川谷拓三

ウィキペディアから、無料の百科事典
かわたに たくぞう
川谷 拓三
本名 仁科 拓三
生年月日 (1941-07-21) 1941年7月21日
没年月日 (1995-12-22) 1995年12月22日(54歳没)
出生地 満洲国の旗 満洲国、新京
国籍 日本の旗 日本
身長 160 cm
血液型 A型
職業 俳優
ジャンル 映画・テレビドラマ
活動期間 1959年 - 1995年
配偶者 仁科克子
著名な家族 長男・仁科貴
長女・仁科扶紀
主な作品
映画
『仁義なき戦い』(1973年)
『県警対組織暴力』
『ドーベルマン刑事』
『さらば映画の友よ インディアンサマー』
『ビルマの竪琴』
テレビドラマ
『前略おふくろ様』
『黄金の日日』
『3年B組貫八先生』
『山河燃ゆ』
受賞
日本アカデミー賞
第9回優秀助演男優賞
『薄化粧』(1985年)
『ビルマの竪琴』(1985年)
第12回優秀助演男優賞
『女咲かせます』(1987年)
『つる -鶴-』(1988年)
『母』(1988年)
その他の賞
ゴールデン・アロー賞話題賞
テンプレートを表示

川谷 拓三(かわたに たくぞう、1941年〈昭和16年〉7月21日 - 1995年〈平成7年〉12月22日)は、日本の俳優。本名は仁科 拓三(にしな たくぞう・旧姓:川谷)。愛称は拓ボン。身長163cm[1]。

大部屋俳優から上り詰め、昭和を中心に活躍した名優の一人。"3000回殺された男"[2]"不世出の役者バカ"[2] とも評された。

仁科貴は長男、仁科扶紀は長女、仁科熊彦は岳父、岡島艶子は丈母にあたる。大叔父(実母の叔父)に伊沢一郎がいる[3]。

来歴

生い立ち

父・川谷庄平は1915年に17歳で日活京都にカメラ助手として入社[4]、牧野省三作品や尾上松之助の映画を撮り、1927年に日活を退社するまでに、主に築山光吉とコンビで237本の映画を撮影したカメラマンで1975年没。享年77[5]。母・二三子は女優という映画関係の家族の四男一女の三男として満洲新京(長春)で生まれた[4][5]。拓三と名前は、満洲の開『拓』地で『三』男として生まれたことに由来している[6]。

敗戦により6歳のとき一家で満洲から引き揚げ[5]、安芸市(当時・安芸郡安芸町)に住む。当時、父は定職がなく、市内の映画館・太平館の自転車預かり所に働く母が生計を支えていた[7]。川谷自身も安芸小学校3年のときから母のもとへ出入りしてバイトを始め[7]、放課後はポスター貼り、看板のかけ替え、夜は自転車預かりをしながら映画に親しんだ。市立安芸中学に入学した頃、マーロン・ブランドの『乱暴者』(あばれもの)を見て、自分も映画俳優になろうと決意し[1][7]、中学卒業後の1957年4月に京都へ向かった[1][4]。俳優志望であったが、氷屋での丁稚時代が2年間程続いた[1]。

俳優としての活動

1959年秋に18歳で第二東映のエキストラ・グループ「新映社」に入り[1][7]、美空ひばり主演の東映作品『ひばり捕物帖 振り袖小判』で死体役としてデビューする[4]。半年後、東映京都撮影所の大部屋俳優募集に応じ[1]、1960年4月入社。日当250円[4]。斬られ役、殺され役専門で1日3回も死体を演じていた。大部屋時代の仲間である福本清三とは、この頃に同じアパートに同居していた。1963年10月6日に自身に4歳年上で大部屋仲間の女優の仁科克子(女優岡島艶子の娘)と結婚し[8]、仁科家の婿養子となった。直後に酒を覚える[8]。役らしい役がついたのは1964年の『三匹の浪人』からであった。1965年からぽつぽつ役名もつき、1967年の『日本侠客伝・斬り込み』でマキノ雅弘から初めて台詞をもらう。東映がヤクザ路線に転換したことは川谷にとって幸運だった[9]。左利きの川谷は時代劇の立ち回りでは勝手が悪いが[9]、ヤクザ映画の乱闘シーンなら問題にならなかった[9]。出演を重ねる一方、この頃の川谷は叔父である俳優の伊沢一郎や女優の中村メイコ・俳優の大川橋蔵・鶴田浩二・香山武彦・内田良平らの付き人をしていた。

