開高健

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開高 健
(かいこう たけし)
扶桑社『週刊サンケイ』2月16日号(1958)より
生誕 1930年12月30日
日本の旗 日本・大阪市天王寺区
死没 (1989-12-09) 1989年12月9日(58歳没)
日本の旗 日本・東京都港区三田(東京都済生会中央病院)[1]
墓地 円覚寺
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 学士(法学)
最終学歴 大阪市立大学法文学部
活動期間 1957年 - 1989年
ジャンル 小説・随筆
代表作 『裸の王様』(1957年)
『日本三文オペラ』(1959年)
『輝ける闇』(1968年)
『夏の闇』(1972年)
『破れた繭』(1986年)
『夜と陽炎』(1986年)
主な受賞歴 芥川龍之介賞(1958年)
毎日出版文化賞(1968年)
川端康成文学賞(1979年)
菊池寛賞(1981年)
日本文学大賞(1987年)
デビュー作 『パニック』(1957年)
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開高 健(かいこう たけし、かいこう けん[2]、1930年〈昭和5年〉12月30日 - 1989年〈平成元年〉12月9日)は、日本の小説家。組織と人間の問題を扱った『パニック』『裸の王様』や、ベトナム戦争取材の体験をもとにした『輝ける闇』などがある。また趣味の釣りについて世界各地での体験を綴ったエッセイ『フィッシュ・オン』『オーパ!』などでも知られる。

生涯

生い立ち

大阪市天王寺区で父・正義、母・文子との間に長男として生まれる。7歳の時に住吉区北田辺(現・東住吉区)へ転居。子供時代は、紙芝居と本が好きで、江戸川乱歩、山中峯太郎、海野十三などを読んでいた[3]。1943年4月に旧制天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)へ入学、文芸部に入部[4]。勤労動員の合間に内外の文学作品を乱読した。5月、国民学校教頭であった父が死去[4]。

1948年、旧制大阪高等学校文科甲類(英語)に入学[4]、学制改革により1年で旧制高校を修了し、大阪市立大学法文学部法学科(現・法学部)に入学した。リルケ『マルテの手記』や、サルトル『嘔吐』を読み衝撃を受け、『嘔吐』はその後も繰り返し愛読し[5]、戦後の作家では大岡昇平や武田泰淳をよく読んだ。当時の文学論の仲間に高原慶一朗がおり、1950年、谷沢永一主宰の同人誌『えんぴつ』に参加[4]。1951年に処女長編小説『あかでみあ めらんこりあ』を私家版として発行[6]。またパン焼き工や旋盤見習い工として町工場を転々とした[7]。

1952年年7月13日、同人仲間だった詩人牧羊子との間に長女開高道子が誕生。1953年2月、大学在学中に洋書輸入商の北尾書店に入社。1953年3月12日、牧羊子との婚姻を届出[4]。1953年12月、大阪市立大学卒業[4]。

作家活動

1954年(昭和29年)2月22日、洋酒会社壽屋(現・サントリー)社員だった羊子が育児のため退社するのに伴い、その後任として壽屋宣伝部で働き始めた。1956年(昭和31年)には東京支店に転勤となり、杉並区向町の社宅に転居する[4]。文案家(コピーライター)として働き、PR誌『洋酒天国』の編集やウイスキーのキャッチコピー(トリスウイスキーの「人間らしくやりたいナ」が有名)を手がける。『洋酒天国』は開高の編集した4年間で発行部数が1万部から13万部になった[8]また1954年から「円の破れ目」などの習作を『近代文学』誌に発表。自然主義、心理主義、アナキズムといった潮流に限界を感じ始め、1957年に「シチュエーションの文学」を意図して、野ネズミの大発生を題材にした「パニック」を執筆、佐々木基一の計らいで『新日本文学』に発表され商業誌デビュー、寓話作家とも呼ばれた[9]。続いて伊藤整に始まる「組織と人間」論のモデル作品とも見られる「巨人と玩具」「裸の王様」を発表[10]、「裸の王様」で1958年芥川賞を受賞。これを機に壽屋を退職し(1963年まで嘱託契約)、執筆業に専念する。

