ロベルト・ペタジーニ
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 |
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| 出身地 | ヌエバ・エスパルタ州ポルラマル |
| 生年月日 | 1971年6月2日(55歳) |
| 身長 体重 |
6' 1" =約185.4 cm 185 lb =約83.9 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| ポジション | 一塁手、外野手 |
| プロ入り | 1990年 アマチュアFA |
| 初出場 |
MLB / 1994年4月4日 NPB / 1999年4月2日 KBO / 2008年5月17日 |
| 最終出場 |
MLB / 2006年7月8日 NPB / 2010年10月18日 KBO / 2009年9月18日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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ロベルト・アントニオ・ペタジーニ・エルナンデス(Roberto Antonio Petagine Hernandez、1971年6月2日 - )は、ベネズエラ出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。
NPBでは1999年から2004年にセントラル・リーグのヤクルトスワローズや読売ジャイアンツ(巨人)で、2010年にパシフィック・リーグの福岡ソフトバンクホークスでプレーし、通算7年間で打率.312、233本塁打、635打点[1](2004年までの6年間で756試合出場、2566打数、813安打、打率.317、223本塁打、594打点[2])を記録した。ヤクルト時代の1999年にはセ・リーグ本塁打王・最高出塁率のタイトルを、2001年にはそれらに加えて打点王のタイトルを獲得、2001年にはチームのセ・リーグ優勝と日本シリーズ優勝にそれぞれ貢献している。
NPB球団への入団前はロバート・ペタギーン[3]、ロベルト・ペタジン[4]、ロベルト・ペタージン[5]、ロベルト・ペットギーニ[6]、ロベルト・パタジーニ[7]とも表記されていた。巨人に所属した2003年の推定年俸7億2000万円は、NPB史上歴代5位および野手最高年俸である[8]。
経歴
プロ入り前
アストロズ・パドレス時代
1990年2月13日にヒューストン・アストロズと契約。1993年には下部リーグで最高打率の.334を記録した[3]。
1994年4月4日のモントリオール・エクスポズ戦でメジャーデビュー。
12月28日にトレードでサンディエゴ・パドレスへ移籍。
メッツ時代
1996年3月17日にトレードでニューヨーク・メッツへ移籍。同年オフにはNPBの阪神タイガースがマーク・スウィーニー(セントルイス・カージナルス)、マーク・ウィッテン、(シアトル・マリナーズ)、ケビン・ロバーソン(シカゴ・カブス傘下AAA級)、エリック・アンソニー(コロラド・ロッキーズ)らとともにペタジーニを新外国人選手の候補としてリストアップしていたが[3][9]、最終的にペタジーニを獲得することはなかった。なお、同時期には千葉ロッテマリーンズもペタジーニに興味を持っていると報じられていた[3]。
1997年には傘下のAAA級球団であるインターナショナルリーグ (IL) のノーフォーク・タイズで129試合に出場、打率.318、31本塁打、100打点、OPS 1.035という成績を残し[10]、ILのリーグMVPに選出された[11]。
同年オフには当時のメッツ監督で、NPBの千葉ロッテマリーンズでも監督を務めた経験を有するボビー・バレンタインがNPBのオリックス・ブルーウェーブに対し、オリックスの野村貴仁をペタジーニとの交換トレードで獲得したいという旨の打診をする[12]。オリックスは当時、トロイ・ニールに代わる新外国人選手獲得を目指し、かねてから新外国人候補としてペタジーニをリストアップしていたところであり、野村に興味を示したメッツからこのトレードを持ちかけられた[6]。オリックス監督の仰木彬はペタジーニに興味を示し、新井宏昌・小林晋哉の両コーチも獲得に賛意を示したが[12]、同球団フロントが獲得を見送ったため、ペタジーニのオリックス入団は実現しなかった[13]。一方で後にペタジーニが入団することになるヤクルトスワローズで編成部課長兼渉外担当を務めていた中島国章は、同年5月にメッツ傘下のAAA級球団でプレーしていたペタジーニを視察していた[14]。
レッズ時代
