎮実が妹を養女として扱うのだとされる。
  3. ↑ 宋雲院殿花岳(嶽)紹春大姉[4]
  4. ↑ 萩尾大学の娘・松尾殿が産んだという男児(庶子)。新宮高橋氏の祖[5]。
  5. ↑
    • 宗茂の姉。立花道雪の養女。信解院殿勝月妙珠大姉[6][7]。
    • 一説は宗茂の妹[8]。
  6. ↑ 栄長院殿梅宕松春大姉。慶長2年(1597年)7月17日病没、享年25歳。筑後久末村に葬った。小田部昭典『小田部軍物語』P.139~141
  7. ↑ 大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されている。
  8. ↑ 退清院殿梅月春香禅定尼[11]
  9. ↑ 加屋とも。慈光院殿玉英宗金大姉[13]
  10. ↑ 大鶴九郎、相模守[22]、式部少輔、上総介、小田部上総入道宗雲、号は浄慶。
    • 小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の子[23]、大鶴左馬頭長清(大津留常陸介)の跡を継ぐ。妻は大友氏(大友義長女か)、豊後斎藤氏(斎藤長実の姉妹か?)[24]。
    • 最初は父の鎮隆と共に大友義鑑、大友宗麟に仕え、京都で三年間伊勢氏に師事し、礼儀作法を学び、猿楽、刀剣の目利きなども習得。天文十九年(1550年)帰国後大鶴氏を継ぎ、那珂郡内岩戸、河内300町を与え、鷲嶽城を築き、大友筑前五城主の1人となる。永禄十二年(1569)に一時隠居、のち復帰、子の俊之(小田部鎮元)や孫の源次郎(小田部統房)の補佐として小田部氏と名を改めた。後に那珂郡に正応寺を建立して住職す[25]。
    • 部分の史料また碑文では名を鎮正(これは実は子・鎮忠(宗秀)の名)と記された[26]。
  11. ↑ 大鶴弥助、弾正入道宗秋、山城入道宗周、式部少輔鎮忠、安芸入道宗秀。
    • 大津留鎮俊(宗雲)の長男。父から鷲ヶ嶽城の城主職を継承する。父子とも「大鶴式部」の通称で「鎮正」の名が父の名として誤記されたことがある[27]。
    • 伯父、大鶴(田原)鑑尚と同じ「大鶴弾正」の通称で実名まで「鑑尚」と混同される[28]。
    • 父と弟(小田部鎮元)と共に筑前五城主の一人として永禄、天正年間の戦功が多く。天正九年(1581)年9月鷲ヶ岳城落城後、立花山城に赴き、津久見(鶫)嶽城番となって、宗像氏と対峙した。のち嘉良山西城城番となった[29]。
    • 天正7年(1579年)9月23日付の大友義統感状(大津留安芸入道宛)によれば、紹叱父子とともに戦死した宗逸は、安芸入道宗秀(鎮正)の舎弟と記されている[30]。一方、『筑前国続風土記』[31]では宗雲(鎮俊)の舎弟とされているが、これは宗秀を宗雲と誤記した可能性が高い。宗秀の弟とすれば、実際には宗雲(鎮俊)の三男にあたることになる。
    • 妻は神代勝利四女[32]。子に立花五右衛門鎮治、孫に立花五郎右衛門隆元(道溪)、隆元子立花期右衛門隆行、隆行子立花孫左衛門隆重(雪溪)[33]。
  12. ↑ 大鶴九郎俊之、民部少輔鑑湖、鎮道、号は紹叱(1570年以降)、宗叱。
  13. ↑ (大津留長清の実子か?鑑康か?)
