南海平野線

ウィキペディアから、無料の百科事典
平野線
末期の主力車両モ205形が車庫で解体を待つ
末期の主力車両モ205形が車庫で解体を待つ
基本情報
現況 廃止
国 日本の旗 日本
所在地 大阪府
種類 軌道
(初期はインターアーバン・郊外電車、晩年は市内電車・路面電車)
路線網 大阪軌道線
起点 今池駅
終点 平野駅
駅数 11駅
開業 1914年4月26日
廃止 1980年11月28日[1]
所有者 南海電気鉄道
運営者 南海電気鉄道
車両基地 大和川車庫
使用車両 使用車両の節を参照
路線諸元
路線距離 5.9 km
軌間 1,435 mm (標準軌)
線路数 複線
電化方式 直流600 V 架空電車線方式
路線図
テンプレートを表示
駅・施設・接続路線

廃止当時の状況

eABZq+l BHFq
0.0 今池 阪堺線
exBUE
堺筋
exBHF
0.4 飛田
uexSKRZ-Mu
阪神高速14号松原線
uxKRZ+xl uBHFq
上町線
exBHF
1.2 阿倍野(斎場前)
exBUE
庚申街道
exBHF
1.7 苗代田
exBUE
あびこ筋
xKRZt
大阪市営地下鉄御堂筋線
exBHF
2.2 文ノ里
exBHF
2.7 股ヶ池
xKRZu
国鉄:阪和線
exBHF
3.3 田辺
exBHF
3.8 駒川町
xKRZu
近鉄:南大阪線
exBHF
4.3 中野
exhKRZWae
今川
exBUE
今里筋
exBHF
5.4 西平野
exBUE
国道309号
exKBHFe
5.9 平野

平野線(ひらのせん)は、大阪府大阪市西成区の今池駅から同市平野区の平野駅までを結んでいた南海電気鉄道の軌道路線。飛田 - 阿倍野付近を除くほとんどの区間が専用軌道で、複数車両の連結運転を行い、終点の平野市街(平野郷町)は昭和になるまで大阪と別の都市であった。このため大阪軌道線の他路線と同じく「チンチン電車」とされつつも、平野市街と大阪市街とが接する高度経済成長期までは、都市間電鉄(インターアーバン)や郊外電車としての様相を呈していた[註釈 1]。

今池駅で南海阪堺線(現・阪堺電気軌道阪堺線)から分岐し、現在の阪神高速14号松原線にほぼ沿う形で平野駅までを結んでいた。平野駅は現在の西日本旅客鉄道関西本線(JR西日本大和路線)の平野駅や大阪市営地下鉄谷町線(現・Osaka Metro谷町線)の平野駅とは別の、より平野市街の中心部(本町通)に近い位置にあった。1980年(昭和55年)11月27日、阿倍野 - 西平野間のほぼ真下に沿って大阪市営地下鉄谷町線の天王寺 - 八尾南間が延伸開業したため、それまで担ってきた役割を同線に譲る形で同日限りで廃止された[1]。

本項では、南海平野線の敷設免許を取得し阪堺電気軌道(初代)に合併された阪南電気軌道株式会社(はんなんでんききどう、阪南電車・阪南電軌)、および平野線終点の南海平野駅から中河内郡柏原町(現・柏原市)の「柏原駅」に至る計画であった柏原線(かしわらせん)についても述べる。また平野線は軌道路線であるため、旅客に供する停車場を正式には「停留場」と称すが、旅客案内上「駅」とされていたことから、本項では後者に準ずる。

路線データ

  • 管轄:平野運輸区
  • 路線距離(営業キロ):今池 - 平野間 5.9 km
  • 軌間:1435 mm
  • 駅数:11駅(起終点駅含む)
  • 複線区間:全線
  • 電化区間:全線電化(直流600V)
  • 変電所:中野変電所
  • 車両基地:大和川車庫(現在の阪堺電気軌道我孫子道車庫)
  • 車両工場:大和川検車区(現在の阪堺電気軌道大和川車両区)
  • 運転速度:併用軌道40 km/h、新設軌道50 km/h(特例で認可)

歴史

戦前:都市間電鉄として

阪南電気軌道
種類 株式会社
設立 1913年(大正2年)2月14日[4]
廃止 1913年 (大正2年)7月1日(阪堺電気軌道に合併し解散)
業種 鉄軌道業
事業内容 運輸の業
娯楽方法の設備及び土地家屋の賃貸営業[4]
代表者 社長 片岡直輝[4]
資本金 600,000円[4]
関係する人物 取締役 奥繁三郎
同 大林芳五郎
同 野元驍
同 永田仁助
監査役 岩下清周
同 渡辺千代三郎
同 志方勢七
(出典:日本全国諸会社役員録[5])
テンプレートを表示

南海平野線は南海鉄道や、それに吸収された阪堺電気軌道(初代)それ自体によって計画された路線ではなく[6]、阪堺電気軌道と社長や役員などを同じくする姉妹会社の阪南電気軌道株式会社(はんなんでんききどう)が敷設免許を申請したという経緯を有する[6]。阪南は天王寺 - 平野 - 柏原間の電鉄路線敷設を目的として1912年 (大正元年)11月13日に平野までの敷設免許を取得し、翌1913年 (大正2年)2月14日に設立総会を開き、2月25日に登記[4]、6月13日に土地を収用したが、7月1日に阪堺へ合併され、解散した[6]。

阪堺は間もなく平野線の敷設工事に着手し、1914年 (大正3年)4月18日に竣工を迎え、竣工8日後の4月26日、今池 - 平野間が阪堺電気軌道平野支線として営業を開始した[6]。当初は旅客輸送のみならず貨物輸送も試験的に行っていたが、業績が不振であったため直ちに廃止された[6]。開業1年後の1915年(大正4年)4月28日には阪堺と南海の連絡切符が取り扱われるようになり、さらに同年6月21日を以て吸収合併され、南海平野線となった[6]。

終点の南海平野駅があった平野郷町は、江戸時代に「綿都」として全国的に知られた商業都市で、連歌の神として知られる杭全神社や融通念仏宗総本山の亀鉦寺(大念仏寺)を擁する門前町でもあったが、明治時代以降は平野紡績(のちの大日本紡績平野工場)などが設立され、近代化が進展しており、1895年時点でも大阪・堺に次ぎ、岸和田に並ぶ大阪府第四都市であった[註釈 2][7]。

