曖昧述語
言語学および哲学において、曖昧述語(あいまいじゅつご、英: vague predicate)とは境界事例を生じさせる述語のことである。たとえば英語の形容詞「tall(背が高い)」は、中程度の身長の人に対して明確に真とも偽とも言えないため曖昧である。それに対し、「prime(素数)」は、すべての数が決定的に素数であるかそうでないかのどちらかであるため曖昧ではない。曖昧性(あいまいせい、英: vagueness)は一般に、述語が砂山のパラドックスを生じさせる能力によって診断される。曖昧性は、ある表現が複数の指示対象を持つ多義性(ambiguity)とは別である。たとえば「bank」という語は、川岸と金融機関の両方を指しうるため多義的であるが、両解釈の間に境界事例は存在しない。
曖昧性は哲学的論理学における主要な研究テーマであり、古典論理学に対する潜在的な異論として機能する。形式意味論の研究では、自然言語における曖昧表現のための構成的意味論を提供しようとしてきた。言語哲学の研究では意味論の観点からの曖昧性の含意が論じられてきた。また形而上学者は、現実それ自体が曖昧であるかどうかを考察してきた。
重要性
曖昧性の概念は哲学的に重要である。たとえば道徳的意味での「正しい」の定義を作ろうとするとき、私たちは明確に正しい行為を含み明確に誤った行為を除外する定義を求めようとするが、境界事例はどうなるのだろうか。確かに境界事例は存在する。ある哲学者たちは、まさしくそのような境界事例においてのみ自身が不明確であるような定義を作ろうとすべきだと言う。他の哲学者たちは、日常言語や日常概念が許す以上に定義を精確にする利益があるとして、精確化定義(precising definition)を進めることを勧める[1]。
法律における曖昧性
曖昧性は法律においても問題となり、場合によっては裁判官が境界事例が特定の曖昧な概念を満たすかどうかについて裁定しなければならない。例としては、障害(法的に目が不自由と認められるには視力をどれだけ失う必要があるか)、人間の生命(受精から出生のどの時点で殺人禁止法によって保護される法的な人間となるか)、成人(運転・飲酒・投票・性的同意等の法定年齢)、人種(混血の人物の分類)などがある。生物学的性別のような一見明確な概念でさえ、性転換者の性別移行だけでなく、男性・女性両方の生物学的特徴を個人に与える特定の遺伝的条件(インターセックス参照)によって曖昧性の問題が生じうる。
コモン・ロー体系では、曖昧性は条例その他の規制に対する法的な抗弁となりうる。法的原則は、委任された権力は委任者が意図した範囲を超えて行使できないというものである。したがって、法律が許容する範囲を超えて規制するほど曖昧な規制は許されない。そのような規制は「曖昧性のゆえに無効」(void for vagueness)となり、執行不能となる。この原則は、特定の市で「わいせつな」または「好ましくない」内容物の販売を禁じる市条例を無効にするためにしばしば用いられる。裁判所はそのような表現を法律が許容する範囲を超えた裁量を市の検査員に与えるほど曖昧とみなすことが多い。米国ではこれは漠然性の原則(vagueness doctrine)として知られ、欧州では法的安定性の原則(principle of legal certainty)として知られる。
科学における曖昧性
多くの科学的概念は必然的に曖昧である。たとえば生物学における種は、輪状種のような不明確な事例のゆえに精確には定義できない。それでも、種の概念は大多数の場合に明確に適用できる。この例が示すように、定義が「曖昧」であるとはかならずしも批判ではない。アラスカでハスキーとオオカミを交配させた動物を考えよう——それらは犬か? 明確ではない。それらは犬の境界事例である。つまり、犬性(doghood)という日常概念は、この場合に決定的な判定を下すほど明確ではないのである。
アプローチ
曖昧性に対する最善の理論的扱いが何か——これは砂山のパラドックスとも密接に関連する——は、哲学的な論争の的となってきた。
ファジー論理

一つの理論的アプローチとして、アメリカの数学者ロトフィ・ザデーが発展させたファジー論理がある。ファジー論理は、たとえば「ビル・クリントンは禿げている」という命題の「完全な偽」から、「パトリック・スチュワートは禿げている」という命題の「完全な真」への漸進的な移行を提案する。通常の論理には「真」と「偽」の2つの真理値しかない。ファジー論理はこれと異なり、完全な真と完全な偽の間のスペクトルに沿った無数の真理値を導入する。完全な真は「1」、完全な偽は「0」で表される。境界事例は0と1の間のどこか(たとえば0.6)の「真理値」を持つものと考えられる。ファジー論理アプローチの支持者としては、K・F・マキーナ(1976年)[2]やドロシー・エジントン(1993年)[3]がいる。