    • 一部の史料では田原の苗字を原田に誤記。元の名は大津留(大鶴)弾正鑑尚。実は大津留式部鎮正(鎮忠、弾正入道宗秋)の伯父[34]。甥と同じ「大鶴弾正」の通称を使用していたのでよく混同されている。
    • 最初は豊後浦部衆の鞍掛(懸)城主(天文12年(1543年)頃追放された田原親宏に代わって田原氏を継いだかは不明)、耳川の戦い後天正七年(1579)叛大友氏、宗像氏貞領の津久見(鶫)嶽城番となって大友勢の立花道雪、高橋紹運、志賀道輝などと対戦、同年10月上旬、道雪に誅殺された[35][36]。
  14. ↑ 立花家の史料によると「宗像弾正忠氏貞」と記述された[37][38][39]。[40]では許斐の城主・宗像弾正忠と記述された。
  15. ↑ 麻生上総介、民部丞。大友家の命令に従って宗像郡津屋崎(上松)城主となったが、のち秋月家に寝返った[37]。
  16. ↑ 町野鑑景、秋月治部少輔。問註所鑑豊の兄弟。生葉郡井上城主。吉永正春『筑後戦国史』P.195
  17. ↑ 大津留紹逸。天正7年(1579年)9月23日付の大友義統感状(大津留安芸入道宛)によれば、紹叱父子とともに戦死した宗逸は、安芸入道宗秀(鎮正)の舎弟と記されている[81]。一方、『筑前国続風土記』[82]では宗雲(鎮俊)の舎弟とされているが、これは宗秀を宗雲と誤記した可能性が高い。宗秀の弟とすれば、実際には宗雲(鎮俊)の三男にあたることになる。
  18. ↑ 太田生左衛門。佐賀市公式ホームページ 太田氏の下向 佐賀市 P.142-144
  19. ↑ 倉町近江守
  20. ↑ 久布白又右衛門
  21. ↑ 土肥出雲守信安
  22. ↑ 馬場清兵衛
  23. ↑ 勇ましい強行軍の態勢で敵領地の筑後川、耳納連山の高峰、九十九折そして道路が未整備の鷹取山などを越えた[198]。
  24. ↑ 椿原式部少輔。『浮羽郡人物名鑑 : 郡制廃止記念』P.14
  25. ↑ 「天正十一年」[206][207]説、「天正十三年乙酉正月」[208][209]説、「天正十二年九月」説[210][211]がある。
  26. ↑ 道雪の親族に右衛門大夫と名乗ったのは、戸次(立花)右衛門大夫鎮実但馬了均のみとされる。のち立花宗茂が筑後柳川大名になった際、今古賀城主を務める人物で、関ヶ原の戦いの際に鍋島直茂の柳川侵攻(江上・八院の戦い)で防戦して、次男の親雄とともに戦死した(「慶長5年於筑後国八院戦死」とある)『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・下』。尚、この「八院合戦」戦死説でも右衛門太夫の戦死場所は八院ではなく、城島付近となっている。
  27. ↑ 薦野増時の名代。『大日本史料 第11編之8』附「薦野家譜」P.371と『柳川藩叢書・第一集附』附「柳河戦死者名誉録」によると、天正12年(1584年)8月28日、筑後城島の戦いで戦死したと記されたが、のち11月下旬の三潴郡掃討戦に西牟田の城島城で戦死した説が有力。『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.139~140、大日本史料 第11編之9 附「薦野家譜」P.332-333、『大日本史料』 11編 17 附「薦野文書」P.123、『大日本史料』 11編 17 附「薦野家譜」P.124
  28. ↑ 立花(戸次)右衛門太夫が城島城の攻防戦で戦死したとする文献は『北肥戦誌(九州治乱記)』『鍋島直茂公譜』『歴代鎮西志: 鍋島家文庫蔵』『筑後国史・筑後将士軍談』などがあるが、[213] によるとこういう記述は明らかな誤記と指摘された。
  29. ↑ 『藤龍家譜』、『肥陽軍記』によれば、天正11年(1583年)1月上旬頃、大友親盛、志賀右京亮、朽網鑑康らの大友軍が田尻鑑種の鷹尾城を攻めた際、大友軍に加勢していた戸次道雪・高橋紹運らの軍勢が、田尻鑑種を救援するため来援した島津義弘勢を撃退した。『大日本史料 第11編之3』天正10年12月P.464、P.466
  30. ↑ 筑後草野氏・草野鑑員の子、名は家清とも。肥前の草野鎮永とは別々の人物。
  31. ↑ 太田右衛門大夫、和泉守。
  32. ↑ 中野神(甚)右衛門、式部少輔。
  33. ↑ 今泉永矩の娘・藤子[223]。
  34. ↑ 草野三郎、図書助。『浮羽郡人物名鑑 : 郡制廃止記念』P.16、『大日本史料 第11編之9』P.330~331

出典

  1. ↑ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.89
  2. ↑ 『大友・松野・吉弘氏関係略系図』、旧柳河藩主立花家文書-〔覚〕
  3. ↑ 「初宝満城主高橋三河守顕種(鑑種)養姉夫吉弘某(鑑理)之子為嗣、即紹運、其後退紹運、謂秋月種実之男為養子、是謂右近大夫元種、(略)」『町田氏正統系譜』附(上井覚兼日記天正14年7月17日)P.254
  4. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕00000766
  5. 1 2 吉永, 1977 & p.295-296
  6. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-内実系譜00001622
  7. ↑ 『立花遺香』 P.160
  8. ↑ 薦野の歴史をつなぐ会 第200話 【養徳山「信解院の墓」】
  9. ↑ 中野、穴井 2012, pp. 81.
