豊橋鉄道東田本線

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豊橋鉄道 東田本線
T1000形「ほっトラム」(2009年1月)
T1000形「ほっトラム」(2009年1月)
基本情報
通称 市内線、市電
国 日本の旗 日本
所在地 愛知県豊橋市
種類 路面電車
起点 駅前停留場
終点 赤岩口停留場、運動公園前停留場
停留場数 14箇所
開業 1925年7月14日
全通 1982年7月31日
最終延伸 1998年2月19日
所有者 豊橋電気軌道→豊橋交通→
豊橋鉄道
路線諸元
路線距離 5.4 km
軌間 1067 mm
線路数 複線(駅前-競輪場前間)
単線(競輪場前-赤岩口間、井原-運動公園前間)
電化方式 直流600 V,
架空電車線方式
最小曲線半径 11 m
路線図
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停車場・施設・接続路線
*: 旧線経由
**: 東田坂上起点
#: 1969休止、1973廃止
[]内は停留場番号
1: JR東海:東海道新幹線
2: JR東海:東海道本線
3: JR東海:飯田線
1 2 3 4
4: 名鉄:名古屋本線
uexKBHFa
0.4 市民病院前停留場 #
uexBHF
0.3 城海津停留場 #
STR+4 STR+4 STR+4 STR+4 uexABZg+l uexSTR+r
豊橋駅
BHF BHF KBHFe KBHFe uKBHFxa uexSTR
0.0 [1] 駅前停留場 -1969, 1998-
STR3 STR KBHFa uSTR uexSTR
新豊橋駅
STR3 STRc2 STR3 ueBHF uexSTR
0.2 駅前停留場 1969-1998
STR+1 STRc4 uSTR uexSTR
渥美線
LSTR uSTR uexBHF
0.1* 西宿停留場 -1939
uBHF uexSTR
0.3 [2] 駅前大通停留場
uSTR uexBHF
0.4* 松葉町停留場 -1950
uexSTRq
uexSTR
0.6 [3] 新川停留場
uSTR uexSTR
柳生橋支線(下記)
uSTR uexBHF
0.6* 新銭町停留場 -1950
ueABZg+l uexSTRr
ueBHF
0.8* 神明停留場 -1971
uexSTR+l ueABZgr
uexSTR uBHF
1.0 [4] 札木停留場
uexBHF uSTR
1.1* 札木停留場 -1951
uexSTRl ueABZg+r
uBHF
1.4
1.3*
[5] 市役所前停留場
uBHF
1.6 [6] 豊橋公園前停留場
ueBHF
赤門前停留場
uBHF
2.1 [7] 東八町停留場
ueBHF
2.3 旭橋停留場
uBHF
2.5 [8] 前畑停留場
uexSTR+l ueABZgr
uexBHF uBHF
2.8 [9] 東田坂上停留場
uexBHF uSTR
0.2** 本社前停留場 -1950
uexSTR ueBHF
3.1 北臨済寺停留場
uexKBHFe uSTR
0.4** 東田停留場 (I) -1950
uBHF
3.3 [10] 東田停留場 (II)
uBHF
3.6 [11] 競輪場前停留場
uABZgl uKDSTeq
留置線
uBHF
4.1
0.0
[12] 井原停留場
uKBHFaq uABZgr
0.6 [14] 運動公園前停留場
uKDSTaq uABZg+r
車庫
uKBHFe
4.8 [13] 赤岩口停留場
 柳生橋支線 
uSTR
赤岩口方
ueABZg+l
赤岩口方旧線
ueBHF
0.1 神明停留場
ueABZgr
駅前方旧線
uexSTR+r
0.0 新川停留場
uSTRr uexSTR
駅前方
uexBHF
0.2 大手橋停留場 -?
uexBHF
0.4 中柴停留場
uexBHF
0.6 松山停留場
LSTR uexKBHFe
0.9 柳生橋駅
STRl STRq BHFq
渥美線

東田本線(あずまだほんせん)は、愛知県豊橋市の駅前停留場から赤岩口停留場までと、井原停留場から分岐し運動公園前停留場までを結ぶ豊橋鉄道の軌道路線である。豊橋鉄道では「豊鉄市内線 (Toyotetsu City Line)」と案内している[1][2][3]。本項目では廃止された柳生橋支線もあわせて取り上げる。

概要

全線が併用軌道の路面電車である。市内線、市電(市内電車の意味)とも呼ばれて親しまれている。1970年代、各地で路面電車の縮小・廃止が相次ぎ、豊橋鉄道でも新川から分岐していた柳生橋支線を廃止するなどしたが、1982年(昭和57年)には井原 - 運動公園前間の支線を開業した[4]。

その後、1998年(平成10年)に駅前停留場の移設による路線延長が行われた。さらに、2005年(平成17年)に駅前停留場と新川停留場の間に駅前大通停留場が新設された。

