高橋英吉
| 高橋英吉 たかはし えいきち | |
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| 生年月日 | 1898年1月15日 |
| 没年月日 | 1981年5月14日(83歳没) |
| 出身校 | 日本大学法律学科 |
| 前職 | 弁護士 |
| 所属政党 |
(立憲民政党→) (日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
| 称号 |
従三位 勲一等瑞宝章 |
| 子女 | 高橋英吾 |
| 親族 | 孫・高橋英行(衆議院議員) |
| 選挙区 |
(愛媛県全県区→) 旧愛媛3区 |
| 当選回数 | 9回 |
| 在任期間 |
1946年 - 1955年1月24日 1958年5月22日 - 1963年10月23日 1967年1月29日 - 1972年11月13日 |
| 在任期間 | 1943年 - ? |
| 在任期間 | 1933年 - ? |
八幡浜町会議員 | |
| 在任期間 | 1925年 - ? |
高橋 英吉(たかはし えいきち、1898年1月15日〈明治31年〉[1] - 1981年〈昭和56年〉5月14日[2])は、日本の政治家・弁護士。衆議院議員(9期)。
来歴・人物
1917年、日本大学法律学科に入学する。1920年、弁護士試験に合格する。1922年、愛媛県八幡浜で法律事務所を開く。1925年には八幡浜町会議員に初当選し、1933年には立憲民政党公認で愛媛県会議員に当選した。1942年、第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)に非推薦で立候補するが落選。1943年、八幡浜市会議長を務める。1946年、第22回衆議院議員総選挙に日本自由党公認で立候補し初当選する。
民主自由党、自由党、日本民主党を経て、保守合同後は自由民主党(佐藤派→田中派)に所属。その間1949年、佐瀬昌三の推薦により、衆議院両院法規委員長に当選。1969年には勲一等瑞宝章を受章。1972年の総選挙で落選し、政界から引退。高橋の選挙地盤は長浜町長で後に国土庁長官・自治大臣などを歴任した西田司が引き継いだ。
1975年に八幡浜市名誉市民。
1981年5月14日、死去。83歳没。同月19日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で従三位に叙され、銀杯一組を賜った[3]。
その他
自由党時代、総裁の吉田茂から「もう、君は眼がよくなったのか」と言われたが、高橋は何のことか分からなかった。というのは、同じ自由党に鈴木仙八という片目が見えないため常に眼帯をかけていた議員がいた。眼帯の部分を除けば高橋と鈴木はよく似ていたため吉田は高橋を鈴木と間違えたと思われる。これは単なる人違いというより吉田の党人派軽視のエピソードとして語られる[4]。
元秘書
- 土居一豊(愛媛県議会議員 1954年4月~1967年11月)
- 池田治(元参議院議員)
家族
脚注
- ↑ 『第九十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉p.29。
- ↑ 衆議院・参議院 編『議会制度百年史:衆議院議員名鑑』1990年、377頁。
- ↑ 『官報』第16294号16頁 昭和56年5月22日
- ↑ 戸川猪佐武『小説永田町の争闘』第1部、角川文庫、60頁。
- ↑ 「新聞記者を殴る 高橋代議士」『朝日新聞』昭和26年2月15日
関連項目
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 新設 河本敏夫 永田亮一 |
1948年 1962年 - 1963年 1968年 - 1971年 |
次代 花村四郎 浜野清吾 松沢雄蔵 |
| 先代 早稲田柳右衛門 |
次代 鹿野彦吉 | |