平野にはすでに大阪鉄道(のちの関西本線・大和路線)平野駅が1889年(明治22年)5月に開業していたが[8]、市街の北端にあり、工場地帯への引込線や貨物輸送などが主で旅客には不便となっていたため、市街の中枢にターミナルを構える都市間電鉄の建設が、大阪 - 平野間で計画された。開業により南海平野駅前には商店街や歓楽街が密集するようになり、平野の中心街も泥堂筋から本町通に移った。他方では、平野の後背地が直接大阪市と結びついたり、人や需要が大阪側に吸い寄せられるストロー現象も生じた[9]。

沿線開発と田園都市

平野線開業以前の大阪南郊は、綿都・平野を中心とした一大の綿作地帯であったが、栽培については在来綿業の衰退で明治末頃までにほかの作物へ転換した[10]。工業については平野紡績などのように、輸入の木綿による機械工業へ転換していたが、工場地帯は平野線ではなく、先述のように省線関西線の沿線に多く建設されていた[10]。

平野線は大阪市街と平野市街の中間に位置し、大阪方には飛田遊郭(遊郭廃止後は飛田新地)などが存在したものの、そこから平野市街までの間には、開業当時は田園風景が広がっていた[11]。『平野郷 大阪市編入五十周年記念誌』によれば、当初の平野線は白鷺の舞い降りる田畑を専用軌道で横断しており、近くは大念佛寺の本堂や大阪無線電信局の鉄塔、遠くは大阪城の天守閣を眺望できた(白鷺がよく見られたことは平野白鷺公園の名称などに残されている)[8]。このため、かえって「煙塵の阪地」「阪都紅塵萬丈の俗地」からの逃避先として、それまでの田園地帯には中流階級の邸宅需要に合わせた都市化が急速に進行していった[11]。阿倍野方面では、天王寺土地株式会社によって明浄学院、桃山学院、旧制府立天王寺中学校などが立地する文教地区「文の里」の開発と文ノ里駅の寄付がなされた。

「風光明媚」と知られた桃ヶ池公園の美景で、大阪近郊にあって「高燥清水」と評された田辺町には、田辺駅や股ヶ池駅などが設けられた[11]。このため田辺町では都市開発が相次ぎ、特に大阪住宅経営株式会社が1920年(大正9年)に開いた鶴ケ丘経営地などの田園都市は、1922年(大正11年)分譲の東京洗足・自由が丘や北摂千里山に先んじ、欧州田園都市の設計思想を実践した[12][11]。田園都市のほかにも、桃ヶ池の周辺には遊園地(田辺遊園地、宮浦遊園地など)などの行楽施設が造成された[11]。平野方面でも、南海平野駅に近接して国立大阪府女子師範学校(のちの大阪教育大学平野キャンパス)が誘致され、また関西土地株式会社により平野白鷺に宅地が開かれるなど、別荘地や邸宅街、文教地区といった沿線開発が相次いだ。

これに加えて、大阪市都心部 - 平野方面への旅客流動が既存の恵美須町駅方面よりも、天王寺駅(阿倍野駅で上町線に乗り換え、または徒歩)へと向かう乗客が増加したことから、上町線と平野線とが平面交差する阿倍野交差点に連絡線を建設し、1929年 (昭和4年)から天王寺駅前 - 平野間の直通運転を開始した。また旅客の増加に伴い、同年12月8日からは2両連結運転を開始した。

同時期には、平野駅から平野市街を横断し、中河内郡八尾町(現・八尾市)を経由して、関西本線および大軌大阪線に並行しながら柏原町(現・柏原市)の柏原駅に至る柏原線[13](かしわらせん、南海平野線延長線[14])も計画されていた[15]。さらに大阪新報社編纂の『阪神ダイレクトリー』においては、大阪電気軌道・阪神急行電鉄・南海鉄道などと並んで紹介されており、平野線は郊外電鉄路線としての立ち位置にあった(大軌・阪神・阪急など当時の電鉄路線はインターアーバンとしての起源を有し、平野線と同じく軌道路線であった)[16]。他方では運行系統の直通する上町線や、同じく市内の私鉄軌道路線であった阪神北大阪線・阪急北野線と併せて、大阪市が大阪市電の一部として買収することも検討されていた[17]。さらに平野線と平行して、天王寺西門前 - 百済 - 平野間で大阪市電平野線(おおさかしでんひらのせん)を別に敷設する計画も存在した(大大阪時代に平野郷町が要求した編入条件)[18]。百済までが大阪市電百済線として開業したが、平野まで達することはなかった。

戦後:市内電車として

旧南海平野駅周辺に広がる繁華街(本町通、2026年)

1951年(昭和26年)12月20日には、それまで天王寺止まりであった大阪市営地下鉄1号線(現・Osaka Metro御堂筋線)が昭和町駅まで延伸された。昭和町駅は南海文ノ里駅と近接していたことから、それに伴い平野線乗客の多くが文ノ里駅で昭和町駅へと乗り換えるようになった。モータリゼーションの進展もあり、乗客はしだいに漸減し、2両連結運転も中止された。

高度経済成長期には、南海平野線沿線で繁華街・商店街が大きく発展し、ターミナルの恵美須町・天王寺駅前・南海平野のみならず、駒川町・文ノ里などの途中駅においても多忙であった。終点の南海平野駅前には、戦前から駅前の本町通・笈松筋を中心として、梅ケ枝通・大学通などにわたる繁華街が形づくられていたが、これに加えて駒川町駅前には駒川商店街も形成された。平野の繁華街は最盛期に約1.3キロメートル、駒川商店街は約1キロメートルに及んだ。また、万代百貨店などの大型店に加え映画街も形成されるなど娯楽の中心地でもあり、平野の繁華街では戦前からの平野弥生座を中心に4館(平野市街全体では5館)が密集し、駒川ではタナベキネマが存在した。