  10. ↑ 『筑後国史』 中巻P.379
  11. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕00000768
  12. ↑ 薦野の歴史をつなぐ会 第200話 【養徳山「信解院の墓」】
  13. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-内実系譜〕00001629
  14. ↑ 『筑後国史』 中巻P.379
  15. ↑ 【統幸公ゆかりの地・其の二】筧城(吉弘氏館)跡 伝承地 | 豊後高田市
  16. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』p.26
  17. ↑ 『評註名将言行録』P.227
  18. ↑ 『筑前国続風土記』巻之二十四
  19. ↑ 『大日本史料 第10編之3』永禄12年7月~元亀元年正月「九州治亂記」P.632-633
  20. ↑ 『筑後将士軍談』卷之第十 高橋鑑種降参付高橋家別立之事 P.265~268
  21. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.63~64
  22. ↑ 『筑後国史 中巻』P.26
  23. ↑ 鎮隆は、松浦小源次から十四代の子孫、実は平戸松浦肥前守義(是興)の次男、初めは松浦隼人佐と称する。 天文十二年(1543)、大内義隆に属し、筑前早良郡小田部村を与えられた後、小田部民部少輔鎮経と名を改めた。 先に子の鎮俊と共に大友氏に仕えると推測される(大友氏と大内氏に両属する可能性も)。天文二十年(1551)年、肥前唐津の波多鎮時に殺害された。
  24. ↑ 『小田部軍物語 関ヶ原への道』小田部家系図、P.48、P.78
  25. ↑ 『宗像記追考』鷲嶽城 大鶴氏 P.537-538、『筑前国続風土記』巻24那珂郡鷲ヶ岳古城、『筑前戦国史』P.121-127
  26. ↑ 『筑前戦国史』P.126、『戦国末期における筑前小田部氏について』P.63、『早良郡誌』(小田部紹叱の碑文)
  27. ↑ 『筑前戦国史』P.126、『戦国末期における筑前小田部氏について』P.63、『早良郡誌』(小田部紹叱の碑文)
  28. ↑ 『宗像記追考』鷲嶽城 大鶴氏 P.537、『糸島郡誌』P.105、『太宰管内志 上巻』P.33、『筑前戦国史』P.126、『小田部軍物語 関ヶ原への道』小田部家系図、P.13、P.51-52-55-56-60
  29. ↑ 『豊前覚書』P.24、P.30、P.84、P.90
  30. ↑ 『大分市歴史資料館年報 (平成22年度)』P.13-14、『福岡市博物館研究紀要 (1)小田部文書』P.67
  31. ↑ 『筑前國續風土記 卷之二十八』 古城古戦場 早良郡 安楽平城址
  32. ↑ 『神代家とその一族』、「神代勝利の一生」P.118
  33. ↑ 『筑後国史 中巻』P.26
  34. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.85
  35. ↑ 『鑑連公御戦攻略記』00000471
  36. ↑ 『太宰管内志 上巻』P.361
  37. 1 2 『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.85
  38. ↑ 『鑑連公御戦攻略記』00000495
  39. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕
  40. ↑ 『筑後将士軍談』
  41. ↑ 『史料綜覧 巻11』 p.161
  42. ↑ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.81~83、P.129~130
  43. 1 2 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.94
  44. 1 2 紹運の智略「柴田川の戦い」
  45. 1 2 吉永正春『筑前戦国史』 p.103~106
  46. 1 2 3 中野、穴井 2012, pp. 45.
