ひえだ ひさし 日枝 久 | |
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| 生誕 |
1937年12月31日(87歳) |
| 出身校 | 早稲田大学教育学部社会科 |
| 職業 | |
| 活動期間 | 1961年4月 - |
| 著名な実績 | フジ・メディアHDおよびフジテレビ中興の祖 |
| 代表作 |
実写映画
アニメーション映画
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| 肩書き | フジサンケイグループ代表 |
| 任期 | 2003年7月 - 現任 |
| 前任者 | 羽佐間重彰 |
| 取締役会 |
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| 栄誉 | |
日枝 久(ひえだ ひさし、1937年〈昭和12年〉12月31日[2] - )は、日本の実業家、フジサンケイグループ代表[3][注 1]。1980年にフジテレビ(フジテレビジョン)編成局長に若くして抜擢され、視聴率三冠王に押し上げて黄金時代を牽引し[4]、1988年から生え抜き初のフジテレビジョン代表取締役社長を務め、1997年に東証一部上場、2001年から2017年までは代表取締役会長を務めると共に、2008年から2017年まで日本初の認定放送持株会社フジ・メディア・ホールディングス[注 2]代表取締役会長をも務めて、放送事業を核に幅広い事業を展開する日本を代表するメディア・コングロマリットへと成長させた[2][1]。また2003年から2006年まで日本民間放送連盟(民放連)会長を務めた[5]。
現在、フジテレビジョン取締役相談役[6]、フジ・メディア・ホールディングス取締役相談役[7]、産業経済新聞社取締役相談役[8]、彫刻の森芸術文化財団理事長[9]、彫刻の森美術館館長[9]、美ヶ原高原美術館館長[9]、日本美術協会会長[10]、東京都歴史文化財団理事長[11]、東京文化会館館長[2]などを務めている。
東京府生まれ[1]。四人の姉がいる。2歳のとき父が死去した[12]。小学校から大学までボーイスカウトでスカウティングを経験する[13]。東京都立杉並高等学校[14]、早稲田大学教育学部社会科[注 3]を卒業した[13]。
中学時代のある日、ガールフレンドの誕生日会に参加した日枝は、そこで当時実験段階だったオシロスコープを目にした。理工学部の学生だった彼女の兄から「もうじきここにニュースもスポーツも映画も音楽も映るようになるんだよ。テレビの時代が来るんだよ」と教わった[12]。
大学では教職課程を履修しており、当初は教員かジャーナリストを志望していた。教育実習先の小学校で、職員室の雰囲気に嫌気がさし、教員になることを迷う[13]。同じ頃、1960年7月の夏休みのある日、日枝はぶらりと大学に行き、イチョウの木の下のベンチでまどろんでいた。偶然通りかかった就職課の先生から「君はマスコミ志望だったよね。開局したばかりのフジテレビが実習生を募集している。就職には関係ないけど、勉強になるから行ってみないか」と声を掛けられた。これがきっかけとなり、フジテレビの実習に応募した[注 4][12][18]。
1961年4月、株式会社フジテレビジョンに入社する[2][1]。同期には中本逸郎[19]、豊原ミツ子、中野安子がいる[20]。配属部署は希望通りの報道部だった[12]。1963年11月の鶴見事故の取材[21]、同月のケネディ大統領暗殺事件の衛星中継や、1966年3月に富士山付近で発生した英国海外航空機空中分解事故の取材に従事した[18]。政治部記者のとき、テレビは国会の記者クラブに入れてもらえず、常駐カメラマンの映放クラブに入っていた[22]。
中本、横澤彪らと共に1966年5月、フジテレビ労働組合を結成し(岡田太郎委員長・嶋田親一副委員長・黒神洋二書記長。結成数時間のうちに582人が加入)[23]、25歳定年制だった女性社員の待遇改善などを要求した(1972年同定年制廃止)[24]。
しかし鹿内信隆社長と同じ日経連出身の石川士郎報道部長に睨まれ[23][25]、1966年編成部に異動した[26]。上司との交渉により1年で報道に戻るも、すぐまた編成に行き、1968年4月『3時のあなた』を企画担当として立ち上げ[27]、司会に高峰三枝子、山口淑子を起用した[28]。