高速鉄道化と廃線

同時期には急速な都市化によって、平野市街が大阪市街と連坦するようになり、平野線も市内電車と化した。さらに、戦前から平野線の延伸を要求していた喜連(旧喜連村)や長吉(旧長吉村)をはじめとする東住吉区東南部(現・平野区南部)の各地域には公営団地(ニュータウン)が複数造成されるに至り、当該地域の公共交通機関であった大阪市営バスは飽和状態にあった。当時の大阪市交通局では、平野方面への延伸は戦前からの東西線(築港 - 平野)計画を継承した千日前線(神崎川 - 平野、のち長吉川辺方面が追加)が担い、国鉄平野駅および南海平野駅に高架で乗り入れる予定であったが、1963年 (昭和38年)の都市交通審議会において「南海平野線の高速鉄道化と、谷町線との相互直通運転が必要」と答申されたため、南海平野線の地下化・高速化も千日前線延伸と併せて検討されるようになった。

当該答申によればこの地下化・高速化は、南海電鉄が直営で行う計画であった[註釈 3]。しかし、南海はこれを放棄し、1971年 (昭和46年)12月の答申では大阪市交通局自らが谷町線の延伸を行う計画に変更となった。加えて1973年 (昭和48年)3月からは、平野線の阿倍野 - 西平野間および千日前線(計画)平野以南に並行するルートで、大阪市営地下鉄谷町線・天王寺 - 八尾南間10.5 kmの延伸工事が開始された。また、阪神高速道路公団(現在の阪神高速道路株式会社)が、阿倍野入口と松原JCTとを結ぶ阪神高速14号松原線の建設を計画していたことから、1978年(昭和53年)11月26日に、10年間の使用貸借契約を条件として、阿倍野 - 西平野間4.2 kmの専用軌道区間の鉄道用地を阪神高速道路公団に売却した。阪神高速松原線は大阪市営地下鉄谷町線・阿倍野 - 喜連瓜破間を基礎部分とし、谷町線と同時進行で建設された。

平野線の代替となる谷町線天王寺 - 八尾南間は、1980年(昭和55年)11月27日に開業し、地下鉄平野駅でセレモニーが挙行された[1]。谷町線の開業に伴い平野線は、1980年(昭和55年)11月28日に廃止された[1]。11月27日の1日に限り、谷町線と平野線の両方が同時に運行していた[1]。この最終運行日では、始発電車から終日無料として開放され、当日限りで姿を消す平野線、また平野線専用車両として運用され廃線と同時に廃車となることが決定していたモ205形電車を惜しんで、沿線住民や鉄道ファンらが早朝から詰め掛けた。沿線の各駅では、明浄学院高等学校の吹奏楽部による「蛍の光」の演奏、幼稚園児から乗務員への花束贈呈、鉄道友の会主催のお別れ会、西平野駅では地車囃子の演奏などの行事が開催された。戦前より計画されていた千日前線の平野延伸については、1981年(昭和56年)開業の南巽以南が事実上取りやめられ、現在の主計画は近鉄大阪線弥刀駅方面への延伸に変更されている。

平野市街に広がっていた本町通などの繁華街は、南海平野線の廃止に加え、谷町線喜連瓜破駅近くに「西日本最大級」の触れ込みで建設された東住吉ショッピングセンター(現・イオン喜連瓜破)の存在もあり、衰退に直面している。区民の間では平野市街のモダン建築の一つで、開業当初から用いられていた平野駅舎「六角堂(実際には八角形)」と、廃止後も駅構内1番のりばに静態保存されていたモ205形240号車を保存する住民運動を広く起こしたが、結局は取り壊された[19][20]。しかし、この住民運動がきっかけとなって「平野の町づくりを考える会」が成立し、エコミュージアム「平野町ぐるみ博物館」を展開する傍らで、南海平野線運転シミュレーターや駅名看板の維持などが行われている[20]。

駒川商店街についても、平野と同様に購買客の減少や大型店の撤退を迎えていたが、地域密着型の商店街に見直したところ店舗数は再び増加の傾向にあり、現代においては天神橋筋商店街・千林商店街と並ぶ「大阪三大商店街」の一つとして称せられている。

