雖井蛙流
| 雖井蛙流 せいありゅう | |
|---|---|
| 別名 | 井蛙流 |
| 使用武器 | 日本刀 |
| 発生国 |
|
| 発生年 | 江戸時代 |
| 創始者 | 深尾角馬 |
| 源流 | 丹石流 |
| 派生流派 | 兌山流 |
| 主要技術 | 剣術 |
| 公式サイト | 一般財団法人 尚徳会 |
雖井蛙流(せいありゅう)は、日本の剣術の流派。江戸時代の剣客深尾角馬が創始した。 鳥取藩で伝承された、鳥取藩剣術の主流をなす流派である[1]。 1981年(昭和56年)8月3日、「旧鳥取藩剣術・尚徳練武館伝『雖井蛙流平法』の型」が鳥取市の無形文化財に指定された[2]。
概要
流祖深尾角馬は初め、父河田理右衛門に丹石流を学んだ。のちに去水流、東軍流、卜伝流、神道流、新陰流、タイ捨流、岩流、戸田流など諸流を修め、自身の号「井蛙」から「井の中の蛙と雖も大海を知らざるべけんや」の意を含めて「雖井蛙流」とし、さらに武士が平素から稽古すべき心得を説いていることから「平法」の二字を加えて「雖井蛙流平法」と称して創始した(雖は読まない)。 その技法は、太刀数が多く、旧来の荒々しい介者剣術だった丹石流を素肌剣術に改め、太刀数を整理し、深尾が学んだ諸流の技への返し技で構成されている[1]。
鳥取藩藩士上野忠親は『井蛙語海』などを著し、それまでの口伝を文書化(伝書)した[3]。 鳥取藩の大部分を占める流儀として栄え、明治以降も鳥取県において松田秀彦、太田義人、山根幸恵に継承された。
特徴
- 「兵法」ではなく「平法」と称しており、日常の武士の心得を強調している。
- 介者剣術である丹石流をもとに創始された素肌剣術である。
- 型稽古だけでなく、陣笠を被って実際の太刀撃ちを体得させる稽古を行なった。
- 「手のうち木刀」(六角・三尺六、七寸)を考案し、敵と剣を交えて相打ちになった時、相手の剣を制して、自らの剣が有効な斬撃となるための稽古を行なわせた[1]。
雖井蛙流平法が創始された江戸時代は太平の世であり、戦国乱世のような非常時的な精神鍛錬は衰え、剣術の修行をとおして、武士道的な最高の人間像をどこに求めるかという思索的な動きが現れてきた時期である。 また、鉄砲の出現により戦争の様相が一変し、従来の重い甲冑、具足は不必要なものとし、活動的な軽装が喜ばれるようになり、慶長・元和の大坂の陣の頃には素肌(軽装)の武士も多くなった。それに合わせて剣術も甲冑の上から打ち倒す剛剣は不必要となり、素肌の相手に剣を軽妙に使う剣術が必要とされた[4]。
系譜
深尾角馬から免許を与えられた弟子は13人いたとされるが、はっきりしているのは石河甚左衛門、石河正次、石河正直、白井正成、白井正林の5人。中でも石河正次と白井正林は達人として有名であり、角馬もこの二人には雖井蛙流の免許とともに、正次には化顕流、正林には安心流の居合をあわせて授けている。そのため正次の道統を石河派、正林の道統を白井派と称した[5]。
石河派
石河派は正次から子の正直が継ぎ、上野忠親、青木源三郎に伝えられたが、忠親はのちに白井派も学んだ。 青木源三郎の道統は青木庄次郎から伊木大平太に続く一派と、伴杢允から浅田半之丞に続く一派に分かれ、源三郎は自派こそが雖井蛙流の正統であると誇っていたが、石河派は伊木大平太と浅田半之丞の代で途絶えた。しかし、化顕流居合は石河派とは別に後世まで伝えられている[6]。
白井派
正林の主な門弟には伊吹正親、田淵征成、市原惣兵衛、若林十内がいる。また、前述の上野忠親も系図上白井派の門弟となっている[7]。 田淵征成は田淵征時、岡野広明、中原義実に免許皆伝を与え、このうち岡野広明は市原惣兵衛の道統もあわせ伝えている。この系統だけが現在まで連綿と継承され、1981年に鳥取市の無形文化財となった[8]。 また、岡野広明の第二子岡野正固は父から雖井蛙流、安心流の二流を学び、種々苦心して兌山流を創始した[9]。 白井派とともに伝承された安心流居合は田淵征成から征時に伝えられ、征時は井村惟之、中原義実に皆伝を許したが井村の系統は伝わらず、中原の系統だけが幕末まで伝承された[10]。
流儀の内容