重評価論(スーパーヴァリュエーショニズム)
別の理論的アプローチは「重評価論」(supervaluationism)として知られる。このアプローチはキット・ファインとロザンナ・キーフにより擁護されてきた。ファインは、曖昧述語の境界的な適用は真でも偽でもなく、「真理値のギャップ」の事例であると論じる。彼は、曖昧述語が多くの代替的な方法で「精確化」されうるという考えに基づいた、興味深く洗練された曖昧意味論の体系を擁護する。この体系の帰結として、曖昧な語の境界事例は真でも偽でもない命題をもたらす[4]。
重評価意味論のもとでは、述語「超真(supertrue)」を「すべての精確化において真」という意味として定義できる。この述語は原子的命題(例:フランクが禿げの境界事例である場合の「フランクは禿げている」)の意味論を変えないが、論理的に複合的な命題には帰結をもたらす。とくに「フランクは禿げているかまたはフランクは禿げていない」のような命題論理の恒真式は、禿げのいかなる精確化においても「フランクは禿げている」か「フランクは禿げていない」かのどちらかが真となるため、超真となる。境界事例の存在がこのような原理(排中律)を脅かすように見えるなか、重評価論がそれを「救済」できることは一つの美点と見られている。
軽評価論(サブヴァリュエーショニズム)
軽評価論(subvaluationism)は重評価論の論理的な双対であり、ドミニク・ハイド(2008年)とパブロ・コブレロス(2011年)によって擁護されてきた。重評価論が真理を「超真」として特徴づけるのに対し、軽評価論は真理を「軽真(subtruth)」すなわち「少なくとも一部の精確化において真」として特徴づける[5]。
軽評価論は、曖昧な語の境界的な適用が真かつ偽であると提案する。すなわち「真理値のグルート(glut)」を持つ。この理論によれば、曖昧な命題は少なくとも一つの精確化において真であれば真であり、少なくとも一つの精確化において偽であれば偽である。曖昧な命題がある精確化では真で別の精確化では偽であれば、それは真かつ偽である。軽評価論は結局、曖昧性は真に矛盾した現象であるという主張に行き着く[6]。 「禿げた男」の境界事例については、彼が禿げていると言うことも、禿げていないと言うことも、どちらも真かつ偽となる。
認識論的見解
4つめのアプローチとして、「認識論的見解」(epistemicist view)がティモシー・ウィリアムソン(1994年)[7]、 R・A・ソレンセン(1988年[8]、 2001年[9])、ニコラス・レッシャー(2009年)[10]によって擁護されてきた。彼らは、曖昧述語は実際に明確な境界を引くが、その境界がどこにあるかを知ることができないと主張する。境界事例において曖昧な語が適用されるかどうかをめぐる混乱は、無知によるものである。たとえば認識論的見解によれば、すべての人について、その人が老いているかいないかという事実は存在する。ただし一部の人はその事実を知らない。
対象の性質としての曖昧性
一つの可能性として、語や概念は完全に精確だが、対象そのものが曖昧だというものがある。ピーター・アンガーの1980年の論文「多数の問題」における雲の例を考えよう。雲の境界がどこにあるかは明確でなく、任意の水蒸気の粒子について、それが雲の一部かどうかを問うことができる。多くの粒子についてその問いに答えられないだろう。したがって、「雲」という語は曖昧なのではなく、曖昧な「対象」を精確に指示しているのかもしれない。
この戦略はしばしば否定的に受け取られてきた。とくにガレス・エヴァンズの短い論文「曖昧な対象は存在しうるか?」(1978年)[11]では、曖昧な同一性命題が不可能(すなわち論理的不整合をもたらす)であるように見える論証が検討されている。デイヴィッド・ルイスは[12]、 読者はエヴァンスとともに、現実的に意味のある曖昧な同一性は確かに存在するから[注釈 1]それに反する証明はすべて正しくないはずだと結論すべきだと説明する。その証明は曖昧な語が曖昧な対象を精確に指示するという前提に依拠しているが、曖昧さは単に意味論的不確定性を反映しているという見方では失敗するので、曖昧性は対象自体の性質ではありえないと帰結する。