1971年の『懲役太郎・まむしの兄弟』、ATG作品『鉄砲玉の美学』、東映作品『現代やくざ 血桜三兄弟』と、中島貞夫が川谷を起用し、『現代やくざ 血桜三兄弟』では日本映画初の全身火だるまになる役を体当たりで演じ、1974年には東映ニューポルノ『史上最大のヒモ 濡れた砂丘』で初主演を果たした[3][10][11][12]。

前後して1973年の『仁義なき戦い』の第1作では、撮影に入る前に深作欣二監督は「凄惨な修羅場を演じるのに、あんな坊やが混じっていては駄目だ」と出演者から川谷を外そうとしたが[9]、殺陣師の上野隆三が「大丈夫です」と太鼓判を押し、出演できた[9]。ここで演じた、ヤクザ・江波亮一役の死にっぷりが深作欣二監督に認められて次作への出演が決まり[7]、以降同シリーズに出演。第2作『仁義なき戦い 広島死闘篇』ではモーターボートで海中を引きずり回された挙句、木に吊るされピストルやライフルの標的にされて無残な死を遂げたチンピラに扮した。ロープに繋いでモーターボートで引っ張って欲しいと提案したのは川谷で[9]、深作から「アホ、本当に死んでしまうぞ」と一蹴されたが「それで死ねるんやったら本望です」と食い下がり、実際に撮影された[9]。水をたらふく飲み、意識を失ったところで引き上げられた[9]。撮影後2カ月の間、体調が悪かったという[9]。第3作『仁義なき戦い 代理戦争』では出演予定されていた荒木一郎の降板により急遽代役を選考するなか[9]、山城新伍・成田三樹夫・渡瀬恒彦ら出演者の推薦もあり[9]、女に捨てられ敵に抱き込まれるチンピラ・西条勝治を演じた[9]。川谷もこの作品で初めて名前がポスターに載り、川谷にとっては至福の瞬間であった。初めてスポーツ紙から取材を受け、東映本社に「映画に本物のヤクザを出していいのか」と電話が掛かってきたという[8][9]。『県警対組織暴力』(1975年)ではチンピラヤクザである松井卓を演じ、菅原文太・山城の両刑事に取調室でいたぶられる迫真の演技によって京都市民映画祭の助演男優賞を受賞した[9]。擦過傷と打撲傷で熱が出て2日間寝込んだ[9]。この頃まではまだ撮影所だけで通用する金券でメシを食いつなぐ程貧乏だったという[13]。『県警対組織暴力』に出演した後、東映の契約者になった[6]。契約者は役だけやって仕出し(エキストラ)はしなくてよい[6]。役が付かないと収入はないが、テレビドラマにも出演できる[6]。テレビドラマ進出は、仲がいい室田日出男の口利きによる[6]。深作欣二監督は『新仁義なき戦い』3部作(1974年 - 1976年)、『資金源強奪』(1975年)、『やくざの墓場 くちなしの花』『暴走パニック 大激突』(1976年)、『ドーベルマン刑事』(1977年)と川谷を配役し続け、その存在が次第に大きく認知されていくこととなった。

『県警対組織暴力』の出演後、川谷が東京渋谷の並木橋で親戚が経営するお店で飲んでいた時[6]、行きつけだった岸田森から紹介されて来店したショーケンこと萩原健一から「『県警対組織暴力』、見ましたよ。松井卓(役名)、よかったですね。今度一緒に仕事をしましょう」と声をかけられた[6]。川谷も社交辞令だと思っていたが、プロデューサーを通じて同年10月にテレビドラマ『前略おふくろ様』に出演[14]。ショーケンと川谷は一番好きな映画が『灰とダイヤモンド』と同じでウマが合ったという[6]。同じ東映の名バイプレーヤー・室田日出男とともに鳶職人・利夫として出演した。倉本聰は川谷と室田のイメージに合わせてシナリオを書いた[6]。同ドラマでは本物の酒が使われ、川谷、室田のコンビは酒癖がわるく、萩原健一も災難にあうことになる。川谷、室田のコンビは後年出演したウィスキーのCMでも本物の酒を水のように飲んだ[6]。このコンビは1976年の映画『トラック野郎・望郷一番星』にもコンビで警官役を演じた。東映のヤクザ映画ファンにしか知られていなかった川谷は[6]、本作をきっかけにお茶の間にも広く知られるようになった[6][7]。

