馬場惟保
ばば これやす 馬場 惟保 | |
|---|---|
| 生誕 |
1899年10月31日 東京 |
| 死没 |
1972年3月23日(72歳没) 愛知県豊橋市 |
| 死因 | 胃癌 |
| 国籍 |
|
| 出身校 | 東京帝国大学法学部 |
| 肩書き | 豊橋鉄道社長 |
| 前任者 | 藍川清成 |
| 後任者 | 香高菊男 |
馬場 惟保(ばば これやす[1]、1899年(明治32年)10月31日 [2] - 1972年(昭和47年)3月23日[3])は、日本の鉄道官僚、実業家。豊橋鉄道社長。
馬場の豊橋電気軌道の社長在任期間は1948年(昭和23年)10月27日 - 1949年(昭和24年)7月31日で、豊橋鉄道(豊橋交通)の社長在任期間は1949年(昭和24年)12月23日 - 1966年(昭和41年)5月19日である。豊橋鉄道の社史である『豊橋鉄道100年史 1924-2024』では、前身会社の豊橋電気軌道の社長の代数を加算し、馬場を「5代目・7代目社長」とカウントしている[4]。
経歴
戦前の経歴
- 1899年(明治32年)、東京で生まれる[5]。『鉄道省高等官人事要録』によれば、1867年(慶応3年)生まれの馬場惟夫の長男であり、母は1879年(明治12年)生まれで鹿児島出身のタマという名の女性であるという[6]。(父の馬場惟夫は、馬場貞子の息子の馬場惟夫と同一人物?)
- 1920年(大正9年)、第七高等学校造士館卒業[7]。
- 1923年(大正12年)、東京帝国大学法学部政治学科卒業[8][9]。同年鉄道省入省[10]。
- 1930年(昭和5年)、札幌鉄道局運輸課旅客係長に就任[11]。
- 1931年(昭和6年)、馬場は欧米各国の鉄道の視察を命じられ出国[12][13]。
- 1933年(昭和8年)、海外視察より帰国[14]。
- 1936年(昭和11年)、大阪鉄道局庶務課長に就任[15]。
- 1940年(昭和15年)3月、鉄道省側の説明員として貴族院に出席し、貴族院議員に省営自動車の現状や、鉄道省のディーゼル車の国産化推進計画について説明した(当時の馬場は鉄道省運輸局自動車課長のポストに就いていた[16])。貴族院議員の秋元春朝からの「既存のガソリン車をディーゼル車や木炭車に改造できるのか?」との質疑に対し馬場は「そうした改造は不可能である」と答弁し、後藤一蔵の「ガソリン車とディーゼル車の燃費はどれくらいの差があるか?」との質疑に対し馬場は「消費する油の量を比較したとき、ガソリンの油の消費量に対して、ディーゼルの油の消費量は6割から7割で済む」と答弁した[17]。
- 1941年(昭和16年)、現地の鉄道事情視察のため仏印進駐後のフランス領インドシナへ派遣される。
- 1942年(昭和17年)、英領ビルマへ日本軍が侵攻し同地を占領。イギリス軍は撤退の折に現地の鉄道設備を破壊したため、馬場ら鉄道省技官がビルマへ派遣され、鉄道第五連隊の下で線路復旧と鉄道路線営業の任務にあたった。馬場を長とする部署は「馬場機関」と呼ばれた[19][20]。
- 1944年(昭和19年)、馬場は本土へ戻り新潟鉄道局長に就任にするも[21]、戦時輸送体制の構築のため名古屋鉄道から招聘され、同社の取締役に就任。鉄道省を退官する[22][23]。馬場は後年に、名鉄時代に同じく取締役だった千田憲三の死去に際し、当時を振り返って以下の追想文を残している。
豊橋電気軌道の社長就任
終戦後の1948年(昭和23年)には名鉄とその関連会社で大きな権勢を振るっていた藍川清成が胃癌で死去した。藍川は独占禁止法に抵触するとして名鉄傘下企業の社長のポストを相次いで辞任していたが、名鉄傘下の会社の一つである豊橋電気軌道に関しては死去まで社長の座にあった[25][26]。そのため豊橋電気軌道の社長のポストが空くことになったが、その後任として馬場は同社社長に就任した[27][28]。豊橋電気軌道は現在の豊橋鉄道の前身会社であるが、当時の豊橋電気軌道は現在のそれとは様相が異なっており、東田本線と柳生橋支線のみを経営する軌道会社(路面電車運営会社)であった。現在の渥美線は豊橋鉄道の所有であるが、当時は名鉄の所有であり、バス事業に関しても、戦時体制化において東三河のバス会社が強引に統合されて設立した豊橋乗合自動車に国策に従ってバス事業を譲渡せざるを得ず、戦後しばらくはバス事業を営んでいなかった。