  47. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.81~82
  48. ↑ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.83
  49. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(一四)筑前宇美並障子嶽之間 天正六年十二月十一~十三日 P.9~10
  50. ↑ 中野 2001, pp. 6.
  51. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.83~84
  52. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』筑紫・秋月、岩屋を攻む、豪勇関内記 p.106~109
  53. ↑ 中野、穴井 2012, pp. 54.
  54. ↑ 桑田 2016, pp. 87.
  55. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十一 岩屋合戦関内記勇戦之事 P.299~300
  56. ↑ 天正7年1月18日 高橋紹運知行宛行状写 高橋紹運、屋山三介の筑紫広門・秋月種実に対する「岩屋麓」防戦勝利を賞し、知行を宛行う。三原文書/『大宰府・太宰府天満宮史料15』P.428
  57. 1 2 3 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.85
  58. 1 2 吉永正春『筑前戦国史』 p.109~110
  59. 1 2 二日市の戦い
  60. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(一五)筑前鍬摺 天正七年 三月十三日 P.10
  61. 1 2 3 『筑後将士軍談』 卷之第十二 豊後勢與秋月筑紫挑戦之事 P.317
  62. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.85~86
  63. 1 2 3 安楽平落城 筑前大友五城
  64. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (45) 戸次道雪感状写 今度於吉川最前被砕手被疵、高名案中、必以時分一稜可賀之候、恐々謹言、四月廿七日 後藤市彌太(連種)殿 P.556。
  65. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・「旧柳川藩誌」十時文書 二 戸次道雪感状写 今度於吉川、最前被碎手、被疵候、高名案中候、必以時分一稜可賀之候、恐々謹言、四月廿七日 十時摂津守(連貞)殿 P.415
  66. 1 2 3 4 5 中野、穴井 2012, pp. 47.
  67. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.86~87
  68. ↑ 『小田部軍物語 関ヶ原への道』P.55-56
  69. 1 2 吉永正春『筑前戦国史』 p.120~127
  70. 1 2 3 4 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.103~104
  71. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.119
  72. ↑ 中野、穴井 2012, pp. 46–47.
  73. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.88
  74. ↑ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.86
  75. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(一七)筑前柑子嶽 天正七年八月十四日 P.10
  76. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.119~120
  77. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(一六)筑前箱崎 天正七年 八月日未詳 P.10
  78. ↑ 『筑後将士軍談』卷之第十二 立花道雪與宗像等合戦付麻生生害之事 P.317~318
  79. 1 2 「大友興廃記」巻第十七 宗像合戦之事
  80. 1 2 中野、穴井 2012, pp. 55.
  81. ↑ 『大分市歴史資料館年報 (平成22年度)』P.13-14、『福岡市博物館研究紀要 (1)小田部文書』P.67
  82. ↑ 『筑前國續風土記 卷之二十八』 古城古戦場 早良郡 安楽平城址
  83. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 大鶴小田部戦死之事 P.322
  84. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.89~92
  85. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(一八)筑前高祖 天正九年 九月十五日 P.11
  86. ↑ 大友興廃記、戸次軍談の伝える「生の松原合戦」
  87. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 筑前国所々合戦之事 P.324~325
  88. ↑ 『史料綜覧 巻11』 p.186
  89. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.93~94
  90. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 道雪紹雲誅原田(田原)鑑尚事 P.318~319
  91. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.93
  92. 1 2 3 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.88
  93. ↑ 柑子岳城争奪戦 筑前大友五城
  94. ↑ 『史料綜覧 巻11』 p.187
  95. 1 2 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.94~95
  96. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.125~127
  97. 1 2 3 鷲ケ岳城 筑前大友五城
  98. 1 2 『筑後将士軍談』 卷之第十二 高橋秋月挑戦之事 P.321
  99. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.96
  100. ↑ 『笠木城址史的考察 : 郷土史研究 伝説口碑笠木軍記』 p.36~37
  101. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.96~97
  102. ↑ 『史料綜覧 巻11』 p.203
  103. ↑ 「北肥戦誌・巻之二十五」『国史叢書』P.217~221
  104. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十一 龍造寺筑前國出張付大友義統家督之事 P.297~299
  105. ↑ 『史料綜覧 巻11』 p.215
  106. ↑ 猫城合戦(福岡県中間市上底井野)「森鎮実不覚、討ち死多数」
  107. ↑ 桑田 2016, pp. 231.