1975年には、室田や大部屋仲間の志賀勝・岩尾正隆らと酒飲み仲間としての集まりでピラニア軍団を結成(⇒ #人物・交友)。「かっこいいだけで高いゼニ(ギャラ)を取る奴を見ると、何とかワンシーンだけでも相手を喰って、コケにしてやろう思いますね」などと述べている[1]。テレビや雑誌などで特集を組まれ、ピラニア軍団の総出演の映画の企画の一つとして翌1976年公開の『河内のオッサンの唄』で一般映画の初主演を果たし、同年『河内のオッサンの唄 よう来たのワレ』や『ピラニア軍団 ダボシャツの天』(1977年)にも主演した。また、この頃から「真面目だけどどこか抜けている役」のオファーが増え始める[7]。

平尾昌晃ファミリー・プロの取締役だった島野功緒は、「川谷は1970年後半、東映所属のまま、歌だけは平尾昌晃ファミリー・プロが面倒を見ていた。その歌の担当ディレクターに焚きつけられ、東映から独立し、その人と二人で芸能事務所を構えた。事務所を維持するため、高額のギャラを要求するようになり、岡田茂東映社長が『川谷の主演映画に100万円(ギャラ)を出した。それまでに比べたら破格だよ。ところが奴さん、うれしそうな顔もしない。影で誰かが悪知恵を付けてるんだな、困ったものだ』と憮然としていたことがある。川谷と話す機会があって聞いたら、川谷は『酷い話です。オレが仕事が終わってレストランに行くとあの人がビフテキを食べてる。オレも…って言ったら、お前もかい、10年早いんじゃないの、と言われました。冗談にしても酷い。今はどんな人間も信用できない心境です』と言った。案の定、1年持たずにこのプロデューサーと別れた」と語っている[15]。

名バイプレイヤーとして

大部屋俳優として専属契約していた東映から独立し、それと前後して活動の拠点を東京に移し1978年のNHK大河ドラマ『黄金の日日』や、『愛の亡霊』に出演。川谷が大ブレイクしたのは『黄金の日日』出演が切っ掛け[13]。日本中どこへ行っても「ゼンジュボウ!(杉谷善住坊)」「ドンベイ(どん兵衛)!」などと声を掛けられるようになった[13]。テレビの仕事がどっと舞い込み、1979年には『さらば映画の友よ インディアンサマー』に主演した他、同年夏にはそれまで2本掛け持ちもしたことがなかったが[13]、『不毛地帯』(MBS)『家族サーカス』(CX)『やる気満々』(TBS)とテレビドラマ3本を掛け持ち[13]。CMは10社以上からオファーがあったという[13]。1978年から1981年まで勝新太郎の主宰する勝プロに所属[6]。

1980年には刑事ドラマ『警視-K』(日本テレビ)にレギュラー出演(第9話まで)。1980年5月23日放送『徹子の部屋』出演。『ダウンタウン物語』(1981年、日本テレビ)では貧乏牧師というシリアス役を演じ、1982年には、桜中学シリーズ・『3年B組貫八先生』(TBS)に主演、苦労人の担任教師・神崎貫八を演じた。

映画では『キッドナップ・ブルース』(1982年)、『真夜中のボクサー』(1983年)、『伽耶子のために』(1984年)など助演したのち、1985年には『薄化粧』と『ビルマの竪琴』の演技によって、第9回日本アカデミー賞の優秀助演男優賞を受賞した[16]。『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』にもゲスト出演し、愛妻に先立たれロシア語辞典編集に携わる堅物の父親役を演じた。1987年には『塀の中の懲りない面々』に出演し、弱虫なのに反抗心旺盛の出っ歯の囚人を演じ、1988年には、村祭りの事故で寝たきりになる父を演じた『母』と『つる -鶴-』に出演し、再び第12回日本アカデミー賞の優秀助演男優賞を受賞した[17]。

テレビドラマでは、大河ドラマ『山河燃ゆ』(1984年)、『國語元年』(1985年)、銀河テレビ小説『月なきみ空の天坊一座』(1986年)、NHK連続テレビ小説『チョッちゃん』(1987年)などNHK作品にも立て続けに出演した[注釈 1]。『風よ、鈴鹿へ』(1988年)では鈴鹿8耐に毎年連続参戦していた実在のレーサー・千石清一を好演した。