神野三郎との関係

当時の豊橋の財界には神野三郎という人物(名士)がいた。神野は豊橋電気軌道の社長ではないが、影の実力者としてその経営に大きな影響を及ぼしていた。神野の実弟の水谷登免吉はかつて藍川清成の腹心の部下であり、名鉄現社長の神野金之助も神野三郎の親族だった[29]。
神野は、終戦後の一時期は独占禁止法違反の容疑で経営から離れていたものの、のち経営に復帰し、1947年(昭和22年)に神野は豊橋乗合自動車の社長に就任した。神野は豊橋電気軌道との合併を主導し、東三河の交通網の一元化を目指した。両社の合併を目指した動機としては、戦前期に豊橋電気軌道とバスとの競合によって経営が疲弊したということがあり、同様の事態を避けるのが目的であった[30]。
1949年(昭和24年)に「豊橋電気軌道」と「豊橋乗合自動車」が合併し、新会社「豊橋交通」が発足した。新会社の社長には神野が就任したが、その年のうちに社長の座を馬場に譲った。しかし神野はその後も長らく同社の会長・顧問の地位にあり、ほぼ毎日のように豊橋鉄道本社に出社し、影響力を行使した[31]。
神野は1961年(昭和36年)4月30日に85歳でこの世を去った [32]。神野の葬儀は5月3日に豊橋市花園町の豊橋別院で盛大に執り行われたが、馬場は神野が経営に関与した関係会社の代表として以下の弔辞を読み上げた。
弔詞
神野三郎殿の御英霊に対し、関係会社を代表いたしまして謹んで申し上げます。私どもはあなたの御逝去を承りまして、誠に慈父を喪ったような気持で御座います。私どもの会社が、それぞれ、あるいはその創設にあたり、あるいは戦中戦後の経営最も困難なときにあたり、御懇篤な御指導を賜りました御恩は、到底筆舌に尽すことは出来ません。あなたが豊橋経済界の長老として、常に後輩の指導に当られ、特に会社不況のときに適切な助言と激励を賜りましたことは、私どもの特に感銘を深くし忘れ得ないところで御座いまして、常に所謂頼りになる人として、慈父の様な気持で尊敬し親しんで参りました。今日ここにお別れすることは、私どもの大きな悲しみで御座います。あなたがその御生涯において、神野新田開拓をはじめ幾多の事業に尽くされた御功績は、誠に大きく永久に残って後人を励ますものと信じます。私どもはあなたの志を継ぎ、御教訓に従いまして、それぞれの事業を守り御期待に添いたいと存じます。
昭和三十六年五月三日
中部瓦斯株式会社 豊橋鉄道株式会社 東海興業株式会社 豊橋信用金庫 渥美運輸株式会社
右代表 豊橋鉄道株式会社 取締役社長 馬場惟保 [33]
豊橋鉄道への社名変更、営業エリアの拡大、経営の多角化

既述の通り、馬場が社長に就任したころの豊橋電気軌道は単なる路面電車経営会社にすぎなかったが、「豊橋乗合自動車」との合併によってバス事業にも参画、さらに渥美線の名鉄からの受譲や、田口鉄道の吸収合併によって豊橋鉄道は営業エリアを東三河全域に大きく拡大させた[34]。
渥美線は渥美電鉄という会社によって敷設されたものであったが、同社は1940年(昭和15年)に名鉄に合併され名鉄渥美線となった。豊橋交通は名鉄渥美線の獲得を目指し、譲渡の打診を名鉄に行った[35]。
名鉄側はこの打診を前向きに検討した。その理由としては、名鉄は渥美線と豊橋交通バスとの競合を避けるため、豊橋交通による東三河の交通網の一元化を望んでいたこと、また営業成績の芳しくない渥美線を名鉄で経営し続けるよりは、中小事業者の豊橋交通が経営した方が、中小事業者ゆえに旅客運賃の値上げ申請が容易になり、採算を維持できるだろうという経営判断によるものだった[36](当時の名鉄は名古屋本線、犬山線、常滑線、津島線以外の大部分の路線は赤字で経営をひっ迫させていたという[37])。