1989年以降T1000形、モ3100形を除く車両が全面広告電車となっている。

2005年4月1日に名鉄岐阜市内線・美濃町線が廃止されてからは、東海地方で唯一の路面電車となった。また、日本で終電の終着時刻がもっとも遅い路面電車である。

東田本線は年間3,000万円ほどの赤字で推移している[5]。1970年代は、当時は黒字であった路線バス事業での収益で東田本線の収支をカバーしていたが[6](#歴代豊鉄社長の見解を参照)、路線バスの大部分が赤字へと転落した現代では、黒字である渥美線の収益と豊橋市からの補助金で東田本線の収支を維持している[7]。

路線データ

  • 路線距離(営業キロ):駅前 - 赤岩口間4.8 km、井原 - 運動公園前間0.6 km
  • 軌間:1067 mm
  • 駅数:14駅(起終点駅含む)
  • 運行時間:05:22 - 24:13
  • 複線区間:駅前 - 競輪場前間
  • 単線区間:競輪場前 - 赤岩口間、井原 - 運動公園前間
  • 電化区間:全線(直流600 V)
  • 閉塞方式

札木 - 東八町間では、日本に現存する路面電車で唯一国道1号線上を走行する。また井原の分岐点には、鉄道路線としては日本一急な半径11mのカーブ(井原カーブ)がある。このため一部車両はこの区間を通過することができず、車両の運行制限がある(「車両」の節を参照)。

歴史

1924年(大正13年)に武田賢治によって設立された豊橋電気軌道が豊橋の路面電車を敷設した。東田本線は、豊橋駅前と歓楽街であった東田(東田遊郭)を路面電車で結ぶことを目的としたものであったが、設立時募集株式の買い手があまりつかなかったため計画が暗礁に乗り上げそうになった。しかし遊郭経営者らの尽力によって募集株式の払込が完了し、東田本線が開通した[9]。

  • 1925年(大正14年)
    • 7月14日:豊橋電気軌道により、本線 駅前 - 神明 - 札木十字路間 (0.8 km)、支線 神明 - 柳生橋間 (1.1 km) が開業。
    • 7月21日:札木十字路 - 赤門前(現在の東八町)間 (1.1 km) が開業。
    • 12月25日:赤門前 - 東田間 (1.2 km) が開業。
  • 1929年(昭和4年)5月:支線 中柴 - 柳生橋間に松山停留場開業。
  • 1931年-1932年:駅前 - 萱町(後の松葉町)間に西宿停留場、萱町 - 神明間に新銭町停留場、支線 神明 - 中柴間に大手橋停留場開業。
  • 1937年-1939年:西宿停留場廃止。
  • 1945年(昭和20年)
  • 1946年(昭和21年)2月13日:柳生橋支線全線復旧。
  • 1948年(昭和23年)9月12日:萱町停留場を松葉町停留場に改称。
  • 1949年(昭和24年)
    • 2月14日:公会堂前停留場を市役所前停留場に改称。
    • 9月1日:豊橋電気軌道が豊橋交通に社名変更。
    • 12月25日:市役所前 - 赤門前間複線化。
  • 1950年(昭和25年)
    • 練兵場前停留場を球場前停留場に改称。
    • 4月7日:東田坂上 - 車庫前(後の北臨済寺) - 東田間の新線が複線で開業。東田坂上 - 本社前 - 東田間の単線旧線は非営業の車庫線に変更。
    • 7月15日:神明 - 市役所前間下りを新大手通の新線経由、上りを大手通の旧線経由とする。
    • 8月26日:駅前 - 神明間下りを駅大通の新線経由、上りを広小路通の旧線経由とする。新線に駅大通(後の名豊ビル前)停留場・新川停留場開業。
    • 9月17日:東田 - 競輪場前間 (0.3 km) が複線で開業。
    • 10月20日:駅前 - 神明間上りも広小路通から駅大通に移設・複線化。旧線の松葉町停留場・新銭町停留場廃止。
  • 1951年(昭和26年)
    • 7月30日:東八町 - 前畑間複線化。
    • 10月30日:神明 - 市役所前間上りも大手通から新大手通に移設・複線化。
  • 1952年(昭和27年)
    • 3月19日:前畑 - 東田坂上間複線化。
    • 10月5日:駅前 - 市民病院前間 (0.4 km) が単線で開業。
      • 市民病院前からさらに西八町まで延伸する計画が存在したが、1963年に断念している[10]。
    • 12月25日 駅前 - 市民病院前間複線化。
  • 1953年(昭和28年)10月17日:柳生橋支線の起点を神明から新川に変更(0.2km短縮)。
  • 1954年(昭和29年)7月22日:豊橋交通が豊橋鉄道に社名変更。
  • 1960年(昭和35年)
    • 6月1日:競輪場前 - 赤岩口間 (1.2 km) が開業。車庫移転に伴い、車庫線廃止。
    • 7月1日:車庫前停留場を北臨済寺停留場に改称。
    • 12月8日:柳生橋支線でワンマン運転を開始。
  • 1963年(昭和38年)
    • 7月29日:旭橋停留場を廃止。
    • 9月1日 球場前停留場を体育館前停留場に改称。
  • 1968年(昭和43年)10月1日:駅大通停留場を名豊ビル前停留場に改称。
  • 1969年(昭和44年)
    • 1月10日:名豊ビル前停留場を休止。
    • 5月15日:駅前 - 市民病院前間を休止。駅前停留場移設。
    • 10月4日:名豊ビル前停留場を廃止。
  • 1971年(昭和46年)
    • 7月15日:神明停留場・北臨済寺停留場を廃止。
    • 8月28日:東田本線でワンマン運転を開始。
  • 1973年(昭和48年)3月31日:駅前 - 市民病院前間 (0.6 km) 廃止。
  • 1976年(昭和51年)3月7日:柳生橋支線 新川 - 柳生橋間 (0.9 km) を廃止[11]。
  • 1982年(昭和57年)7月31日:井原 - 運動公園前間 (0.6 km) が開業[4]。日本国内の路面電車の路線延長は1968年の長崎電気軌道思案橋 - 正覚寺下(現・崇福寺)間延伸以来14年ぶり。
  • 1990年(平成2年)9月30日:駅前 - 新川間のセンターポール化完成。
  • 1995年(平成7年)7月27日:市役所前 - 東八町間のセンターポール化完成。
  • 1996年(平成8年)
    • 6月1日:体育館前停留場を豊橋公園前停留場に改称。
    • 9月5日:新川 - 市役所前間のセンターポール化完成。
  • 1998年(平成10年)2月19日:駅前停留場を150m移設し、豊橋駅前ペデストリアンデッキ下に乗り入れる(実質、1969年休止線の復活)[12]。
  • 2005年(平成17年)
    • 3月31日:駅前 - 新川間に駅前大通停留場が開業。
    • 9月1日:豊橋市市制100周年を記念し「ドリームトレイン」として、モ800形1両に豊橋市の小中学校から応募した絵を装飾。
  • 2024年(令和6年)11月15日:市内線の7箇所の交通信号機が右折分離式信号機に変更[13][14][15]。
  • 2025年(令和7年)9月5日:ダイヤ改正で土休日ダイヤを見直し、赤岩口行、運動公園前行それぞれ15分間隔をそれぞれ20分間隔に変更[16]。