1968年7月、周囲の推薦により労働組合書記長に就任した。同じ第三期執行部に村上光一、尾上規喜がいた。報復人事として当時不人気だった広報に左遷される。1969年10月、書記長を退任し、社内横断のプロジェクトチーム「番組企画センター」メンバーに選ばれた[27]。組合活動により人事異動で不本意な部署に次々と飛ばされたが、腐らず懸命に働いたと日枝は回想する一方[13]、それほど不利益になっていないという評価もある[27]。
1970年、広報から編成に戻る[26]。1972年2月あさま山荘事件の時は、編成デスクとして強引にCMを外して中継を続けた[29]。1974年11月に編成部副部長、1978年11月には営業部ネット営業部長になり[26]、電通と関係を深める[30]。
1980年5月、鹿内信隆会長が視聴率低迷や営業不振を理由に強化本部長を兼務。長男の鹿内春雄を代表取締役副社長に任命し、強化本部長の職務を代理統括させると宣言した。この「80年改革」で、日枝は42歳で編成局長に抜擢された[4][注 5]。
編成局長就任の条件として挙げた「視聴率表を貼り出すのをやめる」「制作部門のプロダクション化など合理化をやめる」「番組の企画を社長にまであげるのはやめて、現場に任せてほしい」を実行。社内を明るくしよう、楽しくしようという狙いの下、社内外に向けて「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズを打ち出した[12][注 6]。
『スター千一夜』は、開局以来続く看板番組だったが、昼のワイドショーの台頭やゴールデンタイムの15分帯番組という制約のため、番組編成上の問題になっていた。1980年夏頃から、編成担当専務村上七郎と共にこの問題に取り組み、一社提供のスポンサーである旭化成を粘り強く説得し、『スター千一夜』を終了させた。代わりに、1981年10月から新番組『なるほど!ザ・ワールド』が始まり、プロデューサーには王東順を起用した。それ以前にも同年4月開始の『時代劇スペシャル』のプロデューサーとして岡田太郎を推薦するなど、日枝の働きぶりを評価した村上は、以後の番組改編を日枝に任せ、1982年6月には関西テレビ副社長に転じた[34]。
1982年3月には「ニューテレビ宣言」を提言する。この中で、編成が作るタイムテーブルこそがテレビ局の商品であり、局全体の力や勢い、イメージが反映されるとし、「テレビは編成が肝要」という考え方を打ち出した。これにより、フジテレビは編成機能を強化し、次々と高視聴率番組を生み出していった。番組観の革新をもたらし、既存の枠を超えた「タレント」という新たな業種も登場した。また、報道局所管のアナウンス室が編成制作局に移管され、女子アナのバラエティ番組での起用が当たり前となり、後の女子アナブームに繋がった[4]。
破天荒な鹿内春雄との二人三脚によりフジテレビの黄金時代を牽引する。1982年から1993年まで視聴率三冠王を他に譲らなかった[4]。さらに、フジサンケイグループの総力を挙げたメディア・ミックス展開により、『南極物語』(1983年公開、製作総指揮)、『ビルマの竪琴』(1985年公開、企画)、『子猫物語』(日本1986年公開、北米1989年公開、製作)などの映画[注 7]や、『夢工場'87』[注 8]などのイベントを成功に導いた[37]。1983年6月、取締役編成局長、1986年6月には常務取締役総合開発室担当に就任した[2]。
1988年4月16日、鹿内春雄会長が急性肝不全により死去した(享年42歳)[37]。春雄邸で行われた仮通夜で日枝は、涙を隠さず号泣したとされる[38]。4月19日午後、春雄の生前の意向に従い信隆は社長人事を日枝に内示[39]。遺志を継いだ日枝は1988年6月、生え抜き初の代表取締役社長に昇任した[2]。
春雄の急死から間もなく、鹿内信隆は鹿内家の世襲体制を維持するため、娘婿の佐藤宏明を養子に迎え、「鹿内宏明」としてフジサンケイグループ会議の三代目議長に据えた[40][41]。1990年10月28日、信隆が死去。フジテレビは1980年代の勢いを引き継ぎながらも、次第に停滞の兆しを見せ始める[4]。宏明はメディア業界での経験が皆無でありながら、現場に過度に干渉し、頭でっかちの指示を繰り返したため、社内の混乱を招いた[40][41]。1992年7月、日枝は産経新聞社の羽佐間重彰社長らとともに宏明を追放し、フジサンケイグループのガバナンスの適正化を図る[4]。フジテレビは、宏明解任騒動にバブル崩壊、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』出演者の死亡事故により勢いが衰え[42]、1994年には、フジテレビを熱心に研究していた日本テレビに視聴率三冠王の座を譲ることとなる[43][44]。