当時の名鉄労組は、渥美線の譲渡によって豊橋交通への転属社員が生じることになるが、転属社員の給与が切り下げられる恐れがあるとして渥美線の譲渡に反発、「東三河の交通網の一元化が目的ならば、名鉄が豊橋交通を吸収合併すべき」だと労組側は提案した。しかし豊橋交通側は名鉄との合併を望む意向はないとして拒否したため、この提案が実現することはなかった[38]。また渥美線は名鉄名古屋本線との直通運転が物理的に困難であり、合併したところで鉄道輸送体系を効率化できる訳ではなかったことも合併に至らなかった要因の一つであるという[39]。なお名鉄労組の伝えるところによれば、「渥美線譲渡に関して、豊橋交通への転属希望者がいないならば、当面は渥美線運行に従事する名鉄社員を貸してほしい(すなわち名鉄社員を豊橋交通へ出向させてほしい)」との要望も豊橋交通側からなされていたという[40]。
渥美線譲渡問題は名鉄役員の土川元夫が労組側との交渉にあたったが[41]、労組側の「豊橋交通へ転属しても給与の切り下げは行ってはならない」という条件を豊橋交通側が呑むことにし[42]、渥美線の譲渡の運びとなった。
1954年(昭和29年)7月22日に豊橋交通は「豊橋鉄道」へと社名を変更した。同年10月1日付で、名鉄社長の神野金之助と豊橋鉄道社長の馬場との間で路線譲渡に関する協定書が交わされ[43]、渥美線は豊橋鉄道へと譲渡された。最終的には渥美線運行に従事していた社員のうち152名が名鉄から豊橋鉄道に転属することになった。しかし高給が保証された名鉄からの転属社員と、旧来からの在籍社員との賃金格差が発生し、豊鉄労組による「賃金平準化闘争」がなされたという[44]。なお法的拘束力を持つものではなかったが、田原町議会(当時)は、渥美線が豊橋鉄道に譲渡されれば、大幅な運賃の値上げが見込まれるが、そうなれば沿線住民の経済的負担が増大し、地場産業にも悪影響を及ぼすとして、渥美線の譲渡反対の決議を満場一致で採択している[45]。
1956年(昭和31年)10月には、豊橋鉄道と同じく名鉄傘下の田口鉄道を吸収合併した。合併の理由については諸説あるが、豊橋鉄道は観光需要の見込める奥三河の交通網の獲得を目論んでいたという説[46]や、親会社の名鉄の意向で田口鉄道を救済合併したとする説などがある [47]。中部瓦斯(現在のサーラエナジー)が1965年(昭和40年)に編纂・出版した『神野三郎伝』によれば、名鉄から豊橋鉄道への渥美線の譲渡や、豊橋鉄道による田口鉄道の吸収合併は、東三河の交通網の一元化を目指した豊橋鉄道顧問の神野三郎の影響があったとしている[48]。当時の運輸審議会は、豊橋鉄道による田口鉄道の吸収合併について以下のようにコメントしている。
解散会社たる田口鉄道株式会社は、本長篠、三河田口間二二・六キロの地方鉄道業を経営しているが、その業績は、逐次、自動車の進出により、安定の域に達しておらず、辛うじて兼業たる砕石事業により維持しており、また、線路その他の施設も耐用年数を経過しており、老朽のため、到底激増しつつある輸送需要に応じることは不可能で、将来ますます経営困難が予想され、 なんらかの打開策を講ずべき転機にきているのであるが、独自の力をもってしては困難である。
一方、存続会社たる豊橋鉄道は、地方鉄道、軌道及びバス事業を経営しており、とくに広汎なバス網は、田口鉄道の沿線にまで及んでいる。今回両社が合併することによって、この鉄道の経営を合理充実し、地方交通機関の相互調整をはかることになり、沿線住民に一層の便益供与が期待されるものと思われる。したがって、この申請は、認可することが適当であると認められる[49]。 — 『運輸審議会半年報 昭和31年』
昭和30年代はモータリゼーションによって自家用車が普及し始めた時期にあたるが、豊橋鉄道は経営の多角化のため自動車販売・修理業にも参画した。豊鉄スバル自動車・豊鉄自動車販売などの子会社が新たに設立され、豊鉄スバル自動車に関しては馬場が社長を兼務した[50][51]。隣の遠州地方の私鉄である遠州鉄道は、現在、自動車販売業など付帯事業の方が鉄道本業よりも大きな収益をあげているが[52]、豊橋鉄道の場合は、馬場没後の1975年(昭和50年)に、自動車販売・修理業を豊鉄グループから手放している[53]。