運賃

運賃は2024年3月16日現在、大人200円・子供100円均一制で[17]、渥美線や名古屋鉄道などと共通利用可能なICカード乗車券「manaca」をはじめ、TOICA、Suicaなどの全国相互利用サービスを取り扱うICカードが利用可能である。運動公園方面と赤岩口方面とを行き来する場合は井原で乗り継ぎとなるが、運動公園 - 井原間と井原 - 赤岩口間のそれぞれで運賃(大人200円・子供100円)を支払う必要がある。市内線(当路線)の定期券をmanacaに載せると、バス(名古屋市営バス、名鉄バス、ゆとりーとライン地上区間など)と同様の扱いになり、鉄道の定期券と同一のmanaca一枚に載せると下段に印字される。2019年10月1日からの消費税税率の10%への増税に伴い、1997年と2014年の増税時には据え置いた運賃を大人180円に改定し、30年ぶりに値上げされた。1日乗車券も500円に値上げされた。その後2024年3月16日に行われた運賃改定によって、大人運賃は200円、1日乗車券は550円となった。なお、2027年5月に運賃改定が予定されており、大人運賃は230円になる[18]。

運行形態

2025年9月5日改正ダイヤでは、日中時間帯は駅前停留場から赤岩口行きと運動公園前行きが交互に、平日はそれぞれ15分間隔(駅前 - 井原間は7分30秒間隔)、土休日はそれぞれ20分間隔(駅前 - 井原間は10分間隔)で運行されている[16]。朝夕には競輪場前折り返しの電車も設定され、最短5分間隔で運行される。また乗客・下車客がいなければ停留場を通過する。さらに、「豊橋まつり」・「炎の祭典」・「納涼祭り(夜店)」・豊橋市民球場におけるプロ野球公式戦など、沿線でイベントが開催される時には臨時電車が増発される。車庫が赤岩口にある関係で、深夜の列車はほとんどが赤岩口行きとなっている(ただし、運動公園前 - 赤岩口間の回送列車も設定されている)。

イベント電車

おでんしゃ

東田本線では、毎年様々なイベント電車が運行されている。以前はイベント用に1両のみ残ったモ3100形3102号(2018年3月末に廃車)が使用されていたが、2010年からはモ3200形3203号が使用されている。

主なイベント電車は以下の通り。

納涼ビール電車
6月から8月にかけて、駅前 - 運動公園前間で1日2往復運行される。要予約。
花電車
10月の「豊橋まつり」が近付くと祭り1週間程前から当日まで運行される。他地域での花電車は回送扱いで運行し旅客は乗れないことが多いが、豊橋では乗ることが可能で、ビール電車やおでんしゃのような団体列車でもなく、通常の旅客列車として運行している。
おでんしゃ
電車内でおでんを提供。11月から翌年の2月にかけて、駅前 - 運動公園前間で1日1往復、土休日は1日2往復運行される。要予約。「納涼ビール電車」の冬季版として2007年に運行開始。なお、この「おでんしゃ」の名称は豊橋鉄道の登録商標となっており[19]、2015年3月には岡山電気軌道にて豊鉄の協力で「おでんしゃin岡山」が運行されている。