1997年8月8日にはフジテレビジョンを東証一部に上場させ、パブリック・カンパニー化を実現させた[4]。2001年6月、フジテレビジョン代表取締役会長に昇任した[2]。2003年4月から2006年3月まで日本民間放送連盟会長を務め[5]、「地上波放送のデジタル化」と「放送と通信の連携」という課題に取り組み、その舵取り役を担った[1]。2003年7月にフジサンケイグループ代表に就任する[2]。2004年から2010年までの7年間、フジテレビは視聴率三冠王に返り咲いた[45]。
2005年1月17日、フジテレビジョンは、フジサンケイグループの再編を目的として、ニッポン放送の経営権取得を目指して株式公開買付けを発表した[46]。その最中の同年2月8日、突如として堀江貴文率いるライブドアが、東京証券取引所の市場内時間外取引によりニッポン放送株式の35%を取得した[47][48]。新株予約権の発行をめぐる法廷闘争や北尾吉孝率いるソフトバンク・インベストメント(現在のSBIホールディングス)のホワイト・ナイト参画を経て[48]、同年4月18日、フジテレビジョン、ライブドア、ニッポン放送の三者は和解した[49]。フジテレビジョンは、同年5月23日にニッポン放送を子会社化、続く同年9月には完全子会社化して、フジサンケイグループの事業持株会社となった[50][51]。この間、連日自宅には記者が取材に詰めかけたが、「われわれは取材をする立場なので、取材を受けないという選択肢はないんだ」と部下に語って、非公式の会見に応じていた[52]。
2006年、小泉政権において通信・放送の在り方に関する懇談会(通称「竹中懇」)が開かれ、メディア・コングロマリット化の推進やそのためのマスメディア集中排除原則の緩和が議論され、2007年に成立した改正放送法で、放送持株会社が認められた。2008年10月1日、フジテレビジョンは日本初の認定放送持株会社に移行し[53]、商号を「株式会社フジ・メディア・ホールディングス(FMH)」に変更した[54]。同日、新設分割により「株式会社フジテレビジョン」が設立され[55]、両社の代表取締役会長を兼ねることになった[2][56]。
認定放送持株会社体制への移行を前に日枝は「メディア・コングロマリットって、要するにワンソース、マルチユースを徹底する組織でしょう。編成局長の頃からやりたいと思っていました」と語り、発足後のコーポレートサイトでは「わが国を代表する『メディア・コングロマリット』の形成を目指してまいります」と宣言[57][注 9]。FMH発足後はサンケイビルの完全子会社化やグランビスタホテル&リゾート(旧・三井観光開発)の買収など、強固なポートフォリオの構築と事業領域の拡張を推進した[12][4][57]。関西テレビ放送の持分法適用関連会社化や仙台放送の連結子会社化など、フジネットワーク系列局の再編と経営基盤の強化にも取り組んだ[12][4]。
2017年6月28日、フジ・メディア・ホールディングス(FMH)とフジテレビジョン両社の代表取締役会長を退き、両社の取締役相談役に就任した[58][59]。
2023年7月、森英恵の後任として、彫刻の森美術館及び美ヶ原高原美術館の館長に就任した[9]。
2025年1月27日、中居正広と女性とのトラブルに関連したフジテレビの一連の問題への対応の責任を取って、フジテレビジョンの嘉納修治会長と港浩一社長が辞任した(それぞれ親会社FMH会長と同取締役も辞任)[60]。当日夕方から翌日深夜にかけての記者会見で[61]、FMHの金光修社長は、日枝について問われ、「企業風土の礎をつくっているのは間違いない」「現場に直接はタッチしていないが、影響力は大きい」と答えた[62]。また、フジテレビジョンの遠藤龍之介副会長は、同年3月末に予定される第三者委員会の調査報告をめどに、「役員がそれぞれの責任を取るべきで、それは常勤役員全員に波及するものだ」と答えた[52]。なお、フジテレビの労働組合は、同年1月24日付の港社長への意見書において、日枝相談役を含む取締役全員が記者会見に出席することと、会見の場で取締役を刷新する意向を表明することを要求していたが[63]、日枝は会見に出席しなかった[64]。