田口線の存廃問題

馬場は1966年(昭和41年)まで豊橋鉄道社長の座にあったが、社長在任後期は田口線の赤字と存廃問題の対応に苦慮した。
豊橋鉄道は田口鉄道を吸収合併し「豊橋鉄道田口線」と改称した。豊橋鉄道は1961年(昭和36年)頃までは田口線への投資を行う姿勢を見せており、合併の翌年から翌々年にかけては玖老勢駅駅舎の改修工事、清崎駅の保安装置改良、排水路増設、大久賀多隧道の補強工事、電車の戸締装置の半自動化(ただしモ14電車は手動のままであった)などを行っている[54][55]。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風では、田口線は甚大な被害を受け5日間不通になったが、豊橋鉄道は田口線に巨額の投資をして全線を復旧させた[56]。1961年(昭和36年)には三河海老駅の変電所改良工事が行われた[57]。しかしモータリゼーションの進展により接続の設楽森林鉄道が廃止されるなど田口線の貨物輸送量が減少し赤字拡大に歯止めがかからなかった[58](田口線廃止を表明した1964年に豊橋鉄道が地元側に提出した資料によれば、1959年から63年まで田口線の旅客人数に変動はないが、貨物輸送量が激減して大赤字になった、旅客運賃を2倍にしても収支が合わないと説明されている[59][60])。
田口線の赤字が拡大した一方で、1950年代はモータリゼーションと言えども路線バスでは採算がとれる時代であり、豊橋鉄道は奥三河の広大なバス路線網を維持していた。設楽町の田口や東栄町の本郷が奥三河の路線バスが集散・発着する地点で(詳細は豊橋鉄道設楽営業所の記事参照)、現在も豊鉄バスが通る津具(かつては津具スケート場があった[61])のほか、現在は廃止されているが長野県の根羽や新野(阿南町)にも豊橋鉄道の路線バスが乗り入れていた[62]。1980年代に奥三河の赤字バス路線の合理化を進めた豊橋鉄道社長の安冨由理男(社長在任:1983年-1987年)は「(路線バスは)昭和四十年代は全盛だった。五十年代に入り少しずつおかしくなってきた」と述べている[63]。名鉄に入社し同社取締役を経て、豊橋鉄道社長に就任した神野義郎(神野三郎の孫にあたる人物)は、名鉄在籍時代から長らく三河のバス事業に関与してきたが、神野は1950年代から60年代を振り返って「三河山間部からバス路線をひいてくれという陳情が多かったですね。”道路がよくないと走れない” と言うと ”道路の改良工事をしたから心配いらない。見に来てくれ” と熱心なんです。開通路線では地元の子供たちが日の丸の旗を振って大歓迎してくれましてね。いい時代でしたよ」と語っている[64]。
豊橋鉄道は遅くとも1964年(昭和39年)には田口線の廃線とバス転換の検討を社内で進めており、そのことが同年9月12日の東海日日新聞の一面で報道された(「老朽の田口線ついに廃止 バス運行に全面転換」)[65][66]。その記事では、豊橋鉄道の運営する鉄軌道は渥美線のみ辛うじて採算が取れているが他は赤字である、中でも田口線が特にひどく年間2,900万円の赤字で、もはや運営が困難であるから、豊橋鉄道は近いうちに田口線の廃止を正式に決定し、地元側に説明を行う予定だと報じられた[67]。その報道の通り、豊橋鉄道は同年10月21日の取締役会で田口線廃止の方針を決定[68]、翌日には専務の久保寺正三(名鉄の財務部次長・名古屋営業部支配人などを経て、豊橋鉄道に出向した人物[69][70])が沿線自治体(鳳来町・設楽町)の役場を訪問して会社の方針を通知し、「田口線によって巨額の赤字が生じていること」「赤字の増大と鉄道設備の老朽化で田口線の運営は限界に近付いていること」「バス転換によって赤字削減が可能であり交通網を維持できること」などを訴えた[71]。当時の法令では、廃線は許可制であったため豊橋鉄道側の一存で廃線にできるものではなく、関係各署の許可(了承)が必要であった[72]。豊橋鉄道側の意向が周知されると、沿線住民の間では田口線廃止に反対する住民運動が起こった[73]。