年表

1922年時点の路線図
  • (明治の終わり頃):阪南電気軌道が大阪府西成郡今宮村字今池から大阪府東成郡平野郷町に至る3.48マイルの軌道敷設を計画。
  • 1912年(大正元年):阪南電気軌道が大阪府西成郡今宮村字今池から大阪府東成郡平野郷町に至る3.48マイル軌道敷設を出願。軌道法に基づき、大阪府西成郡今宮村字今池から大阪府東成郡平野郷町に至る3.48マイルの軌道敷設特許、並びに命令書が交付される。
  • 1913年(大正2年)
    • 2月14日:大阪府西成郡今宮村字今池から大阪府東成郡平野郷町に至る3.48マイルの軌道敷設の認可を得て、阪南電気軌道株式会社設立され、正式に発足。資本金60万円(現在の価格に換算すると、約10億3000万円)。
    • この年:阪南電気軌道株式会社に対して工事施工認可が下りる。今池 - 平野間5.9 kmの軌道敷設工事着工。
    • 7月1日:旧・阪堺電気軌道が阪南電気軌道を合併し、今池 - 平野間の軌道敷設事業を継承するとともに、資本金を360万円(61億8317万円)に資本増強。
  • 1914年(大正3年)4月26日:旧・阪堺電気軌道株式会社が今池 - 平野間5.9 kmの路線を平野支線として旅客営業を開始。全区間4銭。
  • 1915年(大正4年)
    • 4月:阪堺電気軌道と南海鉄道との切符の共通取扱開始。
    • 6月21日:阪堺電気軌道が南海鉄道と合併し、旧・阪堺電気軌道平野支線は、南海鉄道平野線となる。
    • (不明):平野 - 柏原間の延伸を計画。
    • (不明):平野 - 柏原間の軌道敷設を出願。
  • 1921年(大正10年)6月7日:軌道法に基づき、南海鉄道に対して、柏原線 平野 - 柏原間の軌道敷設特許、並びに命令書が交付される。
  • 1922年(大正11年)3月:路面電車としては日本国内初となる色灯三位式自動閉塞信号機を導入。
  • 1923年(大正12年):天王寺土地株式会社から文ノ里駅の駅施設が寄付される。苗代田 - 股ヶ池間に文ノ里駅を新設し、旅客営業を開始。
  • 1929年(昭和4年)
    • 9月1日:南海鉄道上町線と平面交差する阿倍野(斎場前)交差点に南海鉄道上町線・天王寺駅前方面への連絡線が完成。
    • 12月8日:2両連結運転開始。「天王寺駅前 - 平野」系統の運行を開始。
  • 1934年(昭和9年)9月21日:室戸台風の被害を受ける。
  • 1935年(昭和10年)
    • 8月10日:中野 - 平野間に中野変電所を新設。
    • 9月13日:平野 - 柏原間の軌道敷設免許失効。
  • 1940年(昭和15年)4月1日:大阪市電との連絡運輸開始。
  • 1941年(昭和16年)6月15日:大阪市電との連絡運輸を廃止。
  • 1942年(昭和17年)2月15日:中野 - 平野間に西平野駅を新設し、旅客営業を開始。
  • 1944年(昭和19年)6月1日:戦時中の戦時企業統合政策である「陸上交通事業調整法」によって、南海鉄道が関西急行鉄道と合併し、近畿日本鉄道が発足。近畿日本鉄道平野線となり、天王寺営業局の所属となる。
  • 1947年(昭和22年)6月1日:旧・南海鉄道の路線が南海電気鉄道に分離譲渡。同社大阪軌道線の一路線となり、南海電気鉄道平野線となる。
  • 1949年(昭和24年)1月10日:集電装置がトロリーポールからビューゲルになる。
  • 1954年(昭和29年)4月11日:戦時中から休止となっていた「天王寺駅前 - 平野」系統の運行を再開。
  • 1960年(昭和35年)6月:2両連結運転中止。
  • 1966年(昭和41年):日曜祝日ダイヤを導入。
  • 1972年(昭和47年)6月:集電装置がビューゲルからパンタグラフになる。
  • 1973年(昭和48年)3月 - 地下鉄谷町線天王寺 - 八尾南間の延伸工事着手。
  • 1976年(昭和51年)7月1日:料金箱制を導入し、普通乗車券の発売を廃止。
  • 1978年(昭和53年)
    • 4月16日:5分毎の運転を実施。
    • 11月26日:西平野 - 阿倍野間の用地を10年間の使用貸借契約を付帯条件に阪神高速道路公団(現在の阪神高速道路株式会社へ売却。
  • (不明):阪神高速14号松原線の建設工事に伴い、中野 - 西平野間の線路を建設中の高架下の工事用仮線に移設。
  • 1979年(昭和54年)10月:阪堺線のワンマン化(上町線は1976年〔昭和51年〕7月1日から既にワンマン化)により、廃車予定のモ205形が平野線専用となる。
  • 1980年(昭和55年)
    • 8月21日:南海電気鉄道が平野線 今池 - 平野間5.9 kmの旅客営業の廃止を建設大臣と運輸大臣に許可申請(廃止日は大阪市営地下鉄谷町線の天王寺 - 八尾南間の延伸開業後)。
    • 11月11日:運輸審議会において、南海電気鉄道平野線 今池 - 平野間5.9 kmの廃止が認可される。
    • 11月23日:「平野線さようなら記念乗車券」(100円券3枚セット)を発売。
    • 11月27日:最終運行日[1]。平野線「さよなら電車」を運行。平野線全線、及び阪堺線の恵美須町 - 今池間、上町線の天王寺駅前 - 阿倍野間の平野線直通運転区間を終日無料開放。午後11時23分、平野発・恵美須町行最終電車が発車。66年の歴史に幕を閉じる。
    • 11月28日:書類上の廃止日。
  • ※平野線の廃止3日後の1980年(昭和55年)12月1日に、南海電気鉄道の大阪軌道線(阪堺線・上町線)が分社化され、現在の阪堺電気軌道株式会社が発足。

駅一覧

全駅大阪府大阪市に所在。接続路線の事業者名は廃止時点のもの。||:経由しない。

路線名 駅名 駅間キロ 営業キロ 阪堺線直通 上町線直通 接続路線 代替駅・備考 所在地
阪堺線 恵美須町駅 (0.6) (1.0) ●   大阪市営地下鉄:■ 堺筋線   浪速区
南霞町駅 (0.4) (0.4) ● 日本国有鉄道:大阪環状線・関西本線(新今宮駅)
南海電気鉄道:南海本線(新今宮駅)
大阪市営地下鉄:■ 御堂筋線・■ 堺筋線(動物園前駅)
  西成区
今池駅 0.0 0.0 ● 【乗換指定駅】
南海電気鉄道:阪堺線(住吉・浜寺駅前方面)・天王寺支線(今池町駅)
 
平野線
飛田駅 0.4 0.4 ●   阪堺線:今船駅
上町線 天王寺駅前駅 (0.5) (0.5) || ● 日本国有鉄道:大阪環状線・関西本線・阪和線(天王寺駅)
近畿日本鉄道:南大阪線(大阪阿部野橋駅)
大阪市営地下鉄:■ 御堂筋線・■ 谷町線(天王寺駅)
南海電気鉄道:天王寺支線(天王寺駅)
  阿倍野区
阿倍野駅
(斎場前)
0.8 1.2 ● ● 【乗換指定駅】
南海電気鉄道:上町線(住吉・住吉公園方面)
谷町線:阿倍野駅
かつては「葬儀所前」と称したが、のちに「阿倍野(斎場前)」として副駅名へ移った
平野線
苗代田駅 0.5 1.7 ● ●   谷町線:文の里駅
文ノ里駅 0.5 2.2 ● ●  
股ヶ池駅 0.5 2.7 ● ●   谷町線:田辺駅
田辺駅 0.6 3.3 ● ●   東住吉区
駒川町駅 0.5 3.8 ● ●   谷町線:駒川中野駅
中野駅 0.5 4.3 ● ●  
西平野駅 1.1 5.4 ● ●   谷町線:平野駅 平野区
平野駅 0.5 5.9 ● ●  
  • 今池駅は阪堺線今池駅との共同使用駅であり、平野線の電車は阪堺線のホームに乗り入れて、ホームの約100メートル南方で平野線が分岐していた。このため、平野線の廃止後も阪堺線単独駅として存続している。
  • 阿倍野(斎場前)駅は、上町線阿倍野駅との乗換指定駅であったものの、共同使用駅ではなかったため、平野線の廃止と同時に廃駅となった。