設備

工場を兼ねた車庫が赤岩口にある。これは赤岩口開業の際に設けられたもので、それまでは東田にあり、現在はスギ薬局東田店がその跡地に建っている。

車庫内の一部には、1894年に英国モスベイ社で製造されたレールが現在でも使用されている。

最大2両留置できる留置線が競輪場前停留場にあり、東田本線の営業所がここに隣接している。昼間の運転士交代はここで行われ、また夕方のラッシュ時には、ここに留置してある車両も用いられる。

上下線の渡り線は、新川停留場の西と東田坂上交差点東の2か所にある。新川の渡り線は年に1度の豊橋まつりの際に使用される。これは、電車を同停留場で折り返し運転として、ここから(豊橋)駅前までが総おどり開催のため歩行者天国となり運休するためである。東田坂上のものは、井原方面からの車両を競輪場前の留置線へ回送する際に使用される。競輪場前の留置線は、本線の単線部分に接続されているが、接続点のすぐ駅前方から複線となるため、井原方面から留置線へ無理矢理入れるためには、一度駅前方行き本線を逆走する必要があり、安全上できない。これは、競輪場前付近は軌道線用場内信号機などが設置されているため、井原方面から留置線へ入線させるには、新たな車両検知器(トロリーコンタクター)や、入れ替え信号機の設置が必要となるためと考えられる。そのため、井原方面から留置線へ入る車両は、いったん東田坂上交差点まで行き、その東側にある渡り線を利用して引き返してから留置線に進入する。

停留場一覧

  • 全停留場とも愛知県豊橋市に所在。
  • 停留場名・接続路線名は廃止時点、営業キロ・所在地は路線(区間)廃止時点のもの。
  • 各停留場では駅ナンバリングを行っている。

営業区間

東田本線(駅前 - 赤岩口間)
停留場番号 停留場名 停留
場間
キロ
営業
キロ
接続路線
1 駅前停留場 - 0.0 東海旅客鉄道:■ 東海道新幹線・CA 東海道本線〈浜松方面・名古屋方面〉(CA42)・CD 飯田線 (CD00)(豊橋駅)
名古屋鉄道:NH 名古屋本線(豊橋駅: NH01)
豊橋鉄道:■ 渥美線(新豊橋駅: 1)
2 駅前大通停留場 0.3 0.3  
3 新川停留場 0.3 0.6  
4 札木停留場 0.4 1.0  
5 市役所前停留場 0.4 1.4  
6 豊橋公園前停留場 0.2 1.6  
7 東八町停留場 0.5 2.1  
8 前畑停留場 0.4 2.5  
9 東田坂上停留場 0.3 2.8  
10 東田停留場 0.5 3.3  
11 競輪場前停留場 0.3 3.6  
12 井原停留場 0.5 4.1 東田本線(運動公園前方面)
13 赤岩口停留場 0.7 4.8  
東田本線(井原 - 運動公園前間)
停留場番号 停留場名 停留
場間
キロ
営業キロ 接続路線
駅前
起点
井原
起点
12 井原停留場 - 4.1 0.0 東田本線
14 運動公園前停留場 0.6 4.7 0.6  

廃止区間

東田本線
停留場名 停留
場間
キロ
営業
キロ
接続路線
市民病院前停留場 - 0.0  
城海津停留場 0.1 0.1  
駅前停留場 0.3* 0.4* 日本国有鉄道:東海道新幹線・東海道本線・飯田線(豊橋駅)
名古屋鉄道:名古屋本線(豊橋駅)
豊橋鉄道:渥美線(新豊橋駅)
  • *市民病院前 - 駅前間休止時に駅前停留場を新川寄りに0.2km移設しているので同区間の実際の休止・廃止キロ数は0.6 km。1998年に駅前停留場が豊橋駅寄りに移設され0.2 km「復活」している。
柳生橋支線
停留場名 停留
場間
キロ
営業
キロ
接続路線
新川停留場 - 0.0 豊橋鉄道:東田本線
中柴停留場 0.4 0.4  
松山停留場 0.2 0.6  
柳生橋駅 0.3 0.9 豊橋鉄道:渥美線