遅筆で知られ、受賞後第一作となる「文學界」から依頼された原稿を、締め切り間近になっても上げることができなかった。開高は先に講談社『群像』に出していた原稿を持ち帰り「文學界」に提出してその場を凌いだが、編集長の大久保房男が激怒し絶縁状態になり、16年間講談社から干されてしまう[11]。大阪の軍需工場跡から鉄屑を持ち出す”泥棒部落”、”アパッチ族”とも呼ばれた集落を取材し、『日本三文オペラ』を発表。

1960年5月30日、中国訪問日本文学代表団(野間宏団長)の一員として亀井勝一郎、大江健三郎らとともに訪中し、毛沢東、周恩来らと会見した。随筆『地球はグラスのふちを回る』では当時の大江とのエピソードが記されている。帰国後またヨーロッパを訪問し、大江健三郎とともにパリでサルトルと面会。

1961年5月12日、徳島ラジオ商殺し事件を題材にした小説『片隅の迷路』を毎日新聞で連載開始(同年11月27日まで)。翌62年2月に単行本を刊行[12]。

ベトナム戦争とベ平連

『週刊朝日』1963年10月4日号からルポルタージュ「ずばり東京」の連載を開始[12]。連載の最終回が見えて来た1964年夏、同誌編集長は「お陰様で『ずばり東京』は大好評でした。今度は世界中どこでも結構です、旅に出て好きなことを書いて下さい」と提案した。開高は「ほな、ベトナムや」と答えた[13][14]。同年10月24日、連載ルポのため東京オリンピックの閉会式を取材。11月6日号に「ずばり東京」の最終回が掲載される[12]。同年11月中旬、朝日新聞社臨時特派員として、同社のカメラマンの秋元啓一とともに戦時下のベトナムへ出発した[12]。サイゴンのマジェスティック・ホテルを拠点にベトナム共和国軍(南ベトナム軍)に従軍して最前線に出た際、反政府ゲリラの機銃掃射に遭うも生還。総勢200名のうち生き残ったのは17名であった。『朝日新聞』1965年2月16日付夕刊に、「行方不明が伝えられるも、死地を脱出、命からがら15日朝サイゴンに帰着した」との記事が掲載された[12]。

1965年2月24日に帰国[12]。同年3月、週刊朝日の連載に大幅な加筆をした『ベトナム戦記』を発表。同年5月、ベ平連の呼びかけ人に加わり、ニューヨーク・タイムズに戦争反対の広告掲載を提案、11月16日に掲載された[4]。しかしベ平連内の反米左派勢力に強く反発し脱退、過激化する左派とは距離を置くようになる[要出典]。その後は保守的な立場をとり、後に右派系文化人となる谷沢永一や向井敏などを世に出した。

1968年4月、ベトナム戦争取材の凄烈な体験をもとに執筆した長編小説『輝ける闇』を刊行。『夏の闇』[注 1]『花終わる闇(未完)』とともに3部作となる。

『フィッシュ・オン』

茅ヶ崎市開高健記念館(茅ヶ崎市東海岸南)

『週刊朝日』1970年1月2日号から釣りエッセイ「フィッシュ・オン!」の連載を開始(7月30日号まで)。写真は秋元啓一が担当した。1971年2月、連載をまとめた単行本『フィッシュ・オン』を刊行[12]。熱心な釣師として、日本のほかブラジルのアマゾン川など世界中に釣行し、様々な魚を釣り上げた。そのほか『オーパ!』など釣りをテーマにした作品も多い。現在では浸透している「キャッチ・アンド・リリース(釣った魚を河に戻す)」という思想を広めたのも開高だといわれている。また食通でもあり、食と酒に関するエッセイを多数執筆した。

1971年4月に行われた東京都知事選挙では、社会党・共産党推薦の美濃部亮吉を応援。選挙公報に記された支持者一覧に名を連ねた[15]。

1974年、東京都杉並区から神奈川県茅ヶ崎市東海岸南に移住した[16]。

1982年から『週刊プレイボーイ』の読者からの人生相談コーナー「風に訊け」を連載。この中で、開高健という名前について「一切名詞が入っていない珍しい名前で気に入っている」と綴り、開高健を「かいた、かけん=書いた?書けん!」と変読みした読者からの投稿を非常に気に入り、度々サインの際に引用していた。