代わってフジテレビジョンの社長に就任した清水賢治は、2025年2月10日、記者団の取材に、「(日枝の人事に対する)影響力はやはり長年やってらっしゃるので、かなりあるのだろうなとは思うが、私自身はあまり感じたことはない」と答えた[65]。
2025年2月27日、FMHは、日枝が取締役の人事や報酬などについて助言や提言を行う経営諮問委員会の委員を同日付で辞任したことを発表した[66][67]。同日行われた定例取締役会の終了後、取材に応じたFMH金光社長は、経営諮問委員の辞任について、日枝が「二つ返事」で了承したと述べた。さらに、日枝が「先週末に自宅で転倒して、腰椎圧迫骨折になって入院をしている」ことを明かした[68][69]。
主な出典:[56][70]。フジサンケイグループ(FCG)、フジネットワーク(FNS)。
ボーイスカウトに小学生で入隊し、菊スカウト進級を経て、大学生で隊長に昇進。就職後も育成会員として長年登録している[13][12]。2010年に財団法人ボーイスカウト日本連盟が公益法人へ移行した際には、奥島孝康理事長の打診により日枝は副理事長を引き受けた。第15回日本ジャンボリーには制服を着て参加し、「制服を着たのは50年ぶりだったでしょうか。感動しましたね」と語っている[13]。
日枝の若いころを知るフジテレビの同期の1人は、「イデオロギーがなく融通無碍、一方でパワーポリティクス(力の統治)に強い関心があり、組織のどこを押さえればいいかを把握する力は抜きんでていた」と評する[90]。
編成の上司だった村上七郎は、日枝を「絶妙のバランス感覚の持ち主であり、熟慮断行の士」と評する[33]。
編成局長を務めていた1980年代、トレードマークの豪快な笑い方から親しみを込めて「ガハハおじさん」と社員たちに呼ばれていた[91]。同じころ「(プロ野球の)ナイター中継のせいで番組が度々休止になる」という理由でバラエティ番組『オレたちひょうきん族』の人気コーナーであった「ひょうきん懺悔室」に出演させられ、明石家さんま、ビートたけしらに水を被せられた[92][93]。
竹中平蔵は、堀江貴文との対談の中で「(小泉政権下で)私が総務大臣のとき、キー局の社長全員と一対一で話したんですよ」と振り返り、「15年ぐらい前で、まさに『通信と放送の融合』の話が出始めていた頃で。“テレビはどうしていくんですか?”と持ちかけたところ、ちゃんと理解してくれたのが日枝(久)さんだけでしたね」と評している[94]。
フジテレビの清水賢治社長は、日枝を「正月とかに会う親戚のおじさんみたいな存在」と評する[95]。
元経営首脳は「フジテレビは良くも悪くも家父長制の『日枝家族』なんですよ」と評したうえで、鹿内宏明追放後に「実力があって尊敬している先輩たちが日枝さんに次々に切られていく。逆らえばああなる、と恐れるようになった」と述べた[96]。
フジテレビ系列のローカル局の社長は、「地方の文化の存在意義や、系列局とともにフジが発展した歴史を日枝さんはよくわかっている」と評価した[96]。

安倍晋三首相とは度々面会し[注 11]、会食や夏季休暇には連日共に山梨県でゴルフをするなど緊密な関係にあった[103]。安倍はフジテレビやニッポン放送の番組に多数出演し[104]、産経新聞本紙・僚紙の独占インタビューにも積極的に応じていた。日枝はお台場カジノ構想に積極的であり[103]、「安倍ちゃんが長期安定になると、ますますやりやすい」とフジテレビ中堅幹部に語ったという[96]。2022年7月、暗殺された安倍の遺体が東京・富ケ谷の自宅に到着した際には、唯一の民間人として、高市早苗、福田達夫ら政治家と出迎えた[105]。安倍の国葬の司会は、実行委員会の指名を受け、フジテレビの島田彩夏アナウンサーが務めた[106][107]。翌年衆議院議員となった安倍の甥にあたる岸信千世は、フジテレビ報道局員として勤務していた[108]。他にも加藤六月[70]、産経新聞社出身の森喜朗とは盟友関係にあるなど[109][110]、政財界に幅広い人脈を有している。
杉並高校の同級生にジャズ評論家の寺島靖国[111]と元日本テレビプロデューサー山口剛[112]がおり、早稲田大学教育学部社会科の同級生に元東映テレビプロデューサー阿部征司がいる[113]。
妻の加寿子は1941年生まれで、青山学院女子短期大学を卒業した[114]。
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