車両

運用中の車両

一部を除き、ほとんどの車両が全面広告塗装(またはラッピング車)となっている。

モ3200形
1976年(昭和51年)と1981年(昭和56年)に、名古屋鉄道より岐阜市内線・美濃町線で使用されていたモ580形を、合計3両譲り受けたもの。全3両のうち1両(モ3203)が2009年からイベント用となっている(イベントのない期間は通常の運用に入る)[20][21]。またこのうち、モ3201は2019年9月19日をもって営業運転を終了した[22]。また、モ3202も2020年2月11日をもって営業運転を終了した[23]。
モ3500形
1992年(平成4年)と1999年(平成11年)に、東京都交通局(都電荒川線)より7000形を、合計4両譲り受けたもの。東田本線ではモ3300形に次ぐ間接制御車。
モ780形
2005年(平成17年)より名古屋鉄道岐阜市内線・揖斐線(廃止)で使用されていた車両を7両すべてを譲り受け、モ3100形電車の後継車として投入、東田本線の主力車両となっている。豊橋鉄道としては初のVVVFインバータ制御車。
モ800形
2005年(平成17年)、名古屋鉄道から美濃町線(廃止)で使用されていたモ800形全3両のうち1両(モ801)を譲り受けて投入。部分低床構造で、東田本線では初のLRV車両である。2018年に改造を受け、運動公園前方面への入線が可能となった[24]。残る2両(モ802・モ803)は福井鉄道で使用されていたが、2018年12月26日に豊橋鉄道が購入することが発表され[25]、2019年3月13日に福井鉄道から搬出された[26]。このうちモ802は2019年10月16日より、モ803は2020年4月11日に営業運転を開始した。
T1000形
『豊橋路面電車活性化事業計画』の一環として、2008年(平成20年)12月19日より運用が開始されたLRV車両。車体構造は全面低床・全鋼製連接車(2台車3車体)でアルナ車両による製造。豊橋電気軌道創業以来83年ぶりの(他社車両の譲渡によらない)自社発注による新造車両。愛称は「ほっトラム」。井原停留場から運動公園前停留場へ向かう急カーブが車両構造上通過不能なため、運動公園前停留場には乗り入れない。

運用終了車両

単車

モハ100形
開業時の1925年(大正14年)に1形として新造された。1957年(昭和32年)に全車廃車。
モハ200形
1949年(昭和24年)に運用を開始した元旭川市街軌道の車両。市内線初の半鋼製車両。1965年(昭和40年)に全車廃車。
モハ300形
1950年(昭和25年)に名古屋市電より購入したダブルルーフ・オープンデッキの車両。1963年(昭和38年)に全車廃車。
モハ400形
1951年(昭和26年)に名古屋市電より購入した車両。旧・桑名電軌の車両と旧・下之一色電車軌道の車両の2種類あったが、同じ形式とされた。1963年に全車廃車。
モハ500形
1957年(昭和32年)に名古屋市電より購入した半鋼製電車。1968年(昭和43年)に全車廃車され、豊橋鉄道の単車は消滅。

ボギー車

モ3600形
1961年(昭和36年)に三重交通より神都線モ541形電車を譲り受けたもので、市内線初のボギー車となった。1971年(昭和46年)に全車廃車。
モ3700形
1963年(昭和38年)に、名古屋市電よりBLA形電車を譲り受けたもの。初期の狭軌用半鋼製低床ボギー車。4両が活躍していたが、1970年代に3両が廃車され、残った1両が「レトロ電車」として親しまれて来たが、2007年(平成19年)に運用終了[27]。2008年(平成20年)から豊橋市の「こども未来館」に静態保存。
モ3800形
1963年(昭和38年)に名古屋市電より900形電車を譲り受けたもの。入線当初は800形だったが、1968年(昭和43年)の改番により3800形となった。1989年(平成元年)までに全車廃車。
モ3900形
1964年(昭和39年)に名古屋市電より1150形電車を譲り受けたもの。1971年(昭和46年)に全車廃車。
モ3300形
1967年(昭和42年)に、北陸鉄道金沢市内線(廃止)よりモハ2300形電車を合計2両譲り受けたもの。入線当初は300形(2代目)だったが、1968年(昭和43年)の改番により3300形となった。
モ3100形
1971年(昭和46年)に、名古屋市電(廃止)の1400形後期形車両を譲り受けた車両。東田本線の主力車両として用いられてきたが、2006年(平成18年)までに3102号車以外の車両は廃車され、3102号車のみイベント用として広告部分を消去した上で、2011年(平成23年)まで使用された。同年以降休車となっていたが、2018年(平成30年)に廃車(搬出、解体)された。

車両数の変遷

年 モ3100形 モ3200形 モ3300形 モ3700形 モ3800形 モ3500形 モ780形 モ800形 T1000形 計(冷房車)
19829321116
19839321116
1984-
1988
9321116
1989932115
1990832114
1991832114(2)
1992832114(4)
19937321215(6)
19947321215(8)
19957321215(10)
1996-
1999
7321215(12)
2000-
2005
731415(14)
200613147117(16)
20071347116(16)
20081347116(16)
2009-
2011
13471117(17)
2012-
2018
3471116(16)
2019 3472117(17)
2020 1 4 7 3 1 16(16)
  • 1982・83年は1月1日現在、84年以降は4月1日現在
  • 『私鉄車両編成表』各年版、ジェー・アール・アール

歴代豊鉄社長の見解

社長在任期間は短いものの、豊橋鉄道(豊橋電気軌道・豊橋交通)に長らく影響力を行使した神野三郎

東海日日新聞社長の宮脇良一が語るところによれば、かつての豊橋鉄道顧問の神野三郎は市電愛用者であったという[28]。中部瓦斯(現在のサーラエナジー)が1965年(昭和40年)に編纂・出版した神野三郎の伝記である『神野三郎伝』によれば、豊橋鉄道本社に神野が出社する際は、会社側は自動車を手配したが神野はそれに乗ろうとせず、たとえ市電が混んでいたとしても市電による出社を好んだという[29](神野の自邸は東八町にあった[30])。