晩年

『座頭市』(1989年)、『陽炎』(1991年)、『継承盃』(1992年)にも出演。映画『撃てばかげろう』(1991年)ではスケジュールの関係で断っていたものの、原作者の野村秋介から直々に毛筆でしたためた出演オファーの手紙をもらい、台本を読んでみて、かつて川谷が演じたことのないヤクザ像が描かれており、この作品をいたく気に入り快諾し、出演する。『おろしや国酔夢譚』(1992年)、SF青春映画『はるか、ノスタルジィ』(1992年)、『首領を殺った男』(1994年)、『プロゴルファー 織部金次郎2 〜パーでいいんだ〜』(1994年)など幅広く活躍していた。

第二次世界大戦の太平洋戦線において過酷を極めたフィリピン戦線の傷跡をドキュメンタリー形式でたどるドラマ『北緯15°のデュオ〜日本初の神風特別攻撃隊の軌跡〜』(1991年、日本映画復興会議奨励賞受賞)やテレビ東京の年末特別企画番組『チャイナ・オリエント急行、中国横断3700キロ 〜川谷拓三心の旅〜』(1991年)などにも主演。NHKの『歴史誕生 / 地球を測った男』(1991年)では主役の伊能忠敬役を、同じくNHKの『歴史ドキュメント・桜田門外の変』(1993年)では主役の関鉄之介役を演じる。

トーク番組やバラエティ番組(後述)にも多く出演しており、日本テレビ『EXテレビ』の「芸能才人図鑑」のコーナーにゲスト出演(1993年)、『いつみても波欄万丈』(1994年5月8日放送)、『痛快!明石家電視台』などにゲスト出演した。

1995年6月下旬に体調を崩し7月に東京の病院に検査入院を行った。川谷も10月からは京都に移り、京大付属病院に入院するが12月22日午後8時30分、肺癌のため死去した。54歳没。なお、後述の長兄をはじめ、両親も癌で亡くなっている[18]。川谷を見出した深作欣二監督や、映画・CMともに共演した山城など多くの役者仲間や映画関係者が川谷の死を惜しんだ。川谷の死後も情報番組『驚きももの木20世紀』(1996年5月10日放送、『銀幕悲歌〈エレジー〉 川谷拓三物語』)や『知ってるつもり?!』(1997年12月14日放送)にも川谷の生涯が紹介され、妻・克子原作によるスペシャルドラマ『かんにんな…川谷拓三と家族が歩んだ愛と涙の200日』(1996年9月17日放送)では、克子の視点で描かれた晩年の川谷をドラマにしており、川谷役を平田満が演じた。

病床では書道を好んで、中国戦国時代の詩人・屈原の漢詩「漁父辞」の一句「衆人皆酔我独醒(衆人皆酔い、我ひとり醒めたり)」を独特の字体でしばしば書いている[19]。また入院中は多くの見舞客が訪れたが、本人は病気の辛さを見せないよう常に明るく振る舞ったという[7]。

人物・交友

1975年にピラニア軍団の結成式が大阪市の御堂会館で催された際には千葉真一・渡瀬恒彦・深作欣二が立会っており[20]、千葉は舞台に上がらず、カメラ片手に客席からメンバーに声をかけて、場を盛り上げていた。「ワシ、生まれて初めてこんな派手なスポットライトを浴びましたわ、ホンマおおきに!」と、川谷は千葉へ感謝しながら号泣していた[20]。

長兄庄一が癌を患い余命宣告を受けたが、長兄は鶴田浩二の大ファンだった[3]。何とか見舞いに来てもらえるよう両親が川谷に懇願するも、大部屋俳優が大スターに声をかけるなど決してできなかった。しかし病気に苦しむ長兄をなんとかしてやりたい両親の気持ちを慮った川谷は意を決して、会合で酒を飲んでいる鶴田の席へ行き、「自分の兄が死にそうなんです。兄は鶴田先生の大ファンなんです。どうしても死ぬ前に先生に会いたがっているんです。どうか兄に一目会ってもらえませんでしょうか。お願いします!」と頭を下げると「ワシの顔見て、死んで行けるんならそれも供養や。行ってやるよ」と酒の席を中座して、長兄の入院する病院へ駆けつけた[3]。鶴田と会うことのできた長兄は数時間後に息を引き取ったが、死顔は安らかで満足そうであったという。これが縁で鶴田の付き人となり、鶴田の複数の主演映画で端役のチンピラを演じた[3]。それまで鶴田の付き人は野口貴史だったが[3]、以降、川谷が破門になるまで5年の間、鶴田の付き人を務めた[3]。1972年『日本暴力団 殺しの盃』では冒頭の賭博場荒らしのシーンで、岩尾正隆と共にチンピラに扮し、長く映りたいがために、刺されても撃たれてもなかなか死なずにのたうち回る演技をした。しかしその後、長兄の件では終始感謝していたが、ギャラ問題やピラニア軍団設立などで、鶴田と絶縁状態となってしまう。それでも川谷が亡くなる4か月前、すでに体調が思わしくなかったにもかかわらず、恩人鶴田の特集ということで『もう一度会いたい あの人・あの芸 鶴田浩二』(1995年8月10日放送)にゲスト出演したほか、自身の死の数日前収録された『この人この芸 鶴田浩二』の司会を単独で務め、鶴田との思い出話を語っている。