  108. ↑ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』補遺 井手口 御感状書出之写 前之廿六於穂波表別而被砕手、黒瀬治部討捕分捕高名感悦無極候、毎々粉骨之次第無比類候、必配當砌可顕志候、恐々謹言 九月晦日 道雪樣御判 井手口壱岐守(盛高)殿 P.467
  109. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.115~117
  110. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.139~141
  111. ↑ 『戸次軍談』『橘山遺事』『陰徳太平記』『近代実録』
  112. 1 2 『筑後将士軍談』 卷之第十二 筑前国所々合戦之事 P.324
  113. ↑ 『高鍋町史』 附年表・第一部によるとこの戦いは3月18日。『近代実録』によると10月16日。
  114. 1 2 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.106~109
  115. 1 2 吉永正春『筑前戦国史』 p.132~137
  116. 1 2 3 4 龍ヶ城夜襲之事「岩屋城結束強化の契機となった。北原鎮久の誅殺」
  117. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 北原種興誘討秋月勢事 P.329~330
  118. ↑ 『大友興廃記』筑前國岩屋城責事付高橋紹運武略之事
  119. 1 2 吉永正春『筑前戦国史』 p.137~138
  120. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.121
  121. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.87~88
  122. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(一九)筑前観世音寺口 天正九年 七月二十七日 P.11
  123. ↑ 『柳河享保八年藩士系図・上』竹迫 P.168
  124. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一 戸次道雪感状 昨日廿七宰府於観世音寺口、増時僕従神五・吉徳砕手被疵之由候、感悅無極候、必可達上聞候、為愚老以時分何樣賀之可申候、恐々謹言、七月廿八日 薦野左近大夫殿(増時) P.225
  125. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)52 竹迫文書 四 戸次道雪知行預ヶ状写 昨日廿七宰府於観世音寺口親父五郎兵衛尉(統種)戦死、高名忠節難盡紙面候、併愚老力落無是非候、必随而可達(平出)上聞之条、御感不可有餘儀候、仍為家恩於郡中三町分之坪付有別紙事預進之候、可有知行候、恐々謹言、七月廿八日 竹迫龍寿(虎種) P.293。
  126. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (48) 戸次道雪書状写 猶々、其元無油断勤番肝要候、一、昨日者早々越山、乍案中祝着候、併真労不及申候、其地江無易儀候哉、殊高鳥居へ責被合候由、肝要候、陣所等之儀、増時被得指南可然様可申談候、仍廣重事昨日同心候哉、心懸之次第悦喜申候、各着陣候ハ、、爰許へも用事多有之儀候間、廣重事者早々帰陣肝要候、恐々謹言、九月三日、 後藤市彌太(連種)殿 P.565。
  127. ↑ 『高鍋町史』 附年表
  128. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.127~129
  129. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.104~105
  130. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.126~128
  131. ↑ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.88~89
  132. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(二〇)筑前潤野原 天正九年 十一月六日 P.12
  133. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.138~139
  134. ↑ 中野、穴井 2012, pp. 58–59.
  135. ↑ 石坂の戦い 八木山峠(福岡県飯塚市)
  136. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十三 穂波合戦之事 P.353~354
  137. ↑ 桑田 2016, pp. 164–465.