幻の柏原延伸計画

平野線は、平野からさらに中河内郡柏原町(現・柏原市)方面への延伸を計画し、柏原線(かしわらせん)として認可を受けていたが、1929年(昭和4年 )に発生した世界恐慌の影響や、1931年(昭和6年)に勃発した満州事変に始まる日中戦争・太平洋戦争への突入によって実現しなかった。

  • 動力:電気
  • 軌間:1435 mm
  • 区間:平野 - 柏原間
  • キロ程:9.756 km
  • 概算建設費:220万6655円
  • 特許年月日:1921年(大正10年)6月7日
  • 工事施工許可年月日:1925年(大正14年)12月24日
  • 工事着工期限:1926年(大正15年)6月23日
  • 工事施工期限:1934年(昭和9年)6月23日

使用車両

平野線および阪堺線はインターアーバンの性質を多分に含む路線であったため、モ101形など使用車両も当初から米国インターアーバンの影響を受けた、全長14メートル級の大型車が大多数を占めていた。なかでもモ161形は平野線での連結運転のために製造された形式で、連結器と総括制御が可能な間接非自動制御器を装備して落成した。低床路面電車としては、日本で最初の連結総括運転車両であった。

晩年の平野線では阪堺線ワンマン化まで、ツーマン対応車であった雲塗装(緑)のモ161形が充当されていた。運用の際は「ワンマンカー」のプレートを裏返して充当された。上町線ワンマン化までは、モ161形170号車以降およびモ301形(青色)、モ351形およびモ501形(橙色)の雲電車についても、ワンマン改造完了後の状態で運用された。ただし、いずれもツーマン非対応車のため「ワンマンカー」プレートは外された状態で充当された。

上町線および阪堺線ではワンマン運転化が進められた一方、平野線では廃止が決定していたこともあってツーマン運転のまま運用された。このため、上町線・阪堺線のワンマン運転化後は大型車の入線がほとんどなくなり、それまでの大阪軌道線では予備車であった中型車(全長11メートル級)のモ205形が、最大勢力として運用に入った。モ205形は平野線廃止に伴い形式廃止が決定しており、240号車は平野線さよなら運転も務めた。

保存車両

モ121形車両の制御装置・ブレーキ・営業機器などは、モ601形に流用されている。

車両形式 現状備考
車両番号状態
モ151形 全車廃車151号車サンフランシスコ市営鉄道で動態保存
153号車大阪市城東区にある個人宅で保存。
モ205形 全車廃車211号車大阪府高石市にある南海電鉄の
社員研修所の教材としてのカットボディーに改造。
212号車大阪府堺市堺区にある賢明学園幼稚園で保存。
217号車和歌山県和歌山市にある和歌山県立和歌山交通公園で保存。
223号車大阪府東大阪市にある鴨高田神社で保存。
229号車大阪府大東市にある大阪産業大学で保存。
237号車大阪府大阪市天王寺区にある四恩学園で保存、ただし原型はほとんど留めていない。
247号車カナダ・エドモントン市にある保存鉄道・エドモントン放射鉄道協会に動態保存。
248号車大阪府藤井寺市にある大井垣添児童園で保存。
モ251形(旧京都市交通局1800型) 全車廃車255号車アメリカ合衆国アリゾナ州のツーソンにあるオールド・プエブロ・トロリーに動態保存。
256号車大阪府大阪市住吉区にある我孫子道車庫で保管。

運行形態

運行系統

南海電気鉄道平野線は今池 - 平野間5.9 kmの路線であるが、平野線のみを走る列車の設定はなく、阪堺線と直通運転を行う恵美須町 - 今池 - 平野間(恵美須町 - 今池間が阪堺線)と、上町線と直通運転を行う天王寺駅前 - 阿倍野 - 平野間(天王寺駅前 - 阿倍野が上町線)の2系統で運行されていた。これは平野線が阪堺線の今池駅から分岐する路線、つまり社名「阪堺」の堺とは関係のない別線として建設された経緯(平野線は別会社の阪南電気軌道による免許であり、開業当時の路線名も「平野支線」)があったからである。

なお、方向幕が導入された初期には、「邊田」(旧書体で「田邊」)と「野中」(旧書体で「中野」)という行先表示があった(恵美須町駅の行灯形の行き先表示灯にも「田辺」の表示が残っていた)。実際に田辺・中野両駅には渡り線が存在し、特に前者には、長居にあった大阪競馬場での競馬に合わせて、臨時電車が運行されていた時期もあった。

盤面の地色 文字の色 系統 経路 備考
    恵美須町 - 平野 恵美須町 - 今池 - 阿倍野 - 田辺 - 平野 恵美須町 - 今池間は、阪堺線への直通運転区間
    天王寺駅前 - 平野 天王寺駅前 - 阿倍野 - 田辺 - 平野 天王寺駅前 - 阿倍野間は、上町線への直通運転区間

運行ダイヤ

  • 以下に平野線廃止直前の平野駅のダイヤを示す。

平日

 行先
恵美須町天王寺駅前
5時22分・42分29分・49分
6時2分・22分・40分・50分・55分10分・31分・45分
7時3分 - 8分毎9分 - 12分毎
8時2分 - 5分毎6分 - 9分毎
9時3分 - 12分毎12分毎
10時12分毎12分毎
11時12分毎12分毎
12時12分毎12分毎
13時12分毎12分毎
14時12分毎12分毎
15時12分毎12分毎
16時5分 - 10分毎10分 - 12分毎
17時5分 - 10分毎6分 - 12分毎
18時4分 - 7分毎6分 - 10分毎
19時6分 - 8分毎6分 - 10分毎
20時5分 - 10分毎8分 - 10分毎
21時5分 - 10分毎14分 - 16分毎
22時0分・15分・33分・53分6分・23分・44分
23時1分・11分・23分