1989年、食道癌の手術後、『珠玉』を脱稿するも東京都済生会中央病院に再入院、食道腫瘍に肺炎を併発し死去[1][17]。58歳没。墓所は鎌倉・円覚寺塔頭、松嶺院にある。死後、開高の業績を記念して、1992年から2001年までTBSブリタニカ(現阪急コミュニケーションズ)が開高健賞を、2003年から集英社がノンフィクションを対象に開高健ノンフィクション賞を創設した。2000年1月に羊子夫人が没し、その妹により16年間を過ごした邸宅が茅ヶ崎に寄贈され、2003年に開高健記念館が発足した。

受賞歴

作品

開高健記念館にある石碑「入ってきて人生と叫び 出ていって死と叫ぶ」

小説

『パニック』は、笹の開花と野ネズミの大量発生に関する新聞の科学記事を見て、関連資料を調べて執筆した。『パニック』では自然界の物理的エネルギー、『裸の王様』では個人を圧殺する組織のメカニズムに対して、それらに対抗できる人間の生命力を求めた作品となっている。平野謙が「『組織の中の人間』というかつての逃亡奴隷が思ってもみなかった運命にまず着目すること、それ以外に私どもの生き抜く道はあるまい」という発見を述べたのが1955年だったが、これは「開高健のような戦後世代には自明の前提だったのではないか」と佐々木基一は評している[10]。芥川賞受賞後のノイローゼを晴らすために大阪の旧陸軍砲兵工廠跡に取材に行き、知人に紹介された"泥棒部落"のある班の親玉というのが、妻の詩人仲間の金時鐘で驚いたが意気投合し、その経験をもとに『日本三文オペラ』を執筆[18]。ついで敗戦直後の北海道の開拓民を描く『ロビンソンの末裔』を書き、これら「敗戦前後の混沌無秩序の時代」を描くことで第一次戦後派に続く世代の作家((正嫡の息子」)とも見られる[19]。『片隅の迷路』では、徳島ラジオ商殺し事件を取り上げて小説化したが、新聞連載中にアイヒマン裁判が起きたためエルサレムに裁判の傍聴にも行った。

『ベトナム戦記』連載の後、東西に分裂した架空の国を舞台にした寓話の形の『渚から来るもの』を『朝日ジャーナル』で連載し、ルポルタージュ作家としてではなく、開高健が「人間にある闇を見なければならなかった作家」として「決定的に変化し、その作用的結果として書かれた作品」とも評されるが(中田耕治[20])、自身でこれを「惨敗」として、再度1年かけて書き下ろし、ハイデッガーが現代を表した言葉をタイトルにした『輝ける闇』を執筆した[21]。『輝ける闇』に三島由紀夫は「すべてを想像力で描いたのなら偉いが、現地に行って取材してから書くのでは、たいしたことではない」と評したが、秋山駿はこれを「旧世代の文学観」とし、「現実を見れば見るほど、凝視すればするほど、反って現実の形が解からなくなり、同時に、視ている自分という主体までが混乱し、解体し、訳の分からぬものになってくる」のであり、この作品がそういう認識の変貌を示す新世代の現代文学だと述べている[22]。『ニューヨーク・タイムズ』では『輝ける闇』について「ベトナム戦争の風景が、音が、においが、名手の手で初めて作品化された」「これほどいきいきしたベトナム報道を、私はみたことがない」と書かれ、『夏の闇』の英訳版について英米では安部公房とともに日本で最も重要な作家とも評された[23]。ベトナムにはその後1968年と1973年にも取材に行き、また中東戦争やビアフラ戦争に取材し、それらを題材にした短編は『歩く影たち』に収められている。

『新しい天体』は、「純粋に食べることの快楽を描くのみで長編小説を構築するという破天荒な試み」の「巧緻極まる独創的な文学作品」である「食味小説」といわれる(谷沢永一)[24])。