豊橋鉄道労組の伝える所によれば、取締役会による田口線廃止決定に先立つ1964年10月17日に経営陣から労組に口頭で 「田口線を廃止する」という内示があったという。その理由については「毎年巨額の赤字があり、公共性といえどもこれ以上存続する訳にはいかない。廃線と言ってもバス転換であり利便性は従来以上に確保するつもりである。田口線のバス転換については組合と事前に協議をしたい」との説明があったという[74]。豊橋鉄道労組は田口線廃線に関して「廃線による社員解雇や待遇切り下げには反対するが、田口線廃止自体については、代替交通が十分に整備されるならば(事情を鑑みて)敢えて反対しない」との立場をとった[75]。
社長の馬場は田口線の存廃問題について、専務の久保寺に一任し地元側との交渉にあたらせた。当時の鳳来町長の加藤淳によれば、社長の馬場は芸者を引き連れて湯谷温泉を訪れるなどプライベートでは奥三河をしばしば訪れていたが、廃線協議の場に馬場が姿を見せることはなかったという[76]。
田口線の存廃問題は地元との協議が難航し、馬場の社長在任中には解決を見なかった。
晩年・死去
豊橋鉄道は、社名変更前の豊橋交通発足時の1949年(昭和24年)以来、株主に配当金を支払ってきたが[77]、1966年(昭和41年)は田口線の累積赤字問題のため無配に転落した[78]。同年5月に馬場は豊橋鉄道社長を辞任し[79]、会長となった。豊橋鉄道の新社長には香高菊男(名鉄の常務取締役・施設局長で犬山モノレールの建設を主導し[80][81]、1963年11月から豊鉄に出向し副社長の座に就いていた人物[82])が就任した。社長の交代に伴って豊橋鉄道の重役陣も刷新され、その多くが入れ替わった。香高新体制では赤字削減と合理化のため、馬場体制よりも田口線廃止を進める方針をより鮮明にし[83]、1968年(昭和43年)9月1日をもって田口線は全線が廃止されることになった[84]。
会長時代の馬場は、豊橋バスターミナルや向山ボウリング(豊橋市にかつて存在したボウリング場)など、豊橋鉄道の関連会社の社長も務めた[85]。
馬場は1972年(昭和47年)3月23日に胃癌のため豊橋市民病院で死去した[86][87][88]。享年72[89]。馬場の葬儀は芦原にあった自邸で執り行われた[90]。
家族
人物
馬場は温厚な人柄であったとされる。東海地方の経営者の人物像を紹介した書籍である『東海人物春秋1965年度版』では、「人間性と非凡な手腕を買われて、(昭和)二十三年豊橋鉄道の社長に就任した。まだ豊橋電気軌道と名乗っていた頃である。その後、豊橋交通となり、二十九年豊橋鉄道と名乗るようになって、今日の多角化された豊橋鉄道へと成長するのだが、その多大の発展事業と取組み、着々と強固な事業基盤を築きあげてきたのが馬場社長である。(中略)その中心となって采配をふるった氏のたくましいファイトと実行力は高く評価されている。温厚な人柄に接していると、この積極性はどこに秘められているかと疑いたくなる」と評されている[95](実際のところ、豊橋鉄道で経営手腕を振るっていたのは神野三郎だったとも言われる[96])。
アイセロ社長で豊橋商工会議所会頭も務めた 牧野新二は、馬場について「ヌーボー然とした中に、実に優れた先見性を備えた人」と評した[97]。
中部経済新聞社が出社した、中部圏の当時の経営者らを紹介した『中部圏の顔』という書籍では、馬場は「豊橋財界きっての理論的経営者」と紹介されている[98]。
逸話
馬場はゴルフを趣味とした[99]。馬場は豊橋鉄道社長として1961年(昭和36年)竣工の東海カントリークラブや、1965年(昭和40年)竣工の岡崎カントリー倶楽部など三河地域のゴルフ場建設に関与した。