日・祝日・及び12月30日 - 1月4日

 行先
恵美須町天王寺駅前
5時22分・42分29分・48分
6時3分・21分・43分10分・28分・50分
7時15分毎12分 - 18分毎
8時15分毎12分 - 18分毎
9時8分 - 10分毎8分 - 10分毎
10時8分毎8分毎
11時8分毎8分毎
12時9分 - 10分毎8分 - 11分毎
13時9分 - 10分毎9分 - 11分毎
14時8分 - 11分毎9分 - 11分毎
15時8分 - 11分毎8分毎
16時6分 - 10分毎6分 - 10分毎
17時10分毎10分毎
18時10分毎10分毎
19時12分毎12分毎
20時12分毎12分毎
21時6分 - 15分毎15分 - 17分毎
22時0分・15分・33分・53分7分・23分・44分
23時1分・11分・23分

沿線

軌道

軌道種別区間キロ程道路名平野線全線における割合
専用軌道 今池 - 飛田0.4 km 86.4%
阿倍野 - 平野4.7 km
併用軌道 飛田 - 阿倍野0.8 km大阪市道津守阿倍野線13.6%

平野線は南海大阪軌道線の中で最も専用軌道区間が多かったことから郊外電車のような趣もあり、前述したような連結運転なども行われた。

苗代田 - 文ノ里間には、大阪府道28号大阪高石線(あびこ筋)と交差する踏切が、中野 - 西平野間には、今里筋と交差する踏切があり、交通渋滞を引き起こしていた。また、計画道路として、文ノ里 - 股ヶ池間には松虫通が、西平野 - 平野間には主要地方道大阪内環状線(現在の国道479号)の建設が進みつつあったことから、これらの道路と交差する踏切も、交通渋滞を引き越こすことが予測された。

阿倍野駅の構造

起点の今池駅は、平野線が駅の南方で分岐するだけのことであり、施設的には他の途中駅と変わらず、現在でも駅の佇まいはほぼ当時のままである。ただし平野線と上町線とが接続する阿倍野駅については、交通量の多い阿倍野交差点における併用軌道上で平面交差しており、阿倍野駅のホームは平野線用と上町線用の計4つのホームが存在した。

平野線の阿倍野駅のホームは、阿倍野交差点の東側に位置する千鳥式ホームで、下り平野方面の線路には緊急時の渡り線が存在した。天王寺駅前発平野行きの電車が、上町線の下り線用ホームを発車すると、阿倍野交差点を左折東進、平野線へ入線後、再び平野線の下り線用ホームに停車したのに対して、平野発天王寺駅前行きの電車は、平野線の上り線用ホームのみに停車し、発車後、交差点を右折北上して上町線の天王寺駅前駅へと向かった。これは当時、上町線の下り線用ホームは阿倍野交差点の北側にあったのに対し、上り線用ホームが阿倍野交差点の南側にあったためである(4つのホームのうち、このホームだけ道路上の白線のみで安全地帯が無かった)。平野から来た列車の扱いは操車係員が恵(恵美須町)・天(天王寺駅前)の何れかのボタンを押し、構内信号が青と同時にブザー・チャイムが鳴り発車する方式を取っていた。なお平野線の廃止後、阿倍野再開発事業によって、あべのベルタ東側の交差点に新たなホームが新設され(安全地帯も設置)、下りホームとの相対式となっている。

阿倍野駅の平野線ホームは、「阿倍野(斎場前)」として、駅の表示や車内における車掌の停車案内において、上町線のそれと区別されていた(少し前まで交差点名にも「斎場前」が残っていたが、現在は改称されている)。「斎場前」というのは、かつて大阪一といわれた「大阪市立南斎場(阿倍野斎場)」に由来する。火葬施設はのちに瓜破斎場(平野区)に統合されて移転するが、今も都心の一等地に存在する広大な敷地の「大阪市設南霊園(阿倍野墓地)」に、その名残を留めている。

主な交差道路

主な交差鉄道路線

今池駅
南海電気鉄道天王寺支線(立体交差) - 南海電気鉄道天王寺支線と立体交差する位置は、阪堺線との分岐点の手前にあり、正確には平野線の線路上ではない。
南海電気鉄道阪堺線(平面交差) - 平野線の起点。
阿倍野駅(斎場前)
南海電気鉄道上町線(平面交差) - 平野方面行きのホーム進入前にダイヤモンドクロスを交差していた。
苗代田駅
大阪市営地下鉄御堂筋線(地下立体交差)
股ヶ池駅
日本国有鉄道阪和線(高架立体交差)
駒川町駅
近畿日本鉄道南大阪線(高架立体交差)
阿倍野駅 - 西平野駅間
大阪市営地下鉄谷町線(地下並走) - 最終営業日の1980年(昭和55年)11月27日のみ。

行先表示

平野線に入線する列車は、円形の板を使用し、恵美須町 - 平野が白地に黒文字、天王寺駅前 - 平野が青地に白文字で、それぞれ始終着駅を並列表記していた。

戦後、新造されたモ351形、モ501形車両の行先表示が布製の方向幕式で登場し、ワンマン改造されたモ121形、モ151形、モ161形、モ205形(一部のみ)、モ301形車両、それに元京都市電のモ251形の行先表示も布製の方向幕式となった。

南海電気鉄道は、平野線廃止の数年前より、大阪軌道線の車両を対象に上町線、阪堺線のワンマン運転開始に伴う改造が順次行っていったが、そのうちモ161形の一部はツーマン運転への切替が可能で、改造後、平野線の廃止までの僅かの間、「ワンマンカー」の表示板を裏返し、「平野」行きの方向幕を掲出して、車掌を乗せ平野線に入線するという半ば暫定的な姿がみられた。また、ワンマン非対応車であり、平野線廃止と同じくして全車廃車となる予定だったために、それまで小型車でワンマン運用には不向きである阪堺線を中心に運用されていたモ205形は、ワンマン改造されずに廃止を迎えた平野線に集中的に運用され、最末期は逆に平野線の「顔」ともなった。モ205形は廃止時まで行先板を使用していた。なお、その後に車両計画に変更があり、3両のみワンマン改造され、阪堺電気軌道に継承されている(既に廃車)。