牧口雄二とは助監督時代から親しくしており、川谷が俳優としてお茶の間で人気が出だした頃に牧口の監督昇進を知り、出演希望をするもデビュー作『玉割り人ゆき』は超低予算だったため、とても川谷が出演できる状況ではなかったが、親交のある牧口のためにノーギャラで出演をした。それも、かなり出番の多い敵役で事実上の準主役である。その後、『戦後猟奇犯罪史』『徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑』などに主演したほか、日程があわない場合もカメオ出演するなど牧口とのコンビは続いている。川谷の死後、『知ってるつもり?!』(1997年12月14日放送)で生涯が紹介された時、親交のあるゲストのひとりとして牧口が出演した。

テレビ出演により、お茶の間で認知された当時は漫画の世界にも川谷のイメージモデルとしたキャラクターが数多く登場した。

  • 小山ゆうのボクシング漫画『がんばれ元気』(1976年 - 1981年)では主人公・元気の通うボクシングジムの先輩・山谷勝三。
  • 林律雄・大島やすいち作による当時人気を博した刑事漫画『おやこ刑事』(1976年 - 1981年)では『フィルムの証言』の挿話で登場する容疑者となる俳優・山谷拓二。
  • 小池一夫・神江里見作による異性に関心を持つ思春期の多感な中学生の日常を描いた『青春チンポジュウム』(1977年 - 1980年)に登場する主人公三人組の中学生の一人・鈴木重信(ジューシン)。

など。

芝居に関して

大部屋俳優として17年間もの長い下積みを経験し、どんなに小さな役や汚れ役でも引き受けた[7]。川谷はとある自著で「実家は貧乏だったけど、おふくろは雑草のように逞しかった。ガキの頃からそういうおふくろの姿を見ていたから、斬られてドブ川に叩き込まれる役でも積極的に演じることができたんだと思う」と記している[7]。

セリフのあるヤクザの役をもらった当初、ヤクザの具体的な振る舞いがイメージできなかった。ヤクザの所作を学ぶため、川谷は酒を飲んでわざと本物のヤクザ相手にケンカを吹っ掛けた。その時の相手の口調や殴り方、殴られ方を覚えて、その後のヤクザ役の芝居に役立てた[7]。

セリフ覚えが下手で、そこで酒を飲み、さらに頭が混乱し、本番ではいかれたサンマみたいな目で挑んだ[4]。川谷をスターダムに押し上げた『前略おふくろ様』の初収録では、極度の緊張でNGを連発し、収録が徹夜になり、憔悴した無残な姿をさらけた[4]。川谷の抜擢は萩原健一の要請だが、原案の倉本聰が中島貞夫と盟友で、中島が川谷と室田日出男の実生活でのエピソードを倉本に伝え[4]、倉本は二人のキャラ設定にそれを活かした[4]。川谷とCMでのコンビと言うと長く放送された日清食品『どん兵衛』の山城新伍イメージが強いが、初CMは室田とのニッカウヰスキーのCMである[4]。

初主演映画「河内のオッサンの唄」はヒットしたが、本人は「良い結果が来れば必ずその後反動が来る」との思いからあまり喜ばなかった[7]。

自分の内面を語ることは少なかったが、撮影現場ではいい作品にするため積極的に意見を口にした[7]。とある自著で川谷は、「原作者や脚本家の先生の意見と俺の意見を戦わせることで、いい作品が仕上がっていくと思っている」と記している[7]。

