戸次鑑方
| 時代 | 戦国時代 |
|---|---|
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 永禄10年9月3日(1567年10月5日) |
| 別名 | 通称:中務、鑑堅 |
| 戒名 | 松嶽院殿義鑑忠堅大居士[1] |
| 官位 | 中務少輔/中務大輔/中務丞 |
| 氏族 | 戸次氏 |
| 父母 | 父:戸次親家、母:養孝院[注釈 1][異説][注釈 2] |
| 兄弟 |
異母姉:女(清田鑑綱[注釈 3]室)、女(一万田親泰室[注釈 4])、女(安東家忠室)[注釈 5]、 |
| 子 | 鎮連[注釈 13]、鎮林[注釈 14] |
戸次 鑑方(べっき あきかた)は、戦国時代の武将。大友氏の家臣。大友氏庶流の戸次氏の一族。養母は養孝院[注釈 2](立花道雪の母)。異母兄に戸次鑑連(のちの立花道雪)、異母弟に戸次親行[注釈 15]。子に戸次鎮連[注釈 13]、戸次鎮林(しげきみ/しげとき)[注釈 14]がいる。
略歴
豊後国の大名の家臣である戸次親家の三男[注釈 16]として生まれるが異説がある[注釈 2]。異母兄・鑑連同様、大友義鑑から偏諱を賜り鑑方[注釈 17]と名乗る。鑑連に従い各地で戦功を挙げる。
天文19年(1550年)2月、二階崩れの変において大友義鎮(宗麟)に戦功を賞される[9]。
弘治2年(1556年)、田原親宏などと共に毛利氏に帰順した豊前守護代であった松山城主の杉重吉を攻める[10] [11] [12] (一説にはこの戦いは弘治3年(1557年)のこと[13] [注釈 18])
永禄10年(1567年)8月、毛利氏と組んで勢力拡大を図る秋月種実を討伐するため、鑑方も兄とともに筑前国に出陣した。同年9月、秋月軍は大友軍と激突したが、戦況不利として引き上げた。その夜、警戒を解いた大友軍に対して種実は夜襲を仕掛けた(休松の戦い)。秋月軍の夜襲を受けた大友軍は、同士討ちなどで壊乱し、乱戦の中、鑑方も一族の戸次親繁、戸次親宗らとともに戦死した。
史書によっては、この休松の戦いを大友軍の勝利としているが、戸次一族の多くが討死するなど、多くの被害を受けた。実際は引き分けか、事実上の敗北と思われる。その後も秋月種実は筑後国へ撤退する大友軍に追撃をかけて、多くの将兵を討ち取った。同年9月8日、大友義鎮もこの戦いでの被害に対して鑑連(道雪)に弔意文を送った。
家臣
脚注
注釈
- ↑ 臼杵長景の娘、臼杵鑑速の姉・養孝院殿如栄妙忠大姉[2]
- 1 2 3 4 『立花遺香』によると、鑑方は実は田原親賢の弟であるとされる。戸次中務の母が懐妊した時、正光院(由布惟常の娘、道雪の生母)が女子ならば母と共に暮らすようにと命じたが、果たして女子が生まれた。ちょうど同じ頃に紹忍の親の妻も男子を出産したが、民間信仰で「嫌年の子」とされる不吉な時期に生まれたので養子出す必要があり、交換したのだという。
話の出所は、紹運の家臣・有馬伊賀(立花宗茂初陣の後見役)の姉で紹忍の妻いそと、宗茂の生母・宋雲院との会話であるが、正光院は道雪を産出した翌年の1514年に病歿したので、原文でも「しかと承り得ず」として人物は不明とする。養孝院(臼杵長景の娘、道雪の継母)の間違いかもしれない。紹忍の親の妻が、実父奈多鑑基の室なのか、養父田原親輔の室なのかは言及されていない[7]。 - ↑ 清田氏第11代当主、兵庫頭。10代治仙の嫡男。
- ↑ 『北九州市史』によると、高橋鑑種の母は道雪の姉、すなわち鑑種の父・一万田親泰室。
- ↑ 菊姬。繁林宗昌大姉[3]
- ↑ 立花若狹守。筑前西大友・立花氏の庶流。子に立花(戸次、山本)勘右衛門鎮行。
- ↑ 卒守院殿貞林松壽大姉[4]
- ↑ 片賀瀬戸次氏第3代当主、山城守、親善、紹草、紹花(一説に立花鑑載の嗣子・立花親善(鶴千代丸、新五郎、左近将監、山城守、一如)と同一人物とも)。
- ↑ 華岳院殿覚志芳心大姉[5]
- ↑ 月窓院殿貞梅法香大姉[6]
- ↑ 臼杵鑑速養女
- ↑ 道雪の養母・養孝院の養女で戸次親行の妻となったと考えられる。