1969年には当時の豊橋市長の河合陸郎が、市電の存在が国道1号線の渋滞悪化の原因になっているとして豊鉄に市電廃止の検討を要請した。これは今井勇を委員長とする建設省交通処理調査委員会が国道1号線の渋滞解消のために市電の軌道敷を早急に撤去すべき(市電は早期廃止すべき)だと提言したことによるものである(いわゆる「今井提言」)。今井は、軌道の撤去工事費の負担については「(豊橋鉄道が保有する)軌道・枕木などを道路管理者に無償で譲渡するという条件で、国がいろいろ好意ある措置をとることができる」と説明し、豊橋鉄道に対して軌道資産を無償譲渡するよう求めた[31]。

それを受けて1969年(昭和44年)に豊橋市と豊橋鉄道との交通懇談会が催されたが、当時の豊鉄社長の香高菊男は「交通障害になっている市内電車の廃止については、交通緩和という地域的な要望もあり基本的には協力したい。しかし公共のためとはいえ、民間企業であるので会社が不利益にならないよう具体的な措置を検討、取締役会にはかったうえで態度を決めたい」と述べた[32]。この出来事を報じた時事通信社は「豊鉄側にしてみれば、市電を廃止してバス路線に切り換えると、軌道撤去費用をはじめ従業員の配転、撤去に対する市民感情など、いくつものむずかしい問題をかかえるわけで、この市電撤去問題にどんな結論を出すか注目される」とコメントした[33]。前年に豊鉄は沿線住民の反対を押し切って田口線を廃止したため豊鉄に対する風当たりが強く、また田口線運行に従事していた乗務員については、解雇とはせず他線へ転属させる措置を採っていた[34]。当時の豊鉄労組は今井提言と市電廃止に反対の立場を表明した[35]。(豊鉄労組委員長の村田英雄は1979年に、市電はバスよりも安全性で優れており、省エネ効果もある、単に赤字だからという理由での廃止は適当はない、愛知県唯一の路面電車なのだからサンフランシスコのように観光路面電車として活用する、子供を乗せて教育面で活用するなどの活用方法を検討すべきだと語っている[36]。)

1970年(昭和45年)5月に豊鉄社長の交代があり、田口線廃止協議で精力的に地元側との交渉にあたった専務の久保寺正三が新社長の座に就いた[37]。同年8月に東海日日新聞社長の宮脇良一は豊鉄新社長の久保寺と対談を行ったが、久保寺は存廃議論のある市電について当面は現状維持にすると語った[38]。久保寺が語った内容の要旨は以下の通りである。

  • いわゆる今井提言に関して、公益のために市電を廃止してほしいという言い分は理解できるものの、市電を廃止した場合、電車運転士が余剰になるがバス運転士に配置転換することはできない。また豊鉄が投資した電車や線路設備がスクラップになる訳であるから、豊鉄側の負担があまりにも大きい。そのため豊鉄は「会社が損せずに市電を廃止できるならば協力する」と豊橋市に回答をした。豊鉄側の回答を受けて、現在豊橋市側が市電の存廃について、廃止するならばその方法について詳細な検討をしている段階にある。
  • 豊橋駅の工事に伴い休止している駅前 - 市民病院前停留場の区間は、豊鉄側は営業再開を考えていたが、豊橋市から休止延長の申し入れがあったので、そのまま休止させている。当該区間はバス路線が並走して通っているためか、利用者からのクレームは豊鉄側にはきていない。
  • 1970年時点の豊鉄の収益比率は鉄軌道事業とバス事業で三対七である(かつてはバス事業が豊鉄の主な収益源であった)。市電の収支はバス事業の収益でカバーできるので、今のところ市電は豊鉄の経営に著しく悪影響を及ぼす存在ではない。
  • 存廃議論ではヨーロッパの路面電車が引き合いに出されることがあるが、ヨーロッパと日本では都市構造が異なるので単純な比較はできない。
  • 路面電車と路線バスについて、輸送可能な輸送人員数で比較すると路面電車の方が優位である。
  • 一方で路線バスは、歩道にアーケードを設けておけば雨の日に濡れずに乗れる利点がある(当時の市電は停留場に上屋がなかった)。名古屋市は路面電車から地下鉄と路線バスによる交通輸送体系に移行したが、その過程で無秩序に路線バスを拡充した結果、バス乗務員が不足し「間引き運転」の問題が発生している。単に利便性のみを追求すると別の弊害が生じる恐れがある。
  • ただし市電のバス転換が全く不可能という訳でもない。市電利用者は藤ノ花高校・桜丘高校・豊丘高校などの高校生の利用者が多いが、1966年(昭和41年)に東田変電所の火災で市電が不通になったとき、高校生利用者は今よりも多かったが、バスで旅客を捌くことができていた。

この対談の中で宮脇は「自動車交通量の多い国道1号線上にある2つの停留場は廃止してはどうか?」と久保寺に提案した。久保寺は「よい考え」としつつも、地元の反対などで停留場廃止は容易なことではないと述べた[39]。

久保寺は1976年(昭和51年)3月をもって柳生橋支線を廃止するという決断を下した。営業最終日の17時以降の柳生橋支線の電車の車内では「蛍の光」の曲が流され、19時46分に最終電車が新川停留場に到着すると、新川停留場で待機していた久保寺にハンドルレバーとレール犬釘を返還するというハンドル納め式のセレモニーが行われた[40]。