それでも、ライプニッツの法則を含む代替的な演繹規則を提案することなどにより、一部の哲学者は存在論的曖昧性(ontological vagueness)をある種の形而上学的現象として擁護しようとする。たとえばピーター・ファン・インワーゲン(1990年)[13]、 トレントン・メリックス、テレンス・パーソンズ(2000年)[14]がそうである。リチャード・ヘックなどは、曖昧な対象を伴う同一性命題は充足不可能だと認めつつも、それが同じ対象の確定的な同一性命題を許すことを意味すると否定することで、エヴァンスに反して曖昧な対象は少なくとも論理的に整合的だと擁護する[15]。
本質と機能
曖昧性は人間の自然な認識の主要なフィルターであり[16]、 曖昧性のその他の機能はそこから派生する二次的なものである[17]。 認識能力は人間(および他の生物)が現実の(物質的)世界において方向を定め生存することを可能にする基本的な自然の装備である。認識の課題は、認識論的に計り知れない(膨大で深い)現実から、有限の量の情報のみを含む認識(知識)モデルを人間が獲得することである。そのためには、情報の選択によって情報を削減するフィルターが必要である。それが曖昧性であり、それによって人間は現実の世界について情報を知覚し記憶する[16]。 認識の行為において人間が注意の中心に置くものからの距離によって、ある情報はより少ない曖昧性で、他の情報はより大きな曖昧性で獲得される。
内的曖昧性と外的曖昧性
認識と言語(情報の正確さ維持の法則):コミュニケーション言語は、認識(情報の源)によって獲得された情報と同程度の曖昧性を持つべきである。つまり言語は、曖昧性に関して適切な認識に合わせて調整されなければならない。これが曖昧性の二次的機能の一つである。
人はその本来的に曖昧な知識(仮想の内的心理言語で表現された内向きの認識モデルに含まれる)について、自然言語(一般に非形式的な言語)で語ることができるが、もちろん曖昧にしかできない[16]。 知識のフィルターによって生じる知識の曖昧性は一次的なものであり、内的曖昧性(internal vagueness、内向き心理的曖昧性)と呼ばれる。その後の発話の曖昧性は二次的曖昧性である。この発話(内向き心理言語から外的コミュニケーション言語への変換——「定式化」と呼ばれる)は、個人の内向き認識モデルのすべての内容をその固有の曖昧性ごと明かすことができない。言語的発話(外的コミュニケーション言語)に含まれる曖昧性を外的曖昧性(external vagueness)と呼ぶ。
言語学的には外的曖昧性のみを把握(モデル化)できる。内的曖昧性はモデル化できない。それは内向き心理的モデルの一部であり、この曖昧性は(曖昧で感情的かつ主観的で時とともに変化する)非形式的言語の構成物(語、文)の解釈に含まれる[18]。 この曖昧性は他の人間には隠されており、その程度を推測できるにすぎない。自然言語のような非形式的言語は、内的曖昧性と外的曖昧性を厳密に区別することを不可能にし、曖昧な境界しか持たない[19]。
幸いなことに、非形式的言語は意味をやや不確かにする適切な言語構造(例:不確定量化子「POSSIBLY(もしかすると)」「SEVERAL(いくつかの)」「MAYBE(たぶん)」等)を使う。そのような量化子により、自然言語は外的曖昧性をより強くまた明示的に使用でき、内的曖昧性の一部を外的曖昧性へと移すことができる。これによって受け手がメッセージの曖昧性に注意を向け、曖昧性を量化しやすくなり、自然言語を使ったコミュニケーションの理解が改善される。
形式言語(数学、形式論理、プログラミング言語——原理的に言語構造の解釈においてゼロの内的曖昧性を持たなければならない)は、曖昧性・不確実性表現のツール——ファジー集合・ファジー論理、または確率的な量と関数——によって外的曖昧性をモデル化できる。
内的曖昧性の低減
ある人のメッセージの内的曖昧性は別の人には隠されており、推測するしかない。内的曖昧性を受け入れるか(それは人間的なことである)、それを低減または完全に排除しようとするか(それは科学的なことである)を選べる。
科学的知識の定式化とそのコミュニケーションに対する精確性の要求には、コミュニケーション言語の言語的構成物を指示する際の内的曖昧性を最小化し、メッセージの精確性を改善することが求められる。さまざまな科学的手続きがこの目的のために存在する。
