太神楽

太神楽(だいかぐら)は、獅子舞による祓いを基盤とし、曲芸・話芸・囃子などを取り込んで発達した日本の伝統芸能である。伊勢大神楽などは民俗芸能上、獅子神楽の一種に位置づけられる一方、江戸では曲芸や掛け合いなどを発達させ、近世後期から近代にかけて寄席芸能としても定着した[1][2]。
現在も、伊勢大神楽では獅子頭を奉じて各地の家々を巡る回檀と、獅子舞・放下芸を組み合わせた総舞が伝承されている[3]。一方、江戸で発達した太神楽は、現在の寄席では曲芸に重点が置かれ、曲撥・傘の曲・五階茶碗の曲などが演じられている[4][5]。水戸大神楽も、水戸藩領で御用神楽として活動した歴史をもつ[6]。
伊勢大神楽・江戸太神楽・水戸大神楽など、成立や活動形態を異にする伝承がある一方、巡回する大神楽師の芸を地域社会が受容し、祭礼芸能として定着させた「大神楽系民俗芸能」も各地に分布する[7]。獅子舞・曲芸・話芸・鳴り物という諸要素の比重も、系統や時代、演じられる場によって異なる[3][8]。
名称と範囲
歴史的には「大神楽」「太神楽」「代神楽」などの表記が用いられてきた。中村茂子は、「太」の字を「太々神楽」などと同様の美称的な表記とみなし、「代」は代参説が普及した後に用いられるようになったと説明している[9]。
鏡味仙三郎によれば、現在の表記では伊勢・水戸で「大神楽」、江戸で「太神楽」が用いられているが、歴史的には「大」「太」「代」の三表記が混在していたという[10]。
名称の由来については、伊勢参宮を代行する「代参」と結びつけて「代神楽」と説明する説、「大神楽」とする説、「太神宮の御神楽」に由来して「太神楽」となったとする説などがあり、一説に確定していない[11][10]。
現在、寄席で演じられる太神楽には獅子舞・曲芸・話芸・鳴り物が含まれ、曲芸が主要な演目となっている[8]。これに対し、伊勢大神楽では現在も回檀と総舞を中心とする伝承が行われている[3]。
歴史
成立と近世初期の記録
太神楽の成立時期を一点に定めることは難しいが、近世初期には伊勢大神楽の活動が史料上確認できる。黒川道祐の『日次紀事』(1676年)には正月初めに「伊勢大神楽」が来訪することが記され、『人倫訓蒙図彙』(1690年)の「代神楽」の項にも、伊勢から出る芸能であるとともに同類が各地に存在することが記されている[12]。
近世を通じた主要な本拠としては、伊勢国桑名郡太夫村(現在の三重県桑名市太夫)と、同国三重郡東阿倉川村(現在の四日市市阿倉川)が知られていた[12]。
太神楽の獅子舞は、獅子頭を神聖なものとして奉じ、家々を巡って悪魔祓いや家内安全などを祈願する性格をもった[1][11]。一方、獅子舞には曲技的な要素もあり、近世には放下系の曲芸とも結びついた。本田安次は、獅子舞にもともと曲技的な要素がみられることに加え、伊勢に活動していた放下の徒と獅子舞が結びついた可能性を指摘している[13]。
近世の組織と支配
近世の太神楽の担い手は、一つの統一的な組織に属していたわけではない。伊勢大神楽では、太夫村と東阿倉川村の太夫たちは、それぞれの村の神主を支配頭として別個の支配を受けていた[14]。
東阿倉川村から江戸へ下った担い手は、江戸では寺社奉行のもとに置かれた支配頭の配下となり、伊勢方と称された。また、三河の大神楽も一時は江戸の支配頭の配下にあったが、1807年(文化4年)には土御門家の配下へ移った[14]。
太夫村では、増田神社の祭祀にかかわった神主が伊勢大神楽の支配頭を務め、太夫たちはその配下の社職として位置づけられていた[15]。1793年(寛政5年)の史料には、支配頭が山本源太夫を「太神楽神縄頭」として自身の配下にあることを証明した例がみえる[16]。
19世紀初頭から明治維新頃まで、太夫村で正式に名乗られた太夫名はおおむね十二に固定されていた。1816年(文化13年)の「連中取締之事」からは、太夫たちが「仲間」を形成し、「幣頭」「惣代」を中心に内部規律を維持していたことが確認できる[17]。
回檀・檀那場と地方への伝播