1998年2月5日にトレードでシンシナティ・レッズへ移籍。同年は傘下のAAA級球団であるILのインディアナポリス・インディアンズで102試合に出場し、打率.331、24本塁打、109打点を記録し、OPSも1.053を記録[10]。2年連続でAAA級のMVPを獲得した[15][16]。一方で8月にはメジャーに昇格、9月には2試合で四番打者を務め、3本塁打を記録した[7]。同年、メジャーでは34試合に出場したが[17]、打率.258、3本塁打、7打点の成績に終わった[11]。
同年までのMLB通算成績は193試合出場、307打数、69安打、13二塁打、1三塁打、10本塁打、43打点、55四球、88三振、1盗塁、打率.225である[15]。
ヤクルト時代
1998年9月、ヤクルトスワローズの渉外担当を務めていた中島は翌1999年シーズンの新外国人選手調査のため、サンディエゴ・パドレスを訪れていたが、現地の新聞『USA TODAY』で、ペタジーニの写真入りで「行き所のないレッズの4番」と書かれた記事を見つけ、翌日には急遽シンシナティへ行き、レッズに所属していたペタジーニと再会した[14]。ヤクルトは1998年のシーズン途中から、翌1999年シーズンの四番打者候補としてペタジーニをマークしていた一方、ペタジーニは当時、翌シーズンのメジャーでの活躍を期待されていたため、レッズ側はトレードに難色を示していたが、本人は日本でプレーすることを希望、ヤクルトへ移籍することになったと報じられている[15]。中島はレッズの監督にペタジーニの譲渡を直談判し、当初は拒否されたものの、日本に帰国して球団社長にペタジーニのことを報告したところ、総額200万ドルまでなら獲得できるという言質を得たため、ペタジーニの代理人に会ったところ、トレードマネー60万ドル、年俸50万ドルで話がついたという[14]。
1999年1月4日、ペタジーニはマーク・スミス、ジェイソン・ハッカミーとともにヤクルトへ入団することが発表された[18]。背番号は9で、推定年俸約60万ドル(当時の為替レートで約6816万円)の1年契約だった[18]。ヤクルトは1998年オフに野村克也が監督を退任、新監督として若松勉が就任した一方、1998年シーズンにプレーした外国人野手であるドゥエイン・ホージーと前述のアンソニーの2人については解雇が決まっており[16]、彼らと入れ替わる形でペタジーニ[11]、そしてスミスの2人をそれぞれ新外国人打者として獲得した[19]。また同年オフのヤクルトはペタジーニやスミス以外にも、外国人野手候補としてタイロン・ウッズ[20]、トッド・ハンドリーの獲得を検討していたが[7]、ウッズは当時所属していた斗山ベアーズとの交渉の末に残留が決まり[21]、ハンドリーも年俸が5億円超になると見られていたことから、ヤクルトはハンドリーの獲得を断念、ペタジーニの獲得に切り替えたと報じられている[7]。同シーズンのヤクルトは狭い明治神宮野球場を本拠地にしながら、総本塁打数がセントラル・リーグ6球団でワースト2位の97本に終わっており、これがセ・リーグ4位に低迷した一因になったと評されていたため、左打者のペタジーニと右打者のスミスがそれぞれ大砲候補として期待を受けていた[16]。
1999年のユマ春季キャンプでは合流直後、調整不足から打球が飛ばず、若松から「下半身ができていない。それにしてもアベレージヒッターだな」「ホージーに比べれば、打撃ケージの外に飛んだだけマシだよ」と評されていたが[22]、紅白戦初打席で420フィート(約128 m)の中堅フェンスを大きく越える推定飛距離140 mの本塁打を放つなどして、首脳陣の評価を上げていく[23]。オープン戦では開幕から9試合連続で安打を放ち、その間の成績は23打数14安打、打率.609、1本塁打、12打点とオープン戦首位打者を記録していた[24]。当時、チームの打線が破壊力を欠いていたことから、シーズン開幕戦から四番打者を任された[25]。4月2日に開催された横浜ベイスターズとの開幕戦(横浜スタジアム)では四番打者・一塁手として先発出場し、8回表に横山道哉からNPB初本塁打となる推定飛距離130 mの場外2点本塁打を放ち、5打数3安打3打点の活躍で、同じく本塁打を放った六番打者のスミス、決勝打点を挙げた七番打者の高橋智と共にチームの勝利に貢献した[26]。なお、セ・リーグ開幕戦で外国人選手がアベック本塁打を記録した事例は、1970年の中日(ジョン・ミラー、バビー)、1980年の広島東洋カープ(ジム・ライトル、マイク・デュプリー)に次いで史上3度目で、ともに新外国人であった事例は1970年の中日以来、セントラル・リーグでは2度目のことであった[26]。4月26日時点ではスミスや高橋由伸とともにセ・リーグトップの7本塁打を記録しており、またペタジーニやスミスの活躍が、高橋や池山隆寛らにも好影響を与え、同日時点でチームはセ・リーグトップの25本塁打を記録していた[27]。同月終了時点ではセ・リーグトップの9本塁打を記録していた一方[28]、打率は.227で[29]、セ・リーグ打撃成績ランキング(上位34人)の圏外だった[28]。