  138. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十三 小金原合戦之事 P.351~353
  139. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.117~122
  140. ↑ 『筑前國續風土記』 卷之第二十六 古城古戦場 三 鞍手郡 小金原 P.6~18
  141. ↑ 『立花遺香』 P.13~15
  142. ↑ 『宗像郡誌. 中編 宗像記追考』 本書第十六 小金原合戦之事 P.622~626
  143. ↑ 小金原の戦い「立花道雪激怒」「宗像氏貞苦悩」
  144. ↑ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.90~92
  145. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(二一)筑前清水原 天正九年 十一月十三日 P.12
  146. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.155~163
  147. ↑ 中野、穴井 2012, pp. 59-60、63.
  148. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三四 大友義統軍忠一見状 天正九年十一月十三日、於山東宗像表合戦之砌、戸次伯耆入道道雪家中之衆、或分捕高名、或被疵戦死之着到、令披見訖、P.351~357。
  149. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.122
  150. ↑ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.92
  151. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十三 小金原合戦之事 P.353
  152. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.122~123
  153. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.163
  154. ↑ 『宗像郡誌. 中編 宗像記追考』本書第十六 小金原合戦之事 P.628~629
  155. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.124
  156. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(二二)筑前岩門庄久邊野 天正十年 四月十六日 P.12
  157. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』岩戸合戦 p.165~167
  158. 1 2 中野、穴井 2012, pp. 64.
  159. ↑ 『大日本史料 第11編之4』天正11年4月P.13-16
  160. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』p.167
  161. 1 2 『評註名将言行録』P.229~230
  162. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.126
  163. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.167~168
  164. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十四 高橋紹運取返米山付統虎初陣石垣山合戦之事 P.371
  165. ↑ 『大日本史料 第11編之20』「筑後柳河立花家譜」P.422-424
  166. 1 2 中野、穴井 2012, pp. 59.
  167. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)78 米多比家文書 三一 戸次道雪・統虎(宗茂)連署感状 前之廿二於宗像表別而依被砕御手、郎従三輪又次郎・水上小次郎・同僕従善九郎被疵候、高名感悅無極候、必以時分一稜賀之可申候、恐々謹言、十二月廿八日 米多比新蔵人(鎮久)殿 P.749。
  168. ↑ 『大日本史料 第11編之4』P.331、『大日本史料 第11編之4』天正11年4月P.331
  169. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.168
  170. 1 2 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.128
  171. ↑ 『大日本史料 第11編之3』天正10年12月P.597
  172. ↑ 『史料綜覧 巻11』 p.324
  173. ↑ 『大日本史料 第11編之3』天正10年12月P.597-598
  174. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.123~124
  175. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』吉原・八並の戦い p.164~165
  176. ↑ 許斐山城の戦い「八並村吉原口の戦い」:天正11年3月15~16日
  177. ↑ 『大日本史料 第11編之4』P.328~330、『大日本史料 第11編之4』天正11年4月P.328-330
  178. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(二三)筑前那珂表 天正十一年 四月八日 P.13
  179. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.128~129
  180. ↑ 『大日本史料 第11編之4』天正11年4月P.16-17
  181. ↑ 『旧柳河藩主立花家文書-(鑑連公系譜之事など合冊)』 00000831
  182. ↑ 『大日本史料 第11編之4』P.327~328、『大日本史料 第11編之4』天正11年4月P.327-328
  183. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.164~165、p.174~175
  184. ↑ 『史料綜覧 巻11』 p.336~337
  185. ↑ 『大日本史料 第11編之4』P.327、『大日本史料 第11編之4』天正11年4月P.327
  186. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十四 筑紫広門燒岩屋城付屋山防禦之事 P.385~386
  187. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.129~130
  188. ↑ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.93~94
  189. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.177~178
  190. ↑ 『大日本史料 第11編之3』天正10年12月P.664-665
  191. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.132
  192. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.113~115
  193. ↑ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.90
  194. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.148~151
  195. ↑ 中野 2001, pp. 8–9.
  196. ↑ 中野、穴井 2012, pp. 56–60.