伊勢大神楽講社の各組は、年間を通じて西日本各地の家々を巡って厄祓いの獅子舞を演じる。この活動は「回檀」または「お祓い廻り」などと呼ばれ、各組はそれぞれ歴史的に形成された巡回領域である「檀那場」をもつ。原則として毎年ほぼ同じ時期に同じ地域を訪れ、家々を一軒ずつ巡って獅子舞を行い、地域や機会によっては神社などで獅子舞と放下芸をまとめた「総舞」を演じる[3]。
こうした回檀の歴史は近世に遡る。神野知恵が紹介した森本忠太夫家の宝暦10年(1760年)の文書からは、18世紀中頃には同家が小豆島など瀬戸内地域を含む檀那場を巡っていたことが確認できる[18]。
太神楽の巡回は各地の芸能にも影響を与えた。本田安次は、太神楽師が諸国を巡るなかで獅子舞や曲芸を習得する者が現れ、それを地域の氏神の祭礼などに奉納するようになった例を指摘している[19]。
地方の民俗芸能への展開
明治以降、大神楽師から芸を習得した地域住民が、その芸を氏神祭の奉納芸や余興芸として祭礼に取り入れる例が各地で生じた。中村茂子によれば、各藩の庇護を失った地方の大神楽組や、伊勢・東京などから定期的に巡回する大神楽組を迎えた地域では、住民が獅子舞や余興芸を習得し、それを既存の民俗芸能と融合させた。その結果、各地の風土に応じた獅子舞や余興芸が形成され、中村はこれらを「大神楽系民俗芸能」として整理している[7]。
こうした大神楽系の民俗芸能は、青森から九州まで広い地域の資料が今日まで残されており、獅子舞のほか、神楽歌・踊り・万歳・鳥刺し、歌舞伎・浄瑠璃などから取り入れた余興芸もみられる[20]。
江戸の都市芸能化と寄席進出

伊勢・尾張方面の太神楽師は近世に江戸へ継続的に来訪し、その一部は江戸に定着した。江戸では祓いの獅子舞を行う一方、都市の観客に向けて曲芸や滑稽な芸を発達させた[19]。
享保17年(1732年)刊の『むかしむかし物語』には、それ以前の太神楽と当時の太神楽を比較する批判的な記述がみえる。三隅治雄はこの記述から、18世紀前半には江戸で太神楽の神事的性格と娯楽的性格の変化が意識されていたことを指摘している[21]。
文化7年(1810年)頃の『飛鳥川』には「大神楽の鞠の曲」などが見物となっていることが記され、文政13年(1830年)の『嬉遊笑覧』にも曲鞠・皿廻しなどが記録されている。江戸後期には、祓いの獅子舞と並んで曲芸が重要な見せ場となっていた[22]。
弘化3年(1846年)に初演された《神楽諷雲井曲毬》(通称《どんつく》)には、当時の太神楽を題材として、曲芸と滑稽な掛け合いを組み合わせた場面が取り入れられている[23][24]。
幕末に太神楽が寄席へ進出すると、獅子舞や曲芸に加えて掛け合い噺や茶番も演じられるようになったとされる[25]。こうして曲芸や掛け合いを中心とする色物としての太神楽が形成された[23]。
近代の舞台芸能化
明治時代になると、太神楽は門付や町内回りを続ける一方、寄席・劇場・宴会などにも活動の場を広げた。東京では丸一・海老一などが知られ、獅子舞とともに曲芸を中心とする舞台芸としての性格が強まった[26]。
曲芸では個々の演者の技芸も知られるようになり、春本助治郎は太神楽から発達した一つ鞠の名人として知られた[27]。
近代の太神楽師には海外へ活動の場を広げる者も現れた。粟田勝之進は1872年(明治5年)9月、柳川長七郎らとともに海外へ渡り、オーストラリアやアメリカなどで曲芸を演じた。ニューヨークでは撥と鞠の芸が好評を博し、 Prince Awata (プリンス・アワタ)と呼ばれた。1886年には時のイギリス皇太子・アルバート・エドワードの前でも演技している。倉田喜弘は、粟田の活動を太神楽が海外で話題になった早い事例として位置づけている[28]。
十代目鏡味仙太郎も明治期に三度の海外巡業を経験した。1883年(明治16年)以降、アジア・オーストラリア・ヨーロッパなどで演じ、1897年には自費で渡英してパリやベルリンなどを巡り、1901年に帰国した。仙太郎は海外で太神楽が通用することに自信を深め、帰国後には火焔撥(かえんばち)などの芸を考案したほか、観客を楽しませる演出を「愛嬌のある芸」として門弟に伝え継いだ。倉田は、こうした活動が太神楽の近代化に大きな役割を果たしたとしている[29]。
寄席への定着に伴い、演目の構成も変化した。昭和初期頃までは掛け合い噺や茶番も演じられていたが、その後は上演機会が減少し、現在の寄席太神楽では曲芸に重点が置かれている[4]。
戦後の米軍慰問と芸態の変化