ノンフィクション

1963年から『週刊朝日』連載のルポルタージュ『日本人の遊び場』『ずばり東京』の評判が高かったため、『週刊朝日』はベトナム戦争の取材を依頼し、『ベトナム戦記』として連載した。『輝ける闇』執筆の頃から、運動不足解消のために少年時代以来の釣りを始め、日本各地を回るようになり、1968年のヨーロッパ訪問時にドイツ西部・ボンの釣具店主にルアーフィッシングの手ほどきを受けた[25]。

その後の戦争取材を含む海外取材先では釣りも計画に組み込み、カメラマン秋元啓一を同行し、アラスカでの鮭釣りからスウェーデンなどの北欧、ナイジェリア、中東、東南アジアなどを巡り、タイのライ島で桟橋から落ちた時に右足の甲を骨折して帰国、これらの釣りの経験をルポルタージュにして『フィッシュ・オン』として刊行。この『フィッシュ・オン』をサンパウロ大学教授・人文研究所長であった斉藤広志が読み、日本語学校講師をしていた醍醐麻沙夫を通じてアマゾン川での釣りを誘われ、『PLAYBOY 日本版』誌の企画として、カメラマン高橋曻を同行してツアーを敢行し、『オーパ!』として連載した。これらは釣りを通じて各土地における「自然を語り、人間を語るすぐれたレポート」(菊谷匡祐)となっている。『オーパ!』は2年間に10万部の売り上げを記録し、高橋曻はこれにより木村伊兵衛写真賞候補となった[23]。

その後『週刊朝日』で南北アメリカ大陸をアラスカからフエゴ島まで9ヶ月かけて縦断し、『もっと遠く!』『もっと広く!』の2冊として刊行。この時はサントリーの佐治敬三にスポンサーになってもらい、テレビCMにも出演した。このCMはアラスカ鉄道の線路で旗を振って列車を止める(フラッグ・ストップ)というもので、これを見て日本の若者たちがアンカレッジにおしかけて真似をしたため、アラスカ鉄道では一時時刻表を変更することになった。また『PLAYBOY 日本版』で、続編の釣り旅行『オーパ!』PARTⅡを連載し、のち『オーパ、オーパ!!』で刊行した。[26]