  197. ↑ 『大日本史料 第11編之4』天正11年4月P.914-916
  198. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.191~193
  199. 1 2 桑田 2016, pp. 80–84.
  200. 1 2 『筑後将士軍談』 卷之第十五 道雪紹運筑後出張之事 P.398~403
  201. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.134~136
  202. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.189~194
  203. ↑ 『豊前覚書』(六)道雪樣紹運樣敵地を御切り通り黒木高良山御陣成され候次第 P.96
  204. ↑ 『大日本史料 第11編之8』P.265~286
  205. ↑ 『大日本史料』 11編 9 天正12年9月P.316-317
  206. ↑ 矢野 1972, pp. 405–406.
  207. ↑ 『筑後国史 : 原名・筑後将士軍談 上巻』P.405~406
  208. ↑ 馬渡 1995, p. 718.
  209. ↑ 「北肥戦誌・巻之二十九」『国史叢書』P.330
  210. ↑ 犬塚 1992, pp. 342–343.
  211. ↑ 『大日本史料 第11編之8』P.398~399
  212. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一八 戸次道雪書状 (前略) 一、安部六弥太前廿八動之砌、於西牟田表分捕候、前日於石垣表も分捕仕候、両度之儀無比類候、参陣以来両家討補頸二百餘にて候、大利之段満足候、(後略) 九月三日 道雪花押 増時 P.230。
  213. ↑ 戸次右衛門大夫、『井樓纂聞 梅岳公遺事』
  214. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一八 戸次道雪書状 (前略) 一、両人以参陣當陣衆申談、前廿五至河堺表(川崎)大蔵山(大籠)寄陣、同廿八下筑後表従両口相動、中口者縮坂東寺・西牟田、下口者折地・小嶋(古島)・水田表・簗河(柳川)近邊迄雖相動候、敵者一人茂不出合候、佐賀之者共入目之儀、以是可有御黨候、(後略) 九月三日 道雪花押 増時 P.230。
  215. ↑ 『大日本史料 第11編之8』P.369~380
  216. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一八 戸次道雪書状 (前略) 一、黒木事、至紹運・道雪種々詫言候、一昨日朔日猫尾属御案利候、為人質黒木伊豆守宗宅罷出候、以其響高牟礼入番之者共火懸、方々落行候、則時人数差遣、普請堅固申付、一衆差籠候、 (後略) 九月三日 道雪花押 増時 P.230。
  217. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.136~137
  218. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.194~195
  219. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十五 黒木落城付所々軍之事 P.404~412
  220. ↑ 『大日本史料 第11編之8』P.390~405
  221. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.138~140
  222. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (53) 大友義統感状写 前九於柳川表其方僕從市郎分捕高名之由、忠儀粉骨次第感入候、彌又励馳走事肝要候、恐々謹言、九月十四日 後藤隼人佐殿 P.566。
  223. ↑ 百武志摩守と圓久尼 - さがの歴史・文化お宝帳
  224. ↑ 大日本史料 第11編之9p.184~201、『大日本史料 第11編之9』天正12年9月P.316-317
  225. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(二七)筑後井上城 天正十二年十一月十四日 P.14
  226. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.196~198
  227. ↑ 中野、穴井 2012, pp. 68.