東海カントリークラブ建設については、神野太郎・山口唯次(後に豊橋商工会議所の会頭を務めた人物)と共にその建設に関与した。山口唯次は「豊橋鉄道社長の馬場さんが(ゴルフが)上手で、ハンディがシングルなんですよ。豊橋の財界では一番です。ですから、あの人と私と組んで、時の(豊橋商工会議所)会頭の神野さんに立ちあがってもらった」と語っている[100]。中部瓦斯(現在のサーラエナジー)が神野太郎没後(神野は1983年に死去)の1986年(昭和61年)に編纂・出版した『神野太郎伝(本編)』では「(土地買収委員会では)借入金の件が審議されたあと馬場惟保から九ホールだけ先に作る方がよいこと、金が少し余分にかかってもよいコースを設計すること、の意見があった」「ゴルフ場の設計は佐藤儀一であり、施工は株式会社大林組であった。 建設工事は、昭和三十四年十二月に始まったが、ここにも大きな困難があった。それは地主住民間の問題に起因して場内に未買収地が残り、施工困難と工期延長をもたらし、馬場惟保取締役は、連日のように大林組および設計者佐藤儀一との協議や激励を繰返し、ようやく昭和三十五年十一月五日に九ホールによる仮オープンに漕ぎつけたのである」と述べられている[101]。『神野太郎伝(追想録)』では大林組社長の大林芳郎が馬場にも言及しており、「いよいよ実施に当たっては、その設計を佐藤儀一先生に、施工を大林組に付託されました。全域が岩盤のため、尾根筋を逃げ約六十万立方米の土を動かして谷間を埋めるような形になりましたが、この間、工事委員長としての故馬場豊橋鉄道元社長の温かいご指導は決して忘れることができません」と述べている[102]。
鉄建建設の『鉄建50年史』では1965年(昭和40年)に竣工した岡崎カントリー倶楽部に関して、以下のエピソードが紹介されている。(対談者は1994年当時の鉄建建設の経営陣で、「園田」は園田亨副社長、「小田島」は小田島隆元副社長を指す。肩書はいずれも1994年当時。)
園田:さて、昭和24年6月の国鉄の運輸省からの独立に伴い、当社が一般土木建築工事も手がけられるように定款変更した点も大きな影響がありました。その強力な推進者となったのが25年9月に副社長として迎えた稲葉さん(稲葉通彦)でしたね。小田島:昭和29年に創立10周年を迎え、30年に稲葉社長になって資本金が1億円に増資されたんだ。「ほう、大きくなったものだな」という実感を持ったね。」(中略)
小田島:(稲葉さんは)人情のきわめて厚い方でした。わたしの稲葉さんの記憶は、当社がはじめて手がけた岡崎カントリー倶楽部(愛知県)ですよ。
園田:18ホールすべての造成工事、クラブハウスの建設も含めたゴルフ場工事でしたね。
小田島:ある人からクラブハウスだけでもやってくれないかと依頼されたのがそもそものいきさつです。当時、わたしは名古屋支店次長だったんですが、(クラブハウス工事で)7000万円の見積りを提出しました。コースの造成工事は地元業者に決まってたんですが「コースもどれくらいか概算でいいから出してくれんか」というので計算したら2億6000万円。口頭でその金額を伝えたら「鉄建さん、全部をやってもらえんか」といわれた。地元業者の見積りは当社より1億円くらい高かったらしいです。だからといって地元業者の物件を横取りするわけにはいきませんとお断わりしたら「いや、すべて話をつけますから」といわれ、無理に押しつけられた形になりました。
小田島:ところが、途中で1億円ばかりいただいたんですが、残りをかなり高利な借入金で賄っていたために工事資金が捻出できなくなり、現場からも機械を全部引き上げて工事を中止せざるを得ない状態になってしまった。すると稲葉社長の鉄道省時代の同僚で新潟陸運局長だった施主の馬場惟保豊橋鉄道社長が、東京本社に乗り込んできて「名古屋支店の小田島次長が工事をストップした。なんとかつづけてくれないか」と稲葉さんに頼んだんです。「かつての同僚が頼み込んでいるんだ。なんとかつづける方法はないのか。よく検討してみてくれ。」と稲葉さんから懇々と説得されたんですよ。結局、工事続行から完成へとこぎつけたんですが、いまから思えば、あのゴルフ場建設工事がひとつの試金石となって、後の自社経営の岡崎ゴルフ倶楽部(昭和43年1月設立)という新事業にもつながっていったんですね[103]。—鉄建建設『鉄建50年史』