しかし5月以降は打率面でも成績が向上し、5月終了時点では当時のチームの消化した全試合数である43試合に出場、打率はセ・リーグの規定打席到達者34人の中で29位となる.260を記録、本塁打は高橋由伸と並んでリーグトップの16、打点は28を記録していた[30]。6月終了時点では打率.281(規定打席到達者34人中25位)、本塁打は松井秀喜の23本塁打、ロバート・ローズの21本塁打に次ぎ、レオ・ゴメスや高橋と並ぶセ・リーグ3位の20本塁打、そして出塁率はローズの.438や石井琢朗の.421に次ぐリーグ3位の.420を記録していた[31]。シーズン前半戦が終了した7月22日時点で打率.324、26本塁打、59打点を記録しており、本塁打は松井の28本塁打、ゴメスとローズの各27本塁打に次ぐセ・リーグ3位だった[32]。怪我をして出場辞退となった清原和博(巨人)に代わり、補充選手としてオールスターゲームにも選出された。後半戦開始後の7月31日に開催された対中日18回戦(ナゴヤドーム)で、先発投手の武田一浩から5回表に27号3点本塁打、中山裕章から9回表に28号2点本塁打を放ち、本塁打数で松井や高橋由伸(巨人)と並んでリーグトップに立つ[33]。最終的に松井やローズとの激しい本塁打王争いを演じ、最終的には44本塁打で本塁打王、出塁率.469で最高出塁率のタイトルをそれぞれ獲得。長打力も発揮し長打率.677はリーグ最高記録だった。また、NPBでは史上初となる来日1年目での打率3割・40本塁打以上を記録した。同年オフには前年比9000万円増額となる年俸1億5000万円、出来高払い5000万円という契約条件で、ヤクルトと翌2000年シーズンの契約を締結したと報じられていたが[34]、実際には年俸150万ドル(約1億6100万円)とも報じられている[35]。
2000年は全試合出場を果たし、セ・リーグ2位の36本塁打を放った。同年オフには前年比50万ドル(約5300万円)増額となる年俸200万ドル(約2億1400万円)+出来高払いという契約条件で、ヤクルトと翌2001年シーズンの選手契約を締結した[35]。
2001年、2度目の本塁打王と初の打点王を獲得し[14]、チームのリーグ優勝・日本一に大きく貢献した。同年まで3年連続でセ・リーグのベストナインに選出され、また同年にはセ・リーグ最優秀選手 (MVP) に選出されたが、『産経新聞』編集委員の近藤義之は、仮にペタジーニがヤクルトに入団していなければ、ヤクルトは当時3年連続でセ・リーグ最下位に低迷していた阪神タイガースと最下位争いをしていても不思議ではなかったと評している[14]。同年オフにはヤクルト球団が意思表示をする期限としていた11月15日までにヤクルトとの契約交渉がまとまらなければ「神のお告げがあれば巨人にでも行く」などと移籍をにおわすような発言をしていたが[36]、中島が渡米してペタジーニの代理人と交渉を重ね[37]、最終的には前年比2億3000万円増額となる4億5000万円+出来高払いという条件で、ヤクルトと翌2002年シーズンの選手契約を締結した[38]。
2002年、中盤は松井と本塁打争いをしていたが、8月に入り巨人が独走状態で余裕が生まれたことから松井も本塁打狙いで快進撃を始め、2年連続での本塁打王は果たせなかったが、41本塁打を放った。しかし、慢性化しつつあった膝痛、高年俸などの理由により契約延長を見送られ、同年11月11日ヤクルトを退団。この退団の遠因には、ペタジーニが死球を受けても味方投手陣が報復してくれなかったことへの不満もあったという報道もある[39][40]。
巨人時代
阪神との争奪戦の末2002年11月19日に巨人入りが正式に決定。ペタジーニに提示された額は阪神が2年20億円に対し、巨人が2年30億円とも言われた[41]。推定年俸7億2000万[42]で契約し、NPB球界最高年俸(当時)助っ人と呼ばれた[43](なお、この記録は同じ巨人の菅野智之が2021年1月14日に年俸8億円で契約更改したことで更新された[44])。2003年は一塁手には清原和博がいたため主に外野手として起用された。しかし、中日ドラゴンズとの開幕戦の右翼守備でバックホームの際に捕手の頭を大きく超える大暴投をしたのを皮切りにファールフライを捕球できなかったり、スライディングキャッチを試みて落球するなど外野守備には難があった。5月13日に左膝故障で登録抹消され6月23日には一軍に再登録された。その後も打撃好調で9月13日の古巣・対ヤクルト戦で史上11人目となる5年連続30本塁打を記録し、翌日14日にはプロ野球通算8万号本塁打を記録。終盤の10月4日に膝痛で登録抹消されるとそのままシーズンを終えた。打率.323、34本塁打、81打点の成績を残すなどシーズン通じて打撃は好調だったが1か月以上の故障離脱が響き100試合の出場に留まり来日して初めて規定打席にも到達しなかった。なお、同年の出塁率は、規定打席に20打席不足して出塁率.457であり、不足分を凡打と仮定して加算しても出塁率.436で、規定打席到達者1位(福留孝介の.401)を上回っていた。現在は、公認野球規則10・22(a)に照らして最高出塁率となるが、当時は同規則は打率と長打率のみ適用だったため、福留が最高出塁率として表彰された。