1979年10月に宮脇良一は「市電はどこへ行くのか」と題した座談会を催した。久保寺はその座談会において「(市電は)皆さんから「やれ」という存続の意見が多いのです。私の方もそれに応えて、やっていかざるを得ないと考えます。私としては市電を「やる」方向で考えています。市民の電車、市民の足としてがんばりたい」と述べた[41]。この座談会に出席した人物は市電存続派が多かったが、一方で久保寺はその座談会において市電の利用者が減少して赤字額が年々拡大しているとも語り、「個人的には、現実の輸送機関としてはバスの方がいいと思いますね。コストはバスの方が安い。それと市電は道の真ん中に出ているから、乗客が道の真ん中に出ていかなくてはならない。その点でバスの方が繁雑さがありません」「人に会うとだれも市電を残してほしいという要望がある。 そこで市電に乗りますかと聞くと、頭をかく人の方が多い (笑い)。皆さんの要望ですし、そういう方向で考えていきますが、皆さんももっと市電をご利用いただきたい」と述べた[42]。

久保寺はその後1983年(昭和58年)まで社長の座にあったが、社長在任後期の業績として井原停留場 - 運動公園前停留場間の市電の支線建設がある。路面電車が再評価され始めた1980年代、当時の豊橋市長の青木茂は新たに開園する岩田運動公園までの支線建設を久保寺に要請、豊橋市側が建設費の半分を負担することを条件に提示したため、久保寺は支線建設を受け入れ、1982年(昭和57年)に運動公園前停留場が開業した。路面電車の路線縮小・廃止が続いていた当時、この支線開業は「路面電車の復権の兆し」だとして全国の注目を集めた[43]。フリーライターの小川裕夫が当時の青木市長を知る人物に聞いて回ったところによれば、青木は路面電車の活用に関心があり、活気のある九州の路面電車を自ら視察してまわり、豊橋市電の活用の方法を模索していたという[44]。

久保寺は支線開業にあたり「市長から頼まれたけど、初めはバス路線で輸送するつもりだった」と中日新聞の記者に明かした。また昭和40年代を回想し「あの頃は国道1号線が渋滞、事故防止の面からバスに転換するよう求められた。国1バイパスの役割を果たす東名高速道路が出来なかったら、豊橋の路面電車も とっくになくなっていた」と述べた[45][46]。久保寺によれば市長の青木は市電の全面広告車を嫌っており、青木が助役時代に「美観上好ましくない」として市電の全面広告車を止めるよう要望されたこともあるが(豊鉄社内からもチンドン屋のようだとの批判が上がっていたという)、広告収入を得るために全面広告車を続けることにしたという[47]。

かつて路面電車に敵対的だった愛知県警も、市電の軌道敷が道路の中央分離帯の役割を果たし、自動車の速度抑制効果も見込める、また路線バスよりも排気ガスの抑制を図れるとして、市電の存在と支線の敷設を支持するとの見解を提示した[48]。

1983年(昭和58年)には社長の交代があり、安冨由理男(名鉄に入社し、宮城交通副社長を経て豊鉄に出向した人物)が新社長の座に就いた。安冨は久保寺前社長と同じく市電を存続させると表明した。しかし運動公園前支線に関しては、豊橋市が豊鉄に提示した開業前需要予測が過大だったのか、「(運動公園前支線は)利用者が少なく、営業的にはよくない」と宮脇良一に不満を述べている[49]。