ちなみに、平野線が廃止される2年前の1978年(昭和53年)9月30日限りで全廃された京都市電1800形の6両が譲渡され、大阪軌道線のモ251形として運用を始めている。ワンマン改造車共通の方向幕のため「平野」が存在しており、数えるほどではあるが平野線での運用が確認されている。

現在、阪堺電気軌道に引き継がれている南海時代からの車両モ161形、モ251形(既に廃車になっているが、256号車が我孫子道車庫に保管されている)、モ351形、モ501形の、旧タイプ(もはや、皆無に等しいがモ161形174号車には残っている。ただし廃車解体済)の方向幕を参考に示す。

行先表示幕

モ161形・モ351形・モ501形各車両

番号 表示
モ161形・モ351形・モ501形各車両 旧型車両(形式不明)
1 住     吉 寺 王 天
2 住 吉 公 園 道子孫我
3 天王寺駅前 邊   田
4 あ び こ 道 野   中
5 あ び こ 道 野   平
6 浜 寺 駅 前 須 美 恵
7 え び す 町 寺   濱
8 平     野 濱 大 堺
9 東     湊 院   宿
10 天 神 の 森 須   髙
11 臨     時 前 陵 御
12 試  運  転 下 ノ 宮
  • 5・11・12は赤文字表示、8はしばらく残っていたが現在は赤文字で貸切と表示

運行標識

※実物は円形。

恵美須町 - 平野系統

通常の電車

平


野
  恵
美
須
町

最終電車

平


野
  恵
美
須
町

天王寺駅前 - 平野系統

通常の電車

平



野
   天
王
寺
駅
前

最終電車

平


野
  天
王
寺
駅
前

運賃

普通運賃

廃止当時の普通運賃は以下のとおり。

区間運賃
大人小児
1区間大阪市内のみ乗車 100円50円
堺市内のみ乗車
2区間大阪市内 - 堺市内間を連続して乗車 140円70円
【乗り換え指定駅】
阿倍野・今池・住吉・我孫子道での乗り換え

定期旅客運賃

  • 1976年(昭和51年)7月から実施された上町線のワンマン運転に合わせて平野線の文ノ里駅の切符売り場も閉鎖され、朝ラッシュ時のみ集札要員が配置される無人駅となり、平野線内の有人駅は平野駅のみとなった。
  • この運賃表は、文ノ里駅の切符売り場が閉鎖された当時の文ノ里駅の定期旅客運賃表である。
駅名 経由 通勤定期通学定期備考
1か月 3か月 6か月 1か月 3か月 6か月
天王寺駅前 阿倍野 1,900円5,420円10,260円740円2,110円4,000円 上町線連絡
恵美須町 今池 2,500円7,130円13,500円1,060円3,030円5,730円 阪堺線連絡
南霞町 2,200円6,270円11,880円900円2,570円4,860円
今池   2,200円6,270円11,880円900円2,570円4,860円  
飛田 1,900円5,420円10,260円740円2,110円4,000円
阿倍野 1,600円4,560円8,640円580円1,660円3,140円
苗代田 1,600円4,560円8,640円580円1,660円3,140円
田辺 1,900円5,420円10,260円740円2,100円4,000円
駒川町 1,900円5,420円10,260円740円2,100円4,000円
中野 2,200円6,270円11,880円900円2,570円4,860円
平野 2,200円7,130円13,500円1,060円3,030円5,730円
天下茶屋 今池

今池町
2,500円7,130円13,500円1,060円3,030円5,730円 天王寺支線連絡
難波 2,800円7,980円15,120円1,220円3,460円6,590円 天王寺支線 天下茶屋経由
南海本線連絡
住ノ江 3,300円9,450円17,820円1,530円4,370円8,270円
宿院 今池 3,800円10,830円20,520円1,800円5,130円9,720円 阪堺線連絡
綾野町 3,800円10,830円20,520円1,800円5,139円9,720円
我孫子道 3,150円8,580円17,010円1,380円3,940円7,460円
北天下茶屋 2,500円7,130円13,500円1,060円3,030円5,730円
住吉公園 阿倍野 2,800円7,980円15,120円1,220円3,480円6,500円 上町線連絡
帝塚山四丁目 2,500円7,130円13,500円1,060円3,030円5,730円
北畠 2,200円6,270円11,880円900円2,570円4,860円