伝書として初巻の「万勝之巻」、中巻の「利集之巻」、免許の「夢想秘極之巻」の三巻がある[11]。
雖井蛙流平法夢想万勝之巻
雖井蛙流の組太刀に表裏の区分はなく、五乱太刀と三曲太刀の八つを合わせて表裏としている[12]。 また、打太刀は諸流派の極意の技になっており、これらの必殺の斬り込みに対して勝ちをとる方法が仕太刀の太刀筋となって、組太刀がまとめ上げられている[13]。
- 五乱太刀分(他流の技に対して、雖井蛙流もそれに応じた技で返す[12])
- 錫杖(しゃくじょう):去水流の流水
- 稲妻(いなづま):東軍流の微塵
- 曲竜(きょくりゅう):神刀流の埋木
- 碪(きぬた):和田卜伝流の一の太刀
- 高浪(たかなみ):疋田神陰流の釣曲
- 三曲太刀分(他流の技に対して、総て雖井蛙流の極意「不識剣」で返す[12])
- 小鷹返(こたかかえし):岩流の女郎花
- 玉簾(たますだれ):柳生流の水月
- 鷲乱(しゅうらん):戸田流の鷲の羽切り
- 小太刀十斬(流祖深尾角馬以前の古流の技に対して、小太刀を用いて返す[14])
- 鉄釘(てってい):松本流の無一意剣
- 䢭復(えんぷく):神陰流の二刀術
- 引列(いんれつ):門井流の玉簾
- 戴附(さいふ):念阿弥流の北窓
- 石火(せっか):戸田流の必勝剣
- 刺劅(らつたく):神陰流の神道猪勢
- 造断(ぞうだん):戸田流の卍
- 右閃(うせん):タイ捨流の封手剣
- 左契(さかん):タイ捨流の光妙剣
- 一刀両㔊(いっとうりょうだん):神陰流の水月
- 尺不足剣并失刀五術(七寸五分から一尺四寸の短刀、無刀取りの技[15])
- 埋木(うもれぎ):不明
- 盛花(せいか):関口流の天地切浪分
- 折紙(おりがみ):不明
- 羽抜鳥(はぬけとり):関口流の死活
- 旅雁(りょがん):不明
- 中極
- 獅子之位
太刀数以上十九[13]
『井蛙語海』によれば、組太刀の根本は「尺不足剣(一尺四寸より七寸五分に至る刀)并失刀(無刀)五術」であり、「失刀の埋木に小太刀をもたせるが鉄釘にして、小太刀を長剣と替えたるが錫杖なり」と説明している。さらに「五術を十斬となし、十斬の二条を一に合わせて五乱」の組太刀になると述べている[13]。
利集之巻
- 手に余る刀利無きの事
- 反り刀利多き事
- 柄八寸利有る事
- 小太刀一尺五寸は短き事
など、九ヶ条の「利害勘弁」[16]。
夢想秘極之巻
- 無手の人謾るべからざる事
- 術人恐るべからざる事
- 疑心を捨つるの事
- 万刀手裏の事
- 無拍子有拍子の事
など、十九ヶ条[16]。
極意の剣は「神妙剣(しんみょうけん)」「不識剣(ふしけん)」「驪竜剣(りりょうけん)」「星斬(せいざん)」の四剣で、これを使うには、葉末に凝り固まって玉となった露が、いつの間にか大地に落ちるがごとく、無念夢想に太刀を使うことができる「落露の位」を会得しなければならないことを強調している[17]。
脚注
- 1 2 3 山根 1982, p. 51.
- ↑ 山根 1982, p. 48.
- ↑ 山根 1982, p. 61.
- ↑ 山根 1982, p. 31.
- ↑ 山根 1982, p. 56.
- ↑ 山根 1982, p. 58.
- ↑ 山根 1982, pp. 58–60.
- ↑ 山根 1982, p. 64.
- ↑ 山根 1982, p. 76.
- ↑ 山根 1982, pp. 74–75.
- ↑ 山根 1982, p. 53.
- 1 2 3 太田 1988, p. 310.
- 1 2 3 山根 1982, p. 54.
- ↑ 太田 1988, p. 311.
- ↑ 太田 1988, p. 312.
- 1 2 山根 1982, p. 55.
- ↑ 山根 1982, pp. 55–56.
参考文献
- 『月刊剣道日本』1976年11月号、スキージャーナル
- 『月刊剣道日本』1999年8月号、スキージャーナル
- 山根幸恵『鳥取藩剣道史』渓水社、1982年6月1日。
- 太田順康「鳥取藩における雖井蛙流に関する研究」『日本武道学研究 渡邊一郎教授退官記念論集』渡邊一郎教授退官記念会、1988年3月21日。