2004年はこの年から監督を務める堀内恒夫の構想により清原と一塁手で併用される。持病の膝痛も悪化した影響もあり、117試合の出場で打率.290、29本塁打、84打点と日本では自己最低の成績に終わると同時に3割と30本の連続記録も途絶える。だが、清原の故障による長期離脱で2年ぶりに規定打席に到達した。オフに堀内の構想で清原が一度は翌年の戦力構想から外れていたが、契約期間が1年残っていたことで清原は編成権はフロントと監督どちらにあるのか確認し、球団に翌年の残留を直談判、最終的に清原は翌2005年シーズンも残留することが決まった。一方で巨人は同年オフ、ペタジーニに同シーズンの年俸7億2000万円から大幅減額となる年俸3億円で翌2005年シーズンの契約を結ぶことを提示したが、ペタジーニの代理人であるピーター・グリーンバーグからは契約期限となる同年11月9日までに残留の返答がなく[45]、退団が決まり[46]、同年12月2日付でNPBコミッショナー事務局から自由契約選手として公示された[47]。同年オフには阪神タイガースや新規参入球団の東北楽天ゴールデンイーグルスがペタジーニの獲得に乗り出す可能性があると報じられ[45]、特に楽天がペタジーニに関心を示していたが[48][49]、入団することはなかった。
レッドソックス時代
2005年は開幕からメジャーリーグのボストン・レッドソックス傘下の3Aポータケットでプレーし、同年8月にメジャーに復帰。8月5日の対カンザスシティ・ロイヤルズ戦では『4番・一塁手』で先発出場した。
2006年2月6日に解雇された。
マリナーズ時代
2006年2月22日に招待選手を経てシアトル・マリナーズとマイナー契約。8月17日に解雇され、現役引退した。
メキシカンリーグ時代
韓国時代
2008年5月12日に、不振により退団したジェイミー・ブラウンの代役として韓国・LGツインズと契約し、4番打者として活躍。
2009年もLGツインズで主軸として活躍し、3打席連続本塁打(3本目はサヨナラ満塁)を打つ等、LG史上初となるシーズン100打点を記録した選手となった。だが膝に故障を抱えており年齢的な問題に加え、本人が高額年俸を要求してきたことや、投手不足のチーム事情もあり、2009年限りで退団となった。
ソフトバンク時代
2010年4月15日、福岡ソフトバンクホークスへの入団が発表された[50]。背番号は16。日本プロ野球に6年ぶりに復帰することとなり、パ・リーグのチームのユニフォームに初めて袖を通すこととなった。2010年6月9日の対横浜ベイスターズ戦で日本球界復帰後初本塁打をサヨナラ本塁打で飾った。同時に交流戦で打った初めての本塁打となった。サヨナラ本塁打はヤクルト時代の2001年8月以来、5本目。7月21日の対埼玉西武ライオンズ戦でも自身6度目のサヨナラ2ラン本塁打を打った。このサヨナラ本塁打は球団通算100本目(2リーグ制以降)のサヨナラ本塁打であった。6番指名打者に定着し、ホセ・オーティズ、多村仁志に次ぐOPS.772を記録しリーグ優勝に貢献した。
本人は翌シーズンの残留を希望していたが、81試合出場で打率2割6分1厘、10本塁打と全盛期のころと比べ力の衰えを露呈してしまうことになり、11月14日にソフトバンクは来季の契約を結ばないことを発表[51]。その後再び現役を引退した。
選手としての特徴
ヤクルト入団前は一塁手や右翼手としてMLBやマイナー球団でプレーしていた[14]。ヤクルト入団時は打撃について、長打力に加え、左右に万遍なく打ち分けられるシュアな打撃技術を有することも高く評価されていた[16]。MLB関係者によれば、ペタジーニは配球に応じて打ち分けることができ、「彼は2度、同じコースで打ち取られることのない男」だったという[6]。また、守備面では一塁手と外野手を守れるオールラウンドプレーヤーであり[16]、一塁の守備についても定評があると評されていた[6]。『サンケイスポーツ』専属評論家の伊東一雄は、メジャーリーグより広いことが多いマイナーリーグの球場で31本塁打を記録した長打力を高く評価していた一方、日本の投手の変化球に適応できるかが課題であると評していた[16]。走力についても評価は低くはなく、三拍子揃った万能タイプの選手と評され、新監督の若松が目指していた「スピード&パワー」という野球像に合致していると評されていた[16]。
ヤクルト入団時の球団渉外担当だった中島国章が1997年5月にペタジーニの打撃を視察した際は、体がゴボウのように細く、アッパースイングで振りも大きかったため「失望した」というが、1998年9月に再会した際には体つきが逞しく変わり、スイングも鋭いレベルスイングになっており、それが獲得を決意するきっかけになったという[14]。一方で1998年限りでヤクルト監督を退任し、1999年から阪神の監督を務めた野村克也は、中島に会う度に「何でオレ(が監督)のときにペタを連れてこんかったんじゃ」と、中島に対し冗談交じりに絡んでいたという[14]。