廃止後の状況

文ノ里駅跡に設けられた記念碑
平野駅跡に整備されたプロムナード平野
西平野駅跡に整備された背戸口公園

廃線跡は西平野 - 平野間を除く全線が阪神高速道路14号松原線の高架下となり、廃線時に松原線建設工事のため使用していた仮線も生活道路となっている。

今池 - 飛田間
分岐点と堺筋との交差点の専用軌道跡には雑居ビルが建っている。
大阪市道津守阿倍野線 天下茶屋東1丁目交差点から阿倍野交差点までの道路南側に残る架線支柱。
平野線の廃止に伴い、架線を支える支柱としての役目は終えたが、廃止以後も、大阪市西成区玉出東1丁目にある現在の阪堺電気軌道玉出変電所からの電気を阪堺線を経由し、上町線に送る送電線の架線支柱としての役目を担うことになった。その際、支柱番号は、上町線の饋電線を意味する「上 キ」となっている。
阿倍野交差点北東側にある架線支柱
平野線の廃止に伴い、上町線と平野線とを連絡する渡り線の架線を支える支柱としての役目を終え、長らく上町線の東側送電線のみの架線支柱となっていたが、都市計画道路長柄堺線の拡幅工事に伴う上町線の線路移設に伴い上町線の架線を支える支柱として再び本来の役目に復帰した。
阿倍野区阪南町1丁目にある阿倍野苗代田郵便局。
1944年(昭和19年)6月1日に開局した当時、平野線の苗代田駅前にあったことから「苗代田」が局名となり、平野線の廃止後も、郵便局名の変更もなく今日に至っている。
文ノ里駅跡の記念碑
現在の阪神高速14号松原線の高架下、そして地下鉄谷町線文の里駅の7号出入口付近にあった平野線の文ノ里駅跡の前に平野線の歴史や駅の沿革を記した記念碑が建っている。これは、廃止後地元の文ノ里商店連合会から南海電気鉄道に、長年親しんできた文ノ里駅の跡を偲ぶモニュメントをとの要望を受け、同社が1981年(昭和56年)3月に建立したものである。
東住吉区針中野3丁目に残る石の道標
刻まれている文字は「はりみち」と「でんしやのりば」。前者の「はりみち」は中野鍼灸院(中野小児鍼)のことで、平安時代の延暦年間(782年 - 805年)における設立とされ、町丁である針中野の由来にもなっている。後者の「でんしやのりば」は、道標の建立日が1914年(大正3年)4月とあり、阪堺(当時)平野線を示している(なお、この至近を走る近鉄南大阪線針中野駅が開業したのは、大正12年のことである)。建立者名は「新吉」とあり、当時の中野鍼灸院の院長である。
平野区背戸口5丁目にある「背戸口公園」
西平野駅跡に作られた公園で、公園内に設置されているレリーフには、阪堺線と上町線への直通運転区間を含めた当時の路線図とモ205形電車が描かれているほか、公園内の地面は線路をイメージした模様となっている。
西平野 - 平野間
この区間は背戸口公園(前述)とプロムナード平野(後述)に挟まれた形で廃線跡に住宅数件とカラオケBOX「ビッグエコー」が建っている。現在この区間の中間ぐらいの位置に国道479号線が交差しているが、その国道は平野線廃止後に整備された道路である。
平野区平野本町1丁目にある「プロムナード平野」
終点であった平野駅、および平野運輸区の建物跡と、その手前数百メートルの線路跡地を活用し、当時としてはモダンな八角形の屋根が特徴だった旧駅舎を模したベンチ、晩年、上町線と阪堺線とのワンマン化に伴い平野線専用として走っていたモ205形電車のレリーフ、信号機、レンガ敷きのレール、それに当時、平野駅で実際に使われていた車止めレールやホームの骨組を利用した藤棚などがある。
元々の計画では、平野駅の駅舎やホームが保存される予定であったため、モ205形240号車もホームに留置されていたが、のちに駅舎とともに解体され、現在のように整地されるに至った。これがきっかけとなって平野のまちづくり運動が生まれた。
平野区平野本町1丁目にある「平野南海商店街」
終点の平野駅に面していることからこの名が付けられ、廃止後も商店街名の変更もなく今日に至っている。

短命の南海平野線代行バス

大阪市営地下鉄谷町線の天王寺 - 八尾南間の延伸の際、阿倍野 - 平野間は既存の平野線の阿倍野 - 西平野間に沿う形で建設されたが、今池 - 阿倍野間および西平野 - 平野間は谷町線のルートから外れた。後者は地下鉄平野駅に利便を図った1号・2号出入口が設けられたが、前者については谷町線の延伸区間からも離れており、代替がなかった。そこで南海電鉄は、平野線の飛田駅から程近い今池 - 松田町間に今船駅を新設し、この駅を飛田駅の代替とし、今池 - 飛田間をこれに置き換えた。

そして、残る飛田 - 阿倍野間は、南海観光バス・天下茶屋営業所が運行するマイクロバスによる代行輸送となったが、阪堺電気軌道となった阪堺線と上町線との接続の悪さに加え、実際の運行距離よりも阿倍野での折り返し回送(阿倍野交差点は転回禁止)の距離が長かったことによる効率性の悪さが仇となって、結局1年程で廃止された。

停留所の位置

  • 飛田:旧南海平野線飛田駅
  • 阿倍野:少年グランド(現:阿倍野図書館)前

脚注

註釈

  1. ↑ 平野郷町は大阪市の被編入地域ではあるものの、『大阪市域拡張史』において「當時旣に都市としての形態を備へて居つた」[2]とか「市の東南、河內平野に接し一大街衢を爲すものであつて」[3]と記されているように、市域の中でも独立した都市として位置づけられていた。
  2. ↑ 同年の岸和田の人口は、岸和田城下(岸和田町)と岸和田浜の合算で9205人であり、平野郷町は人口8051人を数え、平野と岸和田は大阪と堺に次ぐ人口を有した[7]。
  3. ↑ この答申の6年後である1969年(昭和44年)に東急電鉄は、首都高速3号渋谷線の整備・営団半蔵門線直通のため、同社の保有する軌道路線であった「玉川線」を廃止し、1977年(昭和52年)に「新玉川線」として地下化開業している。

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 「私鉄年表」『私鉄車両編成表 -全国版- '81年版』ジェー・アール・アール、1981年4月1日、122頁。
  2. ↑ 大阪市 1935, p. 47.
  3. ↑ 大阪市 1935, p. 443.
  4. 1 2 3 4 5 官報 1913, p. 11.
  5. ↑ 商業興信所 1913, p. 410.
  6. 1 2 3 4 5 6 平野郷公益会 1931, p. 249.
  7. 1 2 斎藤軍八郎 1895, p. 295.
  8. 1 2 平野振興会 1980, p. 113.
  9. ↑ 『第二回全国都市問題会議 参考資料 甲篇』財団法人 東京市政調査会、1930年。
  10. 1 2 平野区誌編集委員会 2005, p. 228.
  11. 1 2 3 4 5 吉田勇 1914.
  12. ↑ 大原社会問題研究所 1921, p. 416.
  13. ↑ 「大阪中心の交通網 : 夥しい電車敷設請願 : 何れも着々工事進捗」『大阪朝日新聞』1923年4月4日。神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫より2026年10月25日閲覧。
  14. ↑ 「ノビル・フクレル大阪の郊外電車」『大阪朝日新聞』1923年5月3日。神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫より2026年10月25日閲覧。
  15. ↑ 「難波の向うを張る南大阪の新玄関口 : 鉄道電鉄六線の集合する阿部野橋と若返った河南 : ノビル・フクレル大阪の郊外電車」『大阪朝日新聞』1923年5月5日。神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫より2026年10月25日閲覧。
  16. ↑ 大阪新報社 1920, p. 148.
  17. ↑ 大阪市 1926, p. 954.
  18. ↑ 大阪市電気局 1937.
  19. ↑ 平野区誌編集委員会 2005, p. 293.
  20. 1 2 平野区誌編集委員会 2005, p. 296.

参考文献

関連項目

外部リンク