これを達成するには、研究された現実とそれについて獲得された知識をより正確に記述するための用語が必要である。適切な教育を受けた人はその用語を内的曖昧性なく知り、個別の術語が何を意味するかを正確に知っている。循環定義を避けるため、基本概念は常に合意に基づいて形成され、他の概念はそこから定義によって導出される。研究とコミュニケーションの精確性を改善するため(内的曖昧性を低減するため)、カール・フォン・リンネによる生物の分類体系のような分類体系が使われる。
これが記述的(非厳密)科学の行い方である。すなわち、自然の人間の認識(ラッセルの曖昧性フィルター[20])と洗練された自然言語を使う。
内的曖昧性の低減のさらなる継続がある。内的曖昧性を極限すなわちゼロまで低減する方法は、I・ニュートンによって実現された[21]。
上述の情報の正確さ維持の法則によれば、知識の内的曖昧性を完全に(ゼロに)排除するためには、まず認識(情報の源)においてそれが完全に排除されなければならない。これはニュートンが曖昧性フィルター以外の認識のフィルターを選ぶことを意味する。こうして自然の人間的世界から人工的な世界へと移行する。これを厳密な世界(exact world)と呼ぶ。
自然言語の場合、内的曖昧性を完全に取り除くことはできないが、解釈の内的曖昧性がゼロである人工的な形式言語(数学、形式論理学、プログラミング言語)を構築することは可能である。解釈の内的曖昧性がゼロである言語は、その言語構成物がすべて適切な教育を受けた人に完全に精確な意味で理解されるという性質を持つ。それゆえそれらは厳密な世界の一部をなす。
(ニュートン式の厳密な)認識と厳密な世界の間のつなぎとなる橋が量(quantity、例:電場強度、速度、硝酸濃度など)である。量は厳密な世界では精確に画定され、現実の世界では測定可能な基本的な探針となる。量は厳密科学の基本的な構成要素である。厳密科学においては、量は常に精確に定義される——合意によって(基本量の集合)または他の量からの導出によって(国際単位系)。
すべての厳密でない科学(記述科学と呼ばれる)と厳密科学の違いは、前者が自然の人間の認識(ラッセルの曖昧性フィルター付き)と洗練された自然言語を使うのに対し、後者はニュートンの離散的フィルターと量の使用に基づく認識と人工的な形式言語を使うことにある。厳密科学は数学から知られる形式的推論(情報の形式的処理)という強力なツールを使う。
現実の対象は本当に曖昧か
まず、現実の対象そのものではなく現実の対象の認識モデルのみが言語的に把握可能であり、概念と呼ばれる言語的構成物がそれらの認識モデルに割り当てられていることを述べておくべきである。
現実世界の一部の対象は精確な時空間的な境界を持たないか、持つとしても時間・空間的に変化しうる。しかしそのような対象を曖昧と言うことはできない。曖昧性は情報の性質だからである[22]。 地球の大気、雲、山積み(heap)、丘などはその例である。たとえば山積みは材料が加えられたり除かれたりすることで変化する。山積みの主要な特性はその形状であり、何らかの程度にはその寸法だが、構成要素の数ではない。
科学的な視点をとり、自然言語の概念がそれらの対象とその変容をどれほど正確に(曖昧なく)記述するかを検討し始めると、科学的な厳密性と精確性の観点からは不十分であることがわかる。ラッセル[23]とクワイン[24]によれば、自然言語への形式論理学の適用から逆説(たとえば山積み、禿頭など)が生じるが、これは形式論理学の不適切な使用方法である。形式論理学は厳密な概念でしか機能できず、連鎖の逆説は自然言語という曖昧なものに精確な道具を使おうとするから生じる。
科学の目的のためには、そのような現実の対象について十分に精確に定義された量的認識モデルを(合意または定義に基づいて)作成することが必要である。たとえば、色は光の波長・色温度によって定義でき、雲や山積みには数学的・幾何学的モデルを使えるし、地球の大気の終わりや禿げの医学的基準(単位面積あたりの毛髪数など)も定義によって精確化できる。これが正しい科学的アプローチである。
脚注
注釈
- ↑ 例:「プリンストン=プリンストン区」。「プリンストン」の指示対象は不確定(区のみを指すかもしれず、タウンシップと区の両方を指すかもしれない)であり、したがってこの命題は単純に真とも単純に偽とも評価しがたい。
出典
- ↑ Williamson, T. 1994. Vagueness, London: Routledge.