人物
25歳年上の妻オルガはペタジーニの友人の母で、小学校の時に友人宅に遊びに行った時に出会い、その後、愛を貫いて結婚に至った[52]。夫人とは2021年現在も結婚生活を続けている[53]。
ヤクルト時代の応援歌は、トーマス・オマリーの応援歌のメロディーを流用したものである。
詳細情報
年度別打撃成績
| 年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1994 | HOU | 8 | 8 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | .000 | .125 | .000 | .125 |
| 1995 | SD | 89 | 152 | 124 | 15 | 29 | 8 | 0 | 3 | 46 | 17 | 0 | 0 | 2 | 0 | 26 | 2 | 0 | 41 | 2 | .234 | .367 | .371 | .738 |
| 1996 | NYM | 50 | 113 | 99 | 10 | 23 | 3 | 0 | 4 | 38 | 17 | 0 | 2 | 1 | 1 | 9 | 1 | 3 | 27 | 4 | .232 | .313 | .384 | .696 |
| 1997 | 12 | 18 | 15 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 6 | 0 | .067 | .222 | .067 | .289 | |
| 1998 | CIN | 34 | 79 | 62 | 14 | 16 | 2 | 1 | 3 | 29 | 7 | 1 | 0 | 0 | 1 | 16 | 0 | 0 | 11 | 2 | .258 | .405 | .468 | .873 |
| 1999 | ヤクルト | 134 | 576 | 452 | 97 | 147 | 23 | 2 | 44 | 306 | 112 | 10 | 1 | 0 | 1 | 116 | 6 | 7 | 91 | 13 | .325 | .469 | .677 | 1.146 |
| 2000 | 136 | 588 | 484 | 91 | 153 | 30 | 0 | 36 | 291 | 96 | 7 | 2 | 0 | 3 | 97 | 7 | 4 | 116 | 7 | .316 | .432 | .601 | 1.033 | |
| 2001 | 138 | 592 | 463 | 93 | 149 | 27 | 0 | 39 | 293 | 127 | 4 | 1 | 0 | 2 | 120 | 13 | 7 | 89 | 11 | .322 | .466 | .633 | 1.099 | |
| 2002 | 131 | 552 | 453 | 90 | 146 | 23 | 1 | 41 | 294 | 94 | 0 | 1 | 0 | 3 | 85 | 9 | 11 | 106 | 6 | .322 | .438 | .649 | 1.087 | |
| 2003 | 巨人 | 100 | 414 | 331 | 70 | 107 | 17 | 0 | 34 | 226 | 81 | 1 | 0 | 0 | 1 | 77 | 9 | 5 | 72 | 8 | .323 | .457* | .683* | 1.139* |
| 2004 | 117 | 467 | 383 | 70 | 111 | 17 | 0 | 29 | 215 | 84 | 2 | 1 | 0 | 4 | 75 | 5 | 5 | 76 | 14 | .290 | .409 | .561 | .970 | |
| 2005 | BOS | 18 | 36 | 32 | 4 | 9 | 2 | 0 | 1 | 14 | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 5 | 3 | .281 | .361 | .438 | .799 |
| 2006 | SEA | 31 | 32 | 27 | 3 | 5 | 2 | 0 | 1 | 10 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 1 | 10 | 0 | .185 | .313 | .370 | .683 |
| 2008 | LG | 68 | 259 | 216 | 29 | 75 | 17 | 1 | 7 | 115 | 35 | 1 | 0 | 0 | 1 | 40 | 1 | 2 | 26 | 5 | .347 | .452 | .532 | .984 |
| 2009 | 115 | 498 | 388 | 62 | 129 | 16 | 0 | 26 | 223 | 100 | 2 | 0 | 0 | 6 | 97 | 9 | 7 | 70 | 7 | .332 | .468 | .575 | 1.043 | |
| 2010 | ソフトバンク | 81 | 307 | 264 | 34 | 69 | 12 | 0 | 10 | 111 | 41 | 0 | 0 | 0 | 4 | 39 | 2 | 0 | 72 | 12 | .261 | .352 | .420 | .772 |
| MLB:7年 | 242 | 438 | 366 | 48 | 83 | 17 | 1 | 12 | 138 | 54 | 1 | 2 | 3 | 2 | 63 | 3 | 4 | 103 | 11 | .227 | .345 | .377 | .722 | |
| NPB:7年 | 837 | 3496 | 2830 | 545 | 882 | 149 | 3 | 233 | 1736 | 635 | 24 | 6 | 0 | 18 | 609 | 51 | 39 | 622 | 71 | .312 | .438 | .613 | 1.051 | |
| KBO:2年 | 183 | 757 | 604 | 91 | 204 | 33 | 1 | 33 | 338 | 135 | 3 | 0 | 0 | 7 | 137 | 10 | 9 | 96 | 12 | .338 | .462 | .560 | 1.022 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 2003年は規定打席に20打席不足していたが、20打席分を凡打と仮定しても、出塁率・長打率・OPSはそれぞれ.436・.644・1.079となり、いずれもリーグ規定打席到達者1位を上回る。
タイトル
- NPB
表彰
- NPB
- 最優秀選手:1回 (2001年)
- ベストナイン(一塁手部門):4回 (1999年 - 2002年)
- ゴールデングラブ賞(一塁手部門):3回 (2000年 - 2002年)
- オールスターゲームMVP:2回 (2000年 第1戦、2001年 第2戦)
- 月間MVP:3回 (1999年7月、2001年4月、2001年5月)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回 (2001年)
- 優秀JCB・MEP賞:1回 (1999年)
- MiLB
- インターナショナルリーグMVP:2回(1997年、1998年)
記録
- NPB
- 初出場・初先発出場:1999年4月2日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、4番・一塁手として先発出場
- 初打席:同上、2回表に三浦大輔の前に空振り三振
- 初安打:同上、7回表に三浦大輔から左前安打
- 初本塁打・初打点:同上、8回表に横山道哉から右越2ラン
- 初盗塁:1999年5月16日、対広島東洋カープ6回戦(長崎ビッグNスタジアム)、7回裏に二盗(投手:小林敦司、捕手:瀬戸輝信)
- 100本塁打:2001年6月28日、対横浜ベイスターズ14回戦(明治神宮野球場)、3回裏にマーク・ホージマーから右越2ラン ※史上213人目
- 150本塁打:2002年8月15日、対読売ジャイアンツ22回戦(東京ドーム)、1回表に入来祐作から右越先制2ラン ※史上122人目
- 200本塁打:2004年5月8日、対広島東洋カープ7回戦(広島市民球場)、1回表に河内貴哉から中越3ラン ※史上79人目
- オールスターゲーム出場:3回 (1999年 - 2001年)
背番号
- 29 (1994年、2008年 - 2009年)
- 24 (1995年)
- 20 (1996年)
- 10 (1997年)
- 57 (1998年)
- 9 (1999年 - 2002年)
- 13 (2003年 - 2005年)
- 23 (2006年)
- 16 (2010年)
参考文献
- 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。 p.78~79 (上原浩治#関連書籍(1999年)に際して、上原を励ます意味で、そんなことで涙を流すなという趣旨のコメントをしている。)
脚注
- ↑ 『デイリースポーツ』2018年9月25日付24頁「<デイリー 何でも50選>平成に来日したプロ野球外国人選手(21)ペタジーニ(内)」(神戸新聞社)
- ↑ 『スポーツ報知』2010年4月16日付4頁「ソフトバンクがロベルト・ペタジーニとの契約合意 6年ぶり日本球界に復帰」(報知新聞東京本社)
- 1 2 3 4 『デイリースポーツ』1996年12月3日付第12版3頁「新外国人〝4大砲〟に絞った…緊急対策会議招集 きょうビデオで検討 吉田阪神 走攻守揃ったスウィニー筆頭 4億円助っ人狙う」(神戸新聞社)
- ↑ 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、第49巻第17号(通巻:第2052号)、1994年4月23日、84頁「ヒューストン・アストロズ1994年度メンバー」NDLJP:7909869/43。 - 1994年4月23日増刊号「1994大リーグ総ガイド」。
- ↑ 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、第52巻第16号(通巻:第2228号)、1997年4月16日、98頁「ニューヨーク・メッツ」NDLJP:7910044/55。 - 1997年4月16日増刊号「1997大リーグ総ガイド」。
- 1 2 3 4 『日刊スポーツ』1997年11月12日付6頁「オリックス 野村貴仁と大リーグ、メッツのペットギーニが交換トレードへ」(日刊スポーツ新聞社)
- 1 2 3 4 『スポーツニッポン』1998年11月10日付第11版B 2頁「ヤクルト レッズ四番獲得へ パタジーニ外野手」(スポーツニッポン新聞東京本社)
- ↑ 楽天復帰の田中、日本球界最高年俸選手に 背番号は「18」 毎日新聞 2021年1月28日
- ↑ 『デイリースポーツ』1996年12月4日付第12版3頁「「阪神新大砲」この2人に絞った アンソニーとロバーソン」(神戸新聞社)
- 1 2 “Roberto Petagine Minor, Japanese, Mexican & Korean Leagues Statistics & History” (英語). Baseball-Reference.com. Sports Reference. 2022年5月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月29日閲覧。
- 1 2 3 『中日スポーツ』1998年11月10日朝刊第5版2頁「新外国人獲得ヤ」(中日新聞社)
- 1 2 「幻に終わったペタジーニのオリックス入り 仰木監督に届いた“交換オファー”」『Full-Count』株式会社Creative2、2022年5月28日、2頁。オリジナルの2022年5月29日時点におけるアーカイブ。2022年5月29日閲覧。
- ↑ 「幻に終わったペタジーニのオリックス入り 仰木監督に届いた“交換オファー”」『Full-Count』株式会社Creative2、2022年5月28日、3頁。オリジナルの2022年5月29日時点におけるアーカイブ。2022年5月29日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 『産経新聞』2001年12月14日東京朝刊運動1面「【思うまま】近藤義之 心を通わせ、非情に」(産経新聞東京本社 編集委員 近藤義之)
- 1 2 3 『スポーツ報知』1998年11月10日付第9版4頁「ヤクルト新外国人ペタジーニ外野手 3Aで96年、97年MVPの27歳 4番は任せた 変化球も打てる左打ち 日本向き選手」(報知新聞社)
- 1 2 3 4 5 6 7 『サンケイスポーツ』1998年11月10日付第7版28頁「若松ヤクルト来季の4番任せた 40発級 左の大砲獲得へ レッズの27歳・ペタジーニ IDに加え…新生チームのテーマ「スピード&パワー」にピッタリ」「伊東一雄 メジャーより広いマイナー球場でアーチ連発 長打力は文句なし 課題は変化球」(産業経済新聞社)
- ↑ “Roberto Petagine Stats” (英語). Baseball-Reference.com. Sports Reference. 2022年5月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月29日閲覧。
- 1 2 『中日スポーツ』1999年1月5日朝刊第5版2頁「新外国人三選手発表」(中日新聞社)
- ↑ 『中日スポーツ』1998年11月24日朝刊第5版2頁「ヤクルト新外国人米大パイレーツ スミス外野手を獲得」(中日新聞社)
- ↑ 『日刊スポーツ』1998年11月2日付2頁「ヤクルト 韓国本塁打王テスト 42発ウッツ」(日刊スポーツ新聞社)
- ↑ 『日刊スポーツ』1998年11月19日付4頁「残留」(日刊スポーツ新聞社 ソウル=趙海衍通信員)
- ↑ 『日刊スポーツ』1999年2月3日付3頁「【ユマ(米アリゾナ州)1日(日本時間2日)=中島正好】ヤクルト ユマキャンプ 新外国人2選手が1軍に合流も、パンチ力不足を露呈」(日刊スポーツ新聞東京本社)
- ↑ 『日刊スポーツ』1999年2月16日付2頁「【ユマ(米アリゾナ州)14日(日本時間15日)=中島正好】ヤクルト ユマキャンプ 新外国人ペタジーニ 紅白戦初打席で140M特大弾」(日刊スポーツ新聞東京本社)
- ↑ 『日刊スポーツ』1999年3月16日付3頁「オープン戦 ヤクルト―近鉄(2)ペタジーニ、先制2点打 愛の力で打率6割」(日刊スポーツ新聞東京本社【井上真】)
- ↑ 『中国新聞』1999年3月21日朝刊20頁「12球団 実力チェック<6>ヤクルト 打線補う厚い投手陣」(中国新聞社)
- 1 2 『日刊スポーツ』1999年4月3日付4頁「横浜―ヤクルト(1)」(日刊スポーツ新聞東京本社)
- ↑ 『日本経済新聞』1999年4月27日東京朝刊37頁「一発の魅力存分に、プロ野球、新外国人選手活躍。」(日本経済新聞東京本社)
- 1 2 『中日スポーツ』1999年5月1日付第5版4頁「プロ野球記録室(30日現在)」(中日新聞社)
- ↑ 『中日スポーツ』1999年5月1日付第5版2頁「4 横浜9-3ヤクルト 横浜 1勝3敗」(中日新聞社)
- ↑ 『中日スポーツ』1999年6月1日付第5版4頁「プロ野球記録室(31日現在)」(中日新聞社)
- ↑ 『中日スポーツ』1999年7月1日付第5版4頁「プロ野球記録室(30日現在)」(中日新聞社)
- ↑ 『中日新聞』1999年7月23日朝刊第12版27頁「<本塁打成績>セ・リーグ」(中日新聞社) - 縮刷版1013頁。
- ↑ 『中日新聞』1999年8月1日朝刊第12版29頁「竜 反攻届かず 2発7打点…ペタジーニにやられた! ヤクルト8-4中日」(中日新聞社) - 縮刷版29頁。
- ↑ 『産経新聞』1999年12月7日東京朝刊運動1面「プロ野球契約更改 1年契約1億5千万 ペタジーニ契約合意」(産経新聞東京本社)
- 1 2 『産経新聞』2000年11月15日東京朝刊運動1面「【球団短信】14日 ヤクルト」(産経新聞東京本社)
- ↑ 『中日スポーツ』2001年11月2日付第5版4頁「ペタジーニ 残留交渉難航 「神のお告げがあれば巨人にでも行く」」(中日新聞社)
- ↑ 『産経新聞』2001年11月16日東京朝刊運動2面「ペタジーニ内野手残留 ヤクルト」(産経新聞東京本社)
- ↑ 『産経新聞』2001年11月16日大阪朝刊運動2面「【プロ野球】ペタジーニの残留決定」(産経新聞大阪本社)
- ↑ 「【9月1日】2002年(平14) なぜ報復しない!ペタジーニ怒りの職場放棄」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2010年9月1日。オリジナルの2019年3月21日時点におけるアーカイブ。
- ↑ 元ヤクルト通訳が選ぶ「記憶に残る助っ人ベスト5」。問題児、超愛妻家、日本記録保持者の名前がずらり (2ページ目) | web Sportiva (スポルティーバ)
- ↑ “ペタジーニの阪神移籍「なぜ消えた?」巨人と熾烈な争奪戦「巨人関係者がベネズエラにいます」「…もう帰って来い」阪神元編成部長が明かす“ウラ側””. Number Web. 文藝春秋 (2025年7月13日). 2025年7月14日閲覧。
- ↑ “助っ人最高はペタジーニ7.2億円 米国ではド軍カーショー40億円超”. www.sponichi.co.jp. 2019年7月10日閲覧。
- ↑ “ペタジーニ氏 球界最高年俸“助っ人”の今…25歳年上妻を裏切った?不倫疑惑を直撃!”. www.sponichi.co.jp (2019年7月7日). 2019年7月7日閲覧。
- ↑ 巨人菅野8億円で更改 ペタジーニ超え史上最高俸
- 1 2 「ペタジーニ退団 契約更新期限切れ」『スポーツ報知』報知新聞社、2004年11月10日。オリジナルの2004年12月5日時点におけるアーカイブ。
- ↑ 「ペタジーニ正式退団」『スポーツ報知』報知新聞社、2004年11月30日。オリジナルの2004年12月5日時点におけるアーカイブ。
- ↑ 「2004年度公示 > 自由契約選手」『NPB.jp』日本野球機構、2004年12月2日。2025年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年5月11日閲覧。
- ↑ 伊吹政高「楽天10億円クレメンス獲り!4番・ペタジーニも狙う」『SANSPO.COM』産業経済新聞社、2004年11月11日。オリジナルの2004年11月12日時点におけるアーカイブ。
- ↑ 『産経新聞』2004年11月19日東京朝刊運動1面「【思うまま】近藤義之 身近で手っ取り早く」(産経新聞東京本社)
- ↑ ロベルト ペタジーニ選手 入団のお知らせ
- ↑ “R・ペタジーニ選手の退団について”. 福岡ソフトバンクホークス (2010年11月4日). 2014年1月9日閲覧。
- ↑ 池内ひろ美. “なぜ年上女性は年下男性にモテるのか?「年上妻」夫婦が最高に素敵&幸せである理由”. ビジネスジャーナル. サイゾー. 2019年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年4月12日閲覧。
- ↑ 元巨人・ペタジーニ氏 73歳のオルガ夫人とラブラブキス披露 - デイリースポーツ(2019年7月7日)
関連項目
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 個人年度別成績 ロベルト・ペタジーニ - NPB.jp 日本野球機構