  228. ↑ 『豊前覚書』(六)道雪樣紹運樣敵地を御切り通り黒木高良山御陣成され候次第 P.96~97
  229. ↑ 『大日本史料 第11編之9』P.330-345、『大日本史料 第11編之9』天正12年9月P.330-345
  230. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.143
  231. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.199
  232. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(二八)筑後十三部野 天正十三年 四月十八日 P.14
  233. ↑ 『郷土資料 第1 歴史之部』(久留米初等教員会)
  234. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十五 黒木落城付所々軍之事 P.418~421
  235. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十六 立花・高橋與波多筑紫挑戰之事 P.423~428
  236. ↑ 久留米高良山合戦
  237. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.198~200、『筑後戦国史』 p.169
  238. ↑ 『大日本史料 第11編之15』天正13年4月P.1-33
  239. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.146~149
  240. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十六 道雪病死諸将退陣之事 P.432~434
  241. ↑ 立花道雪の死(1)
  242. ↑ 立花道雪の死(2)
  243. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.149
  244. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.210~212
  245. ↑ 『大日本史料 第11編之20』天正13年9月P.275-282
  246. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十六 寶満城合戦付高橋筑紫和平之事 P.434~446
  247. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.212~216
  248. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十七 紹運父子三人分三所而籠城之事 P.460~462
  249. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.235~238、 p.239~244
  250. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十七 岩屋落城紹運自害之事 P.468~471
  251. ↑ 岩屋玉砕
  252. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.262~264
  253. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(二九)筑前岩屋 天正十四年 七月廿七日 P.15~16
  254. ↑ 『評註名将言行録』P.237~238
  255. ↑ 『橘山遺事』 P.172~173
  256. ↑ 『国恩録』第三冊P.40-47
  257. ↑ 紹運寺
  258. ↑ 三笠神社
  259. ↑ 『評註名将言行録』P.225、『大日本史料 第10編之3』永禄12年7月~元亀元年正月「九州治亂記」P.632-633
  260. ↑ 『高橋記』
  261. ↑ 『筑前国続風土記』
  262. ↑ 『評註名将言行録』P.226~227
  263. ↑ 重要文化財。立花家史料館蔵。
  264. ↑ 剣 銘 長光
  265. ↑ 『立花遺香』 P.107
  266. ↑ 『評註名将言行録』P.230
  267. ↑ 『国恩録』第三冊P.22-23
  268. ↑ 『立花遺香』 P.91~93
  269. ↑ 『評註名将言行録』P.227~229
  270. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十七 新納高橋舌戦付和議不調之事 P.462~465
  271. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』 p.253~255
  272. ↑ 『柳川史話』第一卷 人物篇(其の一)5 武将の典型高橋紹運 P.13~14
  273. ↑ 『評註名将言行録』P.234~235
  274. ↑ 『橘山遺事』 P.167
  275. ↑ 『古郷物語 (国史叢書)』P.138-142
  276. ↑ 16歴史講座「戦国古賀の名将軍師、薦野増時の生涯」(岩屋城の高橋紹運戦死について薦野増時の証言)
  277. ↑ 『大日本史料 第11編之20』天正13年9月P.283-284
  278. ↑
  279. ↑
  280. ↑ 『薩摩旧記雑録後編2・巻十七』附150「島津世錄記」P.185-186
  281. ↑ 『太宰府史鑑』P.577-579
  282. ↑ 『国恩録』第三冊P.50-59

参考文献

  • 『筑後国史 : 原名・筑後将士軍談. 上巻』
  • 岡茂政、光行照太、藤丸満『柳川史話(第1巻 人物篇其の1)』(福岡県文化会館、1969年)
  • 古賀敏夫『戸次道雪・高橋紹運(長編歴史物語戦国武将シリーズ)》』(1974年)
  • 吉永正春『九州戦国の武将たち』(海鳥社、2001年)95-105頁 ISBN 4874153216
  • 吉永正春『筑前戦国争乱』(海鳥社、2002年)197頁-231頁 ISBN 4874153372
  • 中野等、穴井綾香 著、柳川市史編集委員会 編『柳川の歴史4・近世大名立花家』2012年。 
  • 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』花乱社、2016年。ISBN 978-4-905327-60-8。 
  • 中野等『立花宗茂』吉川弘文館〈人物叢書227〉、2001年。ISBN 978-4-642-05220-7。 
  • 犬塚盛純 著、高野和人 編『歴代鎮西志』 下(復刻)、青潮社、1992年。 NCID BN07817739。 
  • 矢野一貞『校訂筑後國史 : 筑後將士軍談』 下、名著出版、1972年。 NCID BN08011786。 
  • 馬渡俊継 著、高野和人 編『北肥戰誌(九州治乱記)』 中、青潮社、1995年1月。 NCID BN11676164。 

外部リンク

先代
高橋鑑種
筑後高橋氏当主
高橋鎮種(紹運)
次代
高橋統増