著作

著作の一部はデジタル化され、国立国会図書館デジタルコレクションなどで公開している。

小説

  • 『あかでみあ めらんこりあ』私家版 1951年7月 NCID BA86685074 / 角川書店 1981年1月 国立国会図書館書誌ID:000001491108 / 角川文庫 1984年3月 ISBN 4-04-124212-6
  • 『裸の王様』文藝春秋新社 1958年 000000976378 / 講談社 1971年 000001264342 / Kosaido blue books 1973年 000001291857
    • 文藝春秋新社版 収録作品
      • 「裸の王様」(『文學界』1957年12月)
      • 「パニック」(『新日本文学』1957年8月)
      • 「巨人と玩具」(『文學界』1957年10月)
      • 「なまけもの」
    • 『裸の王様・流亡記 他二篇』角川文庫 1960年 000001005617
  • 『屋根裏の独白』中央公論社 1959年 000000993583
    • 収録作品
      • 「二重壁」
      • 「一日の終りに」
      • 「流亡記」
      • 「屋根裏の独白」
  • 『日本三文オペラ』(『文學界』1959年1月 - 6月号) 文藝春秋新社 1959年 000000998325 / 角川文庫 1961年 000001017025 / 新潮文庫 1971年 000001313400
  • 『パニック』パトリア書店 1959年 000001001345
  • 『ロビンソンの末裔』中央公論社 1960年 000001015900 / 角川文庫 1964年 000001053980 / 新潮文庫 1973年 000001294828
  • 『片隅の迷路』毎日新聞社 1962年 000001029759 / 角川小説新書 1963年 000001044014 / 角川文庫 1972年 000001293032 / 創元推理文庫 2009年4月 ISBN 978-4-488-48601-3
  • 『見た・揺れた・笑われた』筑摩書房 1964年 000001050585 / 角川文庫 1974年 000001297727
  • 『輝ける闇』新潮社 1968年 000001107433 / 新潮文庫 1982年10月 ISBN 4-10-112809-X
  • 『青い月曜日』文藝春秋 1969年 000001247131 / 文春文庫 1974年 000001297183 / 集英社文庫 2018年11月 ISBN 978-4-08-745808-4
  • 『七つの短い小説』新潮社 1969年 000001259422
  • 『岸辺の祭り』角川文庫 1971年 000001291733
  • 『夏の闇』新潮社 1972年 000001266390 / 新潮文庫 1983年5月 ISBN 4-10-112810-3
  • 『新しい天体』潮出版社 1974年 000001258918 / 新潮文庫 1976年 000001301814 / 光文社文庫 2006年11月 ISBN 4-334-74160-6 / ちくま文庫 2024年5月 ISBN 978-4-480-43959-8
  • 『ロマネ・コンティ・一九三五年』文藝春秋 1978年5月 026045132 / 文春文庫 1981年7月 000001512223 ※短篇小説全6篇
    • 収録作品
      • 「玉、砕ける」
      • 「飽満の種子」
      • 「貝塚をつくる」
      • 「黄昏の力」
      • 「渚にて」
      • 「ロマネ・コンティ・一九三五年」
    • 新装版 文春文庫 2009年12月 ISBN 978-4-16-712712-1
  • 『歩く影たち』新潮社 1979年5月 000001411951 / 新潮文庫 1982年5月 ISBN 4-10-112808-1
    • 『流亡記/歩く影たち』集英社文庫 2020年12月 ISBN 978-4-08-744189-5 ※『裸の王様・流亡記 他二篇』(角川文庫、1960年)と『歩く影たち』(新潮文庫、1982年)の合本
  • 『渚から来るもの』(『朝日ジャーナル』1966年1月2日 - 10月30日) 角川書店 1980年2月 000001445700 / 角川文庫 1983年10月 ISBN 4-04-124211-8
  • 『破れた繭 耳の物語1』新潮社 1986年8月 ISBN 4-10-304904-9 / 新潮文庫 1989年12月 ISBN 4-10-112822-7
  • 『夜と陽炎 耳の物語2』新潮社 1986年8月 ISBN 4-10-304905-7 / 新潮文庫 1989年12月 ISBN 4-10-112823-5
    • 『耳の物語』イースト・プレス 文庫ぎんが堂 2010年6月 ISBN 978-4-7816-7023-2 ※「破れた繭」と「夜と陽炎」を収録。
  • 『珠玉』文藝春秋 1990年2月 ISBN 4-16-311560-9 / 文春文庫 1993年1月 ISBN 4-16-712711-3
  • 『花終る闇』新潮社 1990年3月 ISBN 4-10-304907-3 / 新潮文庫 1993年3月 ISBN 4-10-112824-3

随筆・ノンフィクション

図版本

翻訳

対談集

全集・作品集

編著・共編

アンソロジー

  • 『現代文学講座 1』飯塚書店 1958年 000000932747 「私の創作体験」収録
  • 『現代女性講座 3』角川書店 1960年 000000893513 「夫の友だち・妻の友だち」収録
  • 『現代女性講座 4』角川書店 1960年 000000893514 「男だけの世界」収録
  • 『写真中国の顔 文学者の見た新しい国』社会思想研究会出版部 1960年 000001013546 「陸と人と物」収録
  • 『決して忘れはしない』二見書房 1961年 000001017758 「ポーランドの旅から」収録
  • 『サントリーのすべて』フジ・インターナショナル・コンサルタント出版部 1965年 000001063017 「ビール、ビール、ビール! 製品論その2」収録
  • 『現代の教養 1』筑摩書房 1966年 000000892508「道頓堀のマンモス食堂」収録
  • 『岩波講座哲学 13』岩波書店 1968年 000000875279 「手と頭―イスラエル―」収録
  • 『語りつぐ戦後史 3』思想の科学社 1970年 000001210512 「焼け跡から遠くはなれて」収録
  • 『海 自然読本』河出書房新社 1981年6月 000001505931 「太平洋を自分のものにする方法」収録
  • 『日本の名随筆 2 鳥』作品社 1983年4月 ISBN 4-87893-902-8 エッセイ「ウグイスが答えてくれた」収録
  • 『日本の名随筆 22 笑』作品社 1984年8月 ISBN 4-87893-922-2 エッセイ「戦争と平和」収録
  • 『日本の名随筆 33 水』作品社 1985年7月 ISBN 4-87893-933-8 エッセイ「水を飲むのは安全か?」収録