- ↑ Machina, K.F. 1976. "Truth, Belief and Vagueness", in Journal of Philosophical Logic Vol. 5. pp. 47-78.
- ↑ Edgington, D. (1997). Keefe, R.; Smith, P.. eds. Vagueness by degrees. MIT Press. pp. 294–316. オリジナルの2023-04-11時点におけるアーカイブ。 2013年6月27日閲覧。
- ↑ Kit Fine, The Limits of Abstraction (2002).
- ↑ Pablo Cobreros, (2011) "Paraconsistent Vagueness: A Positive Argument" Synthese 183(2): 211–227.
- ↑ Dominic Hyde and Mark Colyvan (2008) "Paraconsistent Vagueness: Why Not?" Australasian Journal of Logic 6: 107–121.
- ↑ Williamson, T. 1994. Vagueness London: Routledge.
- ↑ Sorensen, R.A. 1988. Blindspots. Oxford: Clarendon Press.
- ↑ Sorensen, Roy (2001). Vagueness and Contradiction. Oxford University Press
- ↑ Rescher, N. 2009. Unknowability. Lexington Books.
- ↑ Evans, G. (1978). “Can There Be Vague Objects?”. Analysis 38 (4): 208–. doi:10.1093/analys/38.4.208.
- ↑ Lewis, David (1988-06-01). “Vague identity: Evans misunderstood”. Analysis 48 (3): 128–130. doi:10.1093/analys/48.3.128. ISSN 0003-2638.
- ↑ Van Inwagen, Peter. 1990 Material Beings. Ithaca, NY: Cornell University Press.
- ↑ Parsons, Terence. 2000. Indeterminate Identity - Metaphysics and Semantics Oxford: Clarendon Press.
- ↑ Heck, Richard G., Jr. (1998-04-01). “That there might be Vague Objects (so far as Concerns Logic)”. The Monist 81 (2): 274–296. doi:10.5840/monist199881212. ISSN 0026-9662.
- 1 2 3 Russell, Bertrand (June 1923). “Vagueness”. Australasian Journal of Psychology and Philosophy 1 (2): 84–92. doi:10.1080/00048402308540623.
- ↑ Křemen, J.: Modely a systémy (Models and Systems), ACADEMIA, Publishing house of the Czech Academy of Sciences, Prague 2007, ISBN 978-80-200-1477-1
- ↑ Osgood C. E, Suci G., Tannenbaum P.: The Measurement of Meaning. Urbana, Illinois, University of Illinois Press, 1957
- ↑ Bek R., Křemen J.: Logic, Cognitive Model and Reality, in: Proceedings of the 8th international symposium LOGICA '94, T.Childers, O. Majer ed., publ. by PHILOSOPHIA, The institute of Philosophy of the Academy of Sciences of Czech Republic, Prague 1995, pp. 193-199.
- ↑ Russell B.: Vagueness. In: The Australasian Journal of Psychology and Philosophy 1, June 1923, pp. 84--92.
- ↑ Newton I: Philosophiae Naturalis Principia Mathematica in 1687
- ↑ Russel, B.: Vagueness. Australasian Journal of Psychology and Philosophy: Vol. 1, No. 2, pp. 84-92.
- ↑ Russel, B..: Vagueness. Australasian Journal of Psychology and Philosophy: Vol. 1, No. 2, pp. 84-92.
- ↑ Quine W. V.: What price bivalence? Journal of Philosophy 78 (2):90-95 (1981)
さらに読む
- Deemter, Kees van. Not Exactly: In Praise of Vagueness (Oxford University Press; 368 pages; 2010).
- Keefe, R.; Smith, P., eds (1997). Vagueness: A Reader. MIT Press
- Keefe, R. 2000. Vagueness. Cambridge: Cambridge University Press.
- Rick Nouwen; Robert van Rooij; Uli Sauerland et al., eds (Jul 2009). International Workshop on Vagueness in Communication (ViC; held as part of ESSLLI). LNAI. 6517. Springer. ISBN 978-3-642-18445-1
- Ronzitti, Giuseppina (ed.), Vagueness: A Guide. Logic, Epistemology, and the Unity of Science, Springer, Dordrecht, 2011.
関連項目
外部リンク
- {{{2}}} - スタンフォード哲学百科事典「曖昧述語」の項目。