- 1 2 立花氏を継いだ伯父・鑑連から戸次氏宗家の家督を継ぐ。
- 1 2 戸次中務少輔。立花の姓を与えられる。文禄の役碧蹄館の戦いで戦死。
- ↑ 戸次道雪の異母弟の戸次親行は恐らく、養孝院が他家より引き連れ、養女と結婚した婿養子であるが、1565年に19歳の若さで病死したと伝えられる。戸次親家は1526年に病歿したので、1547年生まれの親行は親家の実子とは考えにくい[要出典]。しかし、旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上[8]によると天文4年(1535年)8月14日没。この説によると生年は不明ですが、19歳で病歿の記載が確実なら生年は1517年頃になり、親家の実子の可能性はある。
- ↑ 早世した長兄を除けば、次男とされる。
- ↑ 名(諱)は鑑堅と表記される場合もあるが、従兄弟に同名の人物がいるため鑑方で書かれる場合が多い。
- ↑ 地元史家の八木田謙氏は、弘治二年(1556)に大友氏が豊前を攻めることはあり得ず、その翌年弘治三年(1557)四月、大内義長が長府で滅亡したことを機に大友宗麟は豊前平定に乗り出したのであって、長岩城、山田城、馬ヶ岳城と落とし、同年八月十三日以降松山城を攻略した、とする。さらに大友勢は門司城も攻略したという。松山城(豊前)(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)
- ↑ 妻は高橋紹運の家臣・有馬伊賀守の姉・いそ。[14][15]。
出典
- ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕
- ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕00000765
- ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕00000765
- ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕00000765
- ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕00000765
- ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕00000765
- ↑ 高本紫溟 編『国立国会図書館デジタルコレクション 立花遺香』国史研究会〈日本偉人言行資料〉、1916年。
- ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕
- ↑ 大分県教育庁文化課 編『大友宗麟 資料集』第一巻、大分県教育委員会、1993年[要ページ番号]
- ↑ 大分県教育庁文化課 編『大友宗麟 資料集』第二巻、大分県教育委員会、1993年[要ページ番号]
- ↑ 弘治二年(一五五六)九月二十日付で大友義鎮から戸次中務少輔へ宛てた手紙に「八月十三日に松山城切岸で、手に疵を追ったことは感謝に耐えない」と記している。『行橋市史』松山城P.598
- ↑
- 『西国太平記 毛利秀元記 (国史叢書)』P.125-126、
- 『通俗日本全史 第13巻 陰徳太平記 上』P.458、
- 『太宰管内志 中巻』P.27、
- 『豊後速見郡史』P.665-666、
- 『豊前志』 重訂 今村孝次P.121、
- 高山通男 『宗麟』P.105、
- 『帆足万里全集 上巻』P.365、
- 『大分市誌』P.63、*『西国東郡誌』P.65-66
- ↑
- 八木田謙氏 『北九州戦国史余話 毛利元就と門司城』、
- 『本朝通鑑 第14』P.4973-4974、
- 『近世日本国民史 〔第5〕 豊臣氏時代 乙篇 改版』P.8、
- 『国史大年表 第2巻』P.160、
- 『国分史 人之部』P.肥後16、
- 『野史 第3巻 3版』P.1514
- ↑ 『姓氏家系大辞典』 第3巻 P.3142
- ↑ 『立花遺香』P.172