長男・仁科貴によると、「自宅には当時父の勉強部屋があり、様々な映画のビデオを見て演技を勉強していました。でも父は自分が努力したり演技に苦しんだりする姿を誰にも見せませんでした。世間ではよく『川谷拓三は笑顔が印象的』と言われますが、もしかすると父は努力や苦悩を悟られないため、できるだけ笑顔でいたのかもしれません」と語っている[7]。

深作欣二は「気取りのない役者で、それこそ髪振り乱すなんてもんじゃなくて、オチンチンまで振り回して演技するヤツです。その中で、おかしさ、悲しみさが滲みでてくる」などと評した[1]。

2011年11月–12月に銀座シネパトスで「生誕70年 川谷拓三映画祭 3000回殺された男の美学」という川谷の特集上映が組まれたが[2]、菅原文太は「拓ボン、あの頃は、旭日と満月が一緒に日本を照らしている時代だったね。時代の熱気と毒気に煽られ、俺たちは昼も夜も無く、家族も無い者のように撮影に夢中になり、一緒に大酒を飲んだ。大衆性と野性味と、二枚目と三枚目の味の幾重もの顔を持っていた稀有な映画俳優だった」と川谷との思い出を寄せた[2]。

好きな映画として前述意外に、『灰とダイヤモンド』『俺たちに明日はない』『フレンチ・コネクション2』『デリンジャー』『セルピコ』を挙げている[6]。

エピソード

『ダウンタウンDX』の第1回放送(1993年10月21日)のゲストとして菅原、山城とともに出演したが、川谷のそのシャイで謙虚な人柄に感銘を受けたダウンタウンの2人と意気投合(2人は『仁義なき - 』の大ファン)、愛用の品を2人に譲るなど、親交を交わした。二度目のゲスト出演の時(1995年8月17日放送)は単独のゲスト出演を果たした[注釈 2]。『必殺からくり人』(第1シリーズ)の主題歌『負犬の唄』(まけいぬのブルース)を歌っているが、『ダウンタウンDX』(1995年)のときに浜田雅功から「ボク、川谷さんの『負犬の唄』のレコード持ってますよ」と言われ、「え、そうなの。それ、ボクも持ってないんよ。今度ちょっと貸してよ」と浜田に頼んだ。

亡くなる数か月前のTBS『オールスター感謝祭'95超豪華!クイズ決定版この春お待たせ特大号』(1995年4月1日放送)にも出演している。赤坂5丁目水泳大会にも出場し、ハンデをもらいはしたものの、前回の雪辱を果たす優勝を遂げている。

唐沢民賢の行きつけの飲み屋で「おんどれ、コラ、なんぼのもんじゃい!」と客に絡んで大暴れした[21]。唐沢は荒っぽい東映の役者として、川谷と有川正治、西田良を挙げている[21]。

映画『マルサの女』でキャスティングされ、ロケハンや税務署見学等の撮影開始前の段階で終始不機嫌な態度で対応する川谷に業を煮やしたスタッフから報告を受けた伊丹十三監督は、「このままでは映画自体が上手く回らない」と川谷を降板させ、代役として大地康雄を抜擢したことを製作日記に記している[22]。

映画『ビルマの竪琴』では、暑いタイでの過酷なロケとなったが、川谷は一切弱音を吐かなかった。作中で他の隊員たちと歌を歌うシーンがあるが、本人は共演した石坂浩二に「歌は苦手」と打ち明けていた[7]。

東映の大部屋俳優だった22歳の頃に仁科克子と結婚し、その後長きに渡る不遇の時代を妻に支えられながら過ごした。1971年頃に家族で京都に引っ越し、少ない収入ではあったが2人の子供に恵まれ、幸せな家庭を築いた[7]。