脚注
- ↑ 報道春秋社『東海人物春秋1965年度版』1965年 p.216
- ↑ 鉄道時報局『鉄道省高等官人事要録』1933年 p.36
- ↑ 日外アソシエーツ『昭和物故人名録 昭和元年 - 54年』1983.7 p.700
- ↑ 豊橋鉄道社史編纂委員会『豊橋鉄道100年史 1924-2024』2024年 p.132
- ↑ 報道春秋社『東海人物春秋1965年度版』1965年 p.216
- ↑ 鉄道時報局『鉄道省高等官人事要録』1933年 p.37
- ↑ 作道好男 江藤武 編、出版社財界評論新社『北辰斜にさすところ―第七高等学校造士館50年史』 (1970年)、p.759
- ↑ 『産業之日本 18(4)』名古屋経済研究所, 1944-04, p.24
- ↑ 鉄道時報局『鉄道省高等官人事要録』1931年 p.36-37
- ↑ 『産業之日本 18(4)』名古屋経済研究所, 1944-04, p.24
- ↑ 『産業之日本 18(4)』名古屋経済研究所, 1944-04, p.24
- ↑ 鉄道時報局『鉄道省高等官人事要録』1931年 p.36-37
- ↑ 帝国地方行政学会『日本紳士録 第59版』1969年 ,「は」行の7
- ↑ 『産業之日本 18(4)』名古屋経済研究所, 1944-04, p.24
- ↑ 『産業之日本 18(4)』名古屋経済研究所, 1944-04, p.24
- ↑ 省営自動車十年史刊行会『省営自動車十年史』1940年 p.2
- ↑ 交通研究所『内外交通研究 (165)』1940年5月 p.69 , 104 - 106
- ↑ “鉄道省陸運監理官馬場惟保仏領印度支那出張ノ件”. note. 2026年5月5日閲覧。
- ↑ 太田常蔵『ビルマにおける日本軍政史の研究』1967年 p.211
- ↑ 現代信濃人物誌刊行会『現代信濃人物誌6 2版』1977年 p.452
- ↑ 報道春秋社『東海人物春秋1965年度版』1965年 p.216
- ↑ 『産業之日本 18(4)』名古屋経済研究所, 1944-04, p.24
- ↑ 名古屋鉄道株式会社社史編纂委員会編『名古屋鉄道社史』1961年, p.243
- ↑ 追想千田憲三刊行委員会『追想千田憲三』1976年 p.136
- ↑ 豊橋鉄道創立50周年記念事業委員会編『豊橋鉄道50年史』豊橋鉄道、1974年
- ↑ 豊橋鉄道社史編纂委員会『豊橋鉄道100年史 1924-2024』2024年 p.132
- ↑ 豊橋鉄道創立50周年記念事業委員会編『豊橋鉄道50年史』豊橋鉄道、1974年
- ↑ 豊橋鉄道社史編纂委員会『豊橋鉄道100年史 1924-2024』2024年 p.132
- ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯 1965年 p.437
- ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯 1965年 p.435
- ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯出版 1965年 p.439-440,442
- ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯出版 1965年 p.585-587
- ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯出版 1965年 p.595-596
- ↑ 報道春秋社『東海人物春秋1965年度版』1965年 p.216
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