第二次世界大戦後の占領期には、太神楽師が米軍向けの慰問ショーに出演した。青木深によれば、当時の米軍慰問ショーの曲芸分野では、曲芸師の主要な供給源が東京と水戸の太神楽であった[30]。
1951年に柳家五郎へ交付された芸能審査証では、演目が「Juggler」、個人格付けが「SA」(スペシャル・エー)と記録されている[31]。
戦前から活動していた鏡味小鉄も、戦後早くから米軍慰問に出演した。1946年3月には林家正楽らとともに慰問公演に参加し、翌1947年の『アサヒグラフ』には「土びんの刃渡り」を演じる姿が紹介された[32]。海老一染之助・染太郎や翁家和楽らも米軍慰問に出演した[33]。
従来の太神楽師には、曲芸だけでなく獅子舞・芝居・口上・囃子など複数の芸を演じ、長時間の場をもたせる能力が求められていた。これに対し米軍慰問では、一舞台がおよそ15分程度となる場合もあり、多様な芸を総合的に見せるより、視覚的に理解しやすい一つの曲芸を短時間で見せる形式が適していた[34]。
太神楽の曲芸化そのものは占領期以前から進んでいたが、青木は、米軍慰問の需要が曲芸への専門化をさらに促したことを指摘している。また中村茂子の調査を引き、茶番を習得せず、口上や囃子を十分に身につけない太神楽師も現れたとしている[35]。
芸の構成と演目

現在の寄席系太神楽では、その芸を「舞」「曲芸」「話芸」「鳴り物」の四つに大別する整理が行われている[8]。現在は曲芸が中心となっているが、獅子舞、掛け合い、祭囃子・下座音楽なども太神楽を構成する芸として伝えられている[8]。
舞

舞には獅子舞や恵比寿大黒舞などがある。寄席系太神楽の獅子舞では獅子頭を御神体と仰ぎ、悪魔を祓う意味をもつとされる。獅子舞は基本的に2人で演じられ、前方の舞手が獅子頭を操り、後方の舞手が後肢などを担う[4]。三隅治雄が1960年代に記録した丸一の獅子舞でも2人の舞手が獅子に入り、笛・大太鼓・締太鼓・鉦などの囃子方が伴っていた[36]。恵比寿大黒舞には豊漁や商売繁盛を願う意味が込められている[37]。
伊勢大神楽では、神来舞・鈴の舞・四方の舞・扇の舞・吉野舞など多数の舞が伝えられてきた[19]。
曲芸

曲芸には、道具を空中へ投げて受ける「投げ物」と、道具を身体上などに立てて均衡を保つ「立て物」がある。撥・鞠・輪などを操る投げ物、五階茶碗や傘などの立て物が代表的である[38]。
投げ物の基本となるのが曲撥で、鞠とともに基礎的な修業の対象とされる。「撥5年、鞠5年」という言葉も伝わり、一つ鞠は太神楽曲芸のなかでも高度な芸とされている[39]。
曲芸には祝福芸としての意味づけを伴うものもある。傘の曲では、鞠を「物事が丸く収まる」、金輪を「金回りがよくなる」、桝を「ますます繁盛する」ものとして用いるなど、道具に縁起が重ねられている[40]。また、撥の先端の赤色を御神火に見立てるなど、神事芸能としての由緒を伝える説明もある[37]。
伊勢大神楽では曲芸を「放下芸」とも呼び、綾採の曲・水の曲・手毬の曲・傘の曲・献燈の曲・魁曲などが伝えられてきた[19]。
話芸と滑稽掛け合い
複数人で太神楽を演じる場合には、主たる芸を行う「太夫」と、演技の説明や口上を担う「後見」とに役割が分かれることがある。後見の口上は単なる解説ではなく、緊張する曲芸の合間に客席を和ませ、演技の見どころを示す役割を担う[41]。
太神楽の滑稽掛け合いは、独立した寸劇だけでなく、曲芸の途中に口上・掛け合い・芝居を組み込む形式も含んだ。中島典夫による整理では、《曲太鼓》《細女の舞》《鹿島の舞》などの芸、古い型を残す《七福神宝入船》《恵比須大黒》、曲芸と掛け合いを組み合わせる《塩原多助》《水の曲》などが区別されている[42]。
掛け合いには、歌舞伎・落語・長唄などから題材を取り入れたものもあり、《宝蔵破り》《祐兼参詣》《忠臣蔵》《二人羽織》《雀踊》などが伝えられた[43]。
昭和初期頃までは掛け合い噺や茶番も寄席で演じられていたが、戦後は上演機会が減少した[4]。
鳴り物
鳴り物には祭囃子や下座音楽があり、笛・太鼓・鉦などを演奏する[8]。獅子舞や曲芸などの進行に伴って演奏されるだけでなく、祭囃子そのものも太神楽を構成する芸の一つとして伝承されている。日本芸術文化振興会は、祭囃子を神事に欠かせないものとして位置づけている[37]。
伊勢大神楽でも囃子は舞・放下芸とともに伝承されてきた[19]。
太神楽十三番
「太神楽十三番」は、現在、寄席系太神楽の基本的な演目群を示す呼称として用いられている。三隅治