ボクシングのC級のライセンス(4回戦ボーイ)を持つ[4]。

好角家で、プライベートで高砂部屋の前で三代目朝潮太郎とツーショット写真を撮ってもらったこともある[7]。

1978年に東映を退所後、勝プロダクション(勝新太郎が設立した芸能事務所)に所属していた時期がある[7]。

1995年秋に野川由美子らとの舞台「てにをはエレジー」に出演する予定だったが、入院により降板した[7]。

出演作品

映画

テレビドラマ

舞台

CM

ディスコグラフィ

シングル

#発売日A/B面タイトル作詞作曲編曲規格品番
キャニオン・レコード
1 1976年
3月25日
A面殺られ節深作欣二 平尾昌晃 小谷充 A-304
B面昭和の子守唄 荒木一郎
2 1976年
8月
A面負犬の唄竜崎孝路 C-14
B面拓ヤンのブルース深作欣二不詳川上了
ポリドール・レコード
3 1977年
9月
A面人生しみじみジャイアンツ大河史 市川昭介 小杉仁三 DR-6145
B面泣くんじゃない石原信一
4 1977年
10月
A面地下鉄のジジ福田一三森田公一山木幸三郎 DR-6161
B面無宿はるかあきとかとうなるき小杉仁三
5 1978年
10月
A面何年ぶり阿久悠 竜崎孝路 DR-6259
B面別れ道はぞのなな三佳令二竜崎孝路
ジャパンレコード
6 1982年
5月
A面だけど泣かないさ 小室等 吉田拓郎 馬飼野康二 JAS-2029
B面少しむなしくて
テイチクレコード
7 1987年
10月21日
A面筆不精 高田ひろお 杉本真人 神山純一 RE-786
B面俺
ビクターエンタテインメント
8 1994年
2月23日
01かにさん かにさんさくら七人 桜田誠一 梅垣達志 VIDG-10023
02北へ…新條カオル

アルバム

オリジナルアルバム

発売日 規格 規格品番 アルバム
キャニオンレコード
1976年 LP AF-6002 殺られの美学

※ プロデュース:深作欣二

Side:A

  1. 殺られ節
  2. さすらい
  3. 知床旅情
  4. ふるさと
  5. 赤色エナジー
  6. 拓ヤンのブルース

Side:B

  1. 負犬の唄
  2. 赤とんぼ
  3. 叱られて
  4. 夕やけ小やけ
  5. 七つの子
  6. 昭和の子守唄
ポリドール・レコード
1977年 LP MR-3081 憂き世やのう

Side:A

  1. なあヨメはん
  2. 恋歌
  3. 女たちのブルース
  4. 泣くんじゃない
  5. 人生しみじみジャイアンツ
  6. 無宿

Side:B

  1. 南市場通り2100
  2. ちんぴらブルース
  3. 地下鉄のジジ
  4. おせっかいブギ
  5. 夜光る男
  6. 夕焼けカポネ
1978年 LP MR-3148 拓三 演歌
ジャパンレコード
1982年 LP JAL-23 だけど泣かないさ

Side:A

  1. 庭の木
  2. 古いスクリーンの片隅には
  3. 天国行きの列車
  4. だけど泣かないさ
  5. おてんとう様嫌い

Side:B

  1. 踊りませんか
  2. 少しむなしくて
  3. さよならバイバイ
  4. 街に悲しみの歌流れ
  5. 水たまり

オムニバス・アルバム

  • 必殺シリーズオリジナル・サウンドトラック全集8 必殺からくり人/必殺からくり人血風編(1996年4月5日、KICA-3008)- 「負け犬の唄」収録。
  • ピラニア軍団《ニューロックの夜明け 番外編*三上寛の仕事》(1999年6月25日、キングレコード、PCD-1492)
  • R40'S SURE THINGS!! 本命あこがれの男たち ~孤高のダンディズム~(2012年9月5日、ジャパンレコード、TKCA-73817)- 「だけど泣かないさ」収録。

タイアップ曲

年楽曲タイアップ
1976年 負犬の唄テレビ朝日系テレビドラマ「必殺からくり人」主題歌
テレビ朝日系テレビドラマ「必殺からくり人・血風編」主題歌
1982年だけど泣かないさTBS系テレビドラマ「3年B組貫八先生」主題歌
1994年かにさん かにさんNHK「みんなのうた」挿入歌

関連出版

  • 殺られてたまるか ピラニアの唄(いんなぁとりっぷ社、1977年)、室田日出男と共著
  • ひらがな人生―役者として男として(廣済堂出版、1981年)、著書
  • もめん家族―わくわく子育て(企画社ラー・ブックス、1985年)、仁科克子(夫人)著
  • 3000回殺された男―拓ボンの体当たり映画人生(サンマーク出版、1991年9月)、著書
  • ガン死の夫へ―妻の弔辞 かんにんな…(光文社、1996年4月)、仁科克子著
  • 人と契らば濃く契れ―川谷拓三と僕(葦書房、2000年9月)根本順善。友人の回想
  • 狂気のなかにいた役者 川谷拓三伝(映人社、2011年5月)奥薗守。近親者による伝記