東田本線が通る道路

脚注

出典

  1. ↑ 豊鉄市内線【豊橋市内】|豊橋鉄道株式会社
  2. ↑ “時刻表・路線図|豊鉄市内線【豊橋市内】”. 豊橋鉄道株式会社. 2023年3月10日閲覧。
  3. ↑ “Toyohashi City Train and Bus Route Map (The 2019 edition)” (PDF) (英語). 豊橋市役所 (2019年2月1日). 2023年3月10日閲覧。
  4. 1 2 「私鉄年表」『私鉄車両編成表 -全国版- 83年版』ジェー・アール・アール、1983年3月20日、140頁。
  5. ↑ “豊鉄・ほっトラム効果㊥”. 東海日日新聞. 2026年6月30日閲覧。
  6. ↑ 東海日日新聞社『宮脇良一選集 2』1982年 p.246-247
  7. ↑ “豊鉄・ほっトラム効果㊥”. 東海日日新聞. 2026年6月30日閲覧。
  8. ↑ 軌道運転規則第2条に基づき国土交通大臣の許可を得た方法であり、鉄道統計年報においては「その他の方式」とされる。
  9. ↑ 豊橋市史編集委員会編『豊橋市史 第4巻 (現代編)』1987年 p.753
  10. ↑ 森口誠之『鉄道未成線を歩く〈私鉄編〉』JTB、2001年、p.181
  11. ↑ 「豊橋鉄道 柳生橋支線をきょうから廃止」『交通新聞』交通協力会、1976年3月7日、1面。
  12. ↑ 『鉄道ファン』第38巻第5号、交友社、1998年5月、126頁。
  13. ↑ “交通信号機の表示方式が変わります”. 豊橋鉄道株式会社 (2024年11月8日). 2024年11月11日閲覧。
  14. ↑ 日本放送協会 (2024年11月15日). “愛知・豊橋で路面電車の専用信号導入 交差点の事故防止”. 東海 NEWS WEB. NHK. 2025年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月30日閲覧。
  15. ↑ “豊橋鉄道市内線で専用信号の運用が始まる 自動車との接触回避へ”. 東愛知新聞Web. 東愛知新聞社 (2024年11月17日). 2025年4月30日閲覧。
  16. 1 2 『【9/6~】渥美線及び東田本線(市内線)のダイヤ改正について』(プレスリリース)豊橋鉄道、2025年7月31日。2025年9月7日閲覧。
  17. ↑ 運賃・きっぷ|豊鉄市内線【豊橋市内】 - 豊橋鉄道(2024年4月1日閲覧)
  18. ↑ 『鉄軌道事業の旅客運賃改定申請について』(PDF)(プレスリリース)豊橋鉄道。2026年9月14日閲覧。
  19. ↑ 登録番号:第5249770号、登録日:平成21年(2009)7月17日、商品及び役務の区分並びに指定商品又は指定役務:43類 飲食物の提供、45類 宴会・会食のための施設の提供
  20. ↑ 豊橋鉄道で「納涼ビール電車」運転 - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2009年7月7日
  21. ↑ 豊橋鉄道市内線で花電車が運転される - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2017年10月15日
  22. ↑ 市内線運用車両の代替について - 豊橋鉄道、2019年9月13日
  23. ↑ “豊橋鉄道 モ3202号 営業運転終了(2020年2月11日)”. 鉄道コム (2020年1月12日). 2020年2月11日閲覧。
  24. ↑ 豊橋鉄道モ801が運動公園前行き運用に - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2018年4月7日
  25. ↑ 800形車両の「増車」について - 豊橋鉄道、2018年12月26日
  26. ↑ 福井鉄道公式Facebook、2019年3月15日
  27. ↑ 「鉄道記録帳 2007年3月」『RAILFAN』第656号、鉄道友の会、2007年6月1日、26頁。
  28. ↑ 東海日日新聞社『宮脇良一選集 2』1982年 p.128
  29. ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯 1965年 p.674
  30. ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯 1965年 p.615
  31. ↑ 時事通信社『地方行政』「表面化した市内電車の撤去 国道一号線の交通難緩和へ 豊橋市」1969年9月12日付 (6003)
  32. ↑ 時事通信社『地方行政』「表面化した市内電車の撤去 国道一号線の交通難緩和へ 豊橋市」1969年9月12日付 (6003)
  33. ↑ 時事通信社『地方行政』「表面化した市内電車の撤去 国道一号線の交通難緩和へ 豊橋市」1969年9月12日付 (6003)
  34. ↑ 鳳来町教育委員会「田口鉄道史編」『鳳来町誌』鳳来町教育委員会、1996年 p.172
  35. ↑ 東海日日新聞社『宮脇良一選集 2』1982年 p.128 - 129
  36. ↑ 東海日日新聞社『宮脇良一選集 2』1982年 p.128 - 129
  37. ↑ 東海日日新聞社『宮脇良一選集 2』1982年 p.246
  38. ↑ 東海日日新聞社『宮脇良一選集 2』1982年 p.246-248
  39. ↑ 東海日日新聞社『宮脇良一選集 2』1982年 p.247
  40. ↑ 『鉄道ジャーナル 1976年6月号(No.112)』鉄道ジャーナル社 1976年 ニュースファイル
  41. ↑ 東海日日新聞社『宮脇良一選集 2』1982年 p.133
  42. ↑ 東海日日新聞社『宮脇良一選集 2』1982年 p.133
  43. ↑ 『月刊交通 13』東京法令出版 1982年 11月 p.62-67
  44. ↑ “「岐阜市」衰退のワケは「路面電車」廃止のせい? 同じ名古屋圏でも大活躍のエリアが”. デイリー新潮 (2023年11月18日). 2023年11月18日閲覧。
  45. ↑ 『月刊交通 13』東京法令出版 1982年 11月 p.62-67
  46. ↑ 中日新聞 1982年8月1日記事 「レール延長の路面電車 復権への期待乗せ発車」
  47. ↑ 東海日日新聞社『宮脇良一選集 2』1982年 p.133
  48. ↑ 『月刊交通 13』東京法令出版 1982年 11月 p.62
  49. ↑ 東海日日新聞社『宮脇良一選集 4』1985年 pp.132

参考文献

  • 今尾恵介(監修)『東海』新潮社〈日本鉄道旅行地図帳〉、2008年。ISBN 978-4-10-790025-8。 
  • 日本路面電車同好会名古屋支部『路面電車と街並み 岐阜・岡崎・豊橋』トンボ出版、1999年。ISBN 4-88716-124-7。 
  • 和久田康雄『私鉄史ハンドブック』電気車研究会、1993年。ISBN 4-88548-065-5。 

関連項目

外部リンク