伝記

回想記、書誌ほか

映画化作品

CM

その他

作詞

  • アイ・ジョージ「人間らしくやりたいナ」(作曲・編曲もアイ・ジョージ, 1962年)

ドキュメンタリー

  • NHK特集「井伏鱒二の世界〜“荻窪風土記”から〜」(1983年10月14日、NHK)[29]
  • BSスペシャル「叫ぶ声なく〜開高健が見たベトナム戦争〜」(2026年8月27日、NHK BS)[30]

関連項目

  • 奥只見ダム - 乱獲される奥只見湖のイワナ保護を目的に「奥只見の魚を育てる会」を結成。
  • 薄明光線(レンブラント光線)
  • JLA - 日本最古のルアーフィッシング団体、開高も関係していた。

関連人物

  • 山口瞳 - 『文學界』編集部の山本博章に開高健への紹介状を書いてもらい壽屋に入社し、『洋酒天国』編集などを手がけた[31]。
  • 柳原良平 - イラストレーター。寿屋宣伝部時代は同僚。(アンクルトリスが有名)
  • 日野啓三 - 開高と同時期に読売新聞特派員としてサイゴンに駐在。のちに当時の体験を元にした「向う側」で作家デビュー。
  • 井伏鱒二 - 文壇、趣味である釣りの両面、公私にわたって親睦。
  • 佐治敬三 - サントリー社長(のち会長)。公私にわたって親睦。
  • 小松左京 - SF作家。開高の「日本三文オペラ」と小松の「日本アパッチ族」がともに、大阪砲兵工廠跡地で鉄屑窃盗を行いアパッチ族と称された人々を登場人物にしていたことがきっかけで知合い意気投合して親友に。互いの作品をリスペクトし合っていた。
  • 山崎正和 - 劇作家。サントリー文化財団創立に尽力。
  • 長谷川龍生 - 詩人。開高・牧・道子と、公私にわたって親睦。
  • 富士正晴 - 作家。主宰同人誌「VIKING」に開高は一時期参加。
  • 秋元啓一 - カメラマン。ベトナム戦争の取材に同行、後に釣行をともにし、公私にわたって親睦。
  • 近藤紘一 - ベトナム取材を多く行ったジャーナリスト、のち作家。
  • 菊谷匡祐 - 翻訳家・文筆家。作家生活の初期から公私にわたって親睦。
  • 坂根進 - サン・アド(広告代理店。サントリーのハウスエージェンシー的存在)社長。寿屋宣伝部時代は同僚。
  • 坂本忠雄 - 文芸誌「新潮」編集長。元開高健記念会会長。
  • 島地勝彦 - 「風に訊け」連載当時の週刊プレイボーイ編集長。公私にわたって親睦。
  • C・W・ニコル - 作家・ナチュラリスト、公私にわたる開高の親友の一人。
  • 常見忠 - 元野球選手・釣り師。「奥只見の魚を育てる会」事務局長(のち代表)。公私にわたる開高の親友の一人。
  • 開高明日香 - はとこ(彼女からみて大叔父)[32]。関西で活動しているタレント。

脚注

注釈

  1. ↑ 1972年に文部大臣賞を打診されたが辞退した。(『開高健の本棚』 2021, p. 160)
  2. ↑ 語句集は、他に『危うい世界を生き抜く言葉』青春出版社、『開高健の名言』谷沢永一編・ロングセラーズ、『漂えど沈まず 開高健名言辞典』滝田誠一郎・小学館がある
  3. ↑ 谷沢の回想記には、「七つとしうえの女につかまり、しだいに事態の意味するところに気づき」「見る見る不機嫌となった」という、当時存命だった妻の牧羊子にとってショッキングな記述がある。両者は、開高の生前から仲が悪く、当然だが以後完全に決別した。
  4. ↑ 谷沢永一の回想記にある〈悪妻〉説に異を唱えている。著者は谷沢と同僚だった。

出典

  1. 1 2 “史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月22日閲覧。
  2. ↑ 「開高健は「かいこうけん」と読んでも正しいか。」(福井県立図書) - レファレンス協同データベース
  3. ↑ 新版『開高健の文学論』中公文庫 2010年 (「熱烈な外道美学」)
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 『開高健の世界』 2010, p. 86.
  5. ↑ 『開高健の文学論』中公文庫(「『嘔吐』の周辺」「サルトル『嘔吐』」)
  6. ↑ 谷沢永一『紙つぶて 完本版』PHP文庫 1999年(「古書店に教えられる」)
  7. ↑ 『開高健の文学論』中公文庫(「乱読、また乱読」)
  8. ↑ 『ピカソはほんまに天才か 文学・映画・絵画』(「マスコミ雑感」)中公文庫 1991年
  9. ↑ 『開高健の文学論』中公文庫(「作家の内と外」「ネズミの習性を調べて」「抽象化への方向」「蛇の足として」)
  10. 1 2 『パニック・裸の王様』新潮社 1960年(佐々木基一「解説」)
  11. ↑ 北康利『佐治敬三と開高健 最強のふたり』講談社。谷沢永一の回想でも記述。
  12. 1 2 3 4 5 6 7 『筑摩現代文学大系 86』, pp. 474–481.
  13. ↑ 永山義高 (2021年12月24日). “55年前、開高健との手に汗握る国際電話 『ベトナム戦記』の舞台裏”. withnews. 2025年4月3日閲覧。
  14. ↑ “開高健の戦争取材伝え 「ベトナム戦記」企画展 茅ケ崎”. 神奈川新聞 (2015年7月18日). 2025年3月31日閲覧。
  15. ↑ 『地方選挙の記録 昭和46年4月執行』東京都選挙管理委員会、1971年11月30日、153–155頁。
  16. ↑ “共催展「開高健とトリスな時代~「人間」らしくやりたいナ」”. 茅ヶ崎市美術館. 2025年4月3日閲覧。
  17. ↑ 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)66頁
  18. ↑ 佐々木基一「解説」(『日本三文オペラ』新潮文庫 1971年)
  19. ↑ 佐々木基一「解説」(『ロビンソンの末裔』角川文庫 1964年)
  20. ↑ 中田耕治「解説」-『渚から来るもの』角川文庫 1983年
  21. ↑ 『開高健の文学論』中公文庫(「作品の背景-『輝ける闇』」)
  22. ↑ 秋山駿「解説」-『輝ける闇』新潮文庫 1982年
  23. 1 2 『オーパ!』集英社文庫 1981年(菊谷匡祐「解説」)
  24. ↑ 谷沢永一『紙つぶて 完本版』PHP文庫 1999年(「君子も厨房に入る」
  25. ↑ 『フィッシュ・オン』
  26. ↑ 『オーパ、オーパ!! アラスカ篇カリフォルニア・カナダ篇』集英社文庫 1990年(「海よ、巨大な怪物よ」)
  27. ↑ “巨人と玩具”. KINENOTE. キネマ旬報社. 2026年10月17日閲覧。
  28. ↑ “証人の椅子”. KINENOTE. キネマ旬報社. 2026年10月17日閲覧。
  29. ↑ “井伏鱒二の世界〜“荻窪風土記”から〜”. NHK (2021年7月6日). 2021年7月6日閲覧。
  30. ↑ “BSスペシャル 叫ぶ声なく〜開高健が見たベトナム戦争〜”. NHK. 2026年8月27日. 2026年9月4日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2026年9月4日閲覧.
  31. ↑ 大村彦次郎『文壇挽歌物語』筑摩書房 2011年
  32. ↑ 2007年5月26日付ブログ

参考文献

外部リンク