演じた俳優

脚注

注釈

  1. ↑ 主人公・蝶子の叔父役で出演していたが他番組撮影中の事故による負傷のため途中降板。代役は前田吟が担当した。
  2. ↑ 友情出演として盟友・志賀勝もワンコーナーでゲスト出演した。

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 「ショーケンにパンチ一発 川谷拓三 アクの強さで売出す 格好いい奴をコケに… 脇役集めてピラニア軍団結成」『サンケイスポーツ』産業経済新聞社、1975年9月21日、11面。
  2. 1 2 3 4 「生誕70年 川谷拓三映画祭 3000回殺された男の美学 銀座シネパトス 11月5日ー12月11日」『シナリオ』2011年12月号、日本シナリオ作家協会、5–7頁。
  3. 1 2 3 4 5 6 7 奥薗守「連載第6回 狂気のなかにいた役者 川谷拓三 伝」『シナリオ』2009年7月号、日本シナリオ作家協会、126–132頁。
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 桑原宏 (1976年8月29日). “タレントのタレ★ント 室田日出男 川谷拓三 人気出て―『ヤバイ!』 "悪役育ち"の個性派コンビ”. 読売新聞. 読売新聞社. p. 27.
  5. 1 2 3 斉藤明美『家の履歴書』 文化人・芸術家篇、キネマ旬報社、2011年、28-29頁。ISBN 978-4-87376-361-3。
  6. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 奥薗守「連載第9回 狂気のなかにいた役者 川谷拓三 伝」『シナリオ』2009年10月号、日本シナリオ作家協会、146–153頁。
  7. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 週刊現代2022年4月16日号「脇役稼業」第6回・川谷拓三「本物」への渇望p25-32
  8. 1 2 3 佃清「人 川谷拓三(俳優)(3) ヤクザと間違われた"光栄"」『読売新聞夕刊』読売新聞社、1986年5月20日、1面。
  9. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 奥薗守「連載第7回 狂気のなかにいた役者 川谷拓三 伝」『シナリオ』2009年8月号、日本シナリオ作家協会、155–161頁。
  10. ↑ “史上最大のヒモ 濡れた砂丘:映画作品情報・あらすじ・評価|MOVIE WALKER PRESS 映画”. MOVIE WALKER PRESS. 2025年2月12日閲覧。
  11. ↑ 「邦画マンスリー」『ロードショー』1977年1月号、集英社、165頁。
  12. ↑ 「東映不良性感度映画の世界 忘れられた東映500万ポルノの世界 観る機会はほぼないが、それでも観たい! 東映ポルノこの5本! 文・鈴木義昭」『映画秘宝』2011年8月号、洋泉社、61頁。
  13. 1 2 3 4 5 6 「'79ひと 『さらば映画の友よ』で主演の川谷拓三 さらば下積み、花咲く日々」『週刊朝日』1979年6月1号、朝日新聞社、174–177。
  14. ↑ スポーツニッポン、2009年11月8日、P.6
  15. ↑ 島野功緒『ザ・芸能プロ ウラと表』日之出出版、1981年、106—107頁。
  16. ↑ “第9回日本アカデミー賞 優秀賞”. 日本アカデミー賞公式サイト. 日本アカデミー賞協会 (1986年2月20日). 2025年6月12日閲覧。
  17. ↑ “第12回日本アカデミー賞 優秀賞”. 日本アカデミー賞公式サイト. 日本アカデミー賞協会 (1989年3月17日). 2025年6月11日閲覧。
  18. ↑ 俳優・仁科貴さん「気が付いたら、オヤジ(川谷拓三さん)が肺がんと診断された年齢に」
  19. ↑ 没後の1997年頃放映されたNHK教育テレビの川谷拓三特集。
  20. 1 2 ロビン前田、杉作J太郎・植地毅 著「ピラニア軍団」、杉作J太郎・植地毅 編『東映スピード・アクション浪漫アルバム』(第一刷)徳間書店〈浪漫アルバム〉(原著2015年9月30日)、231頁。ISBN 978-4-19-864003-3。
  21. 1 2 高鳥都「悪役一代 唐沢民賢インタビュー 『役者一筋"芸歴"67年 87歳 未だ現役』」『別冊裏歴史 昭和の不思議101 2021年夏の男祭号 ミリオンムック83』2021年7月15日号、大洋図書、104頁。
  22. ↑ 伊丹十三『「マルサの女」日記』文藝春秋、1987年、[要ページ番号]頁。ISBN 4-16-341410-X。

参考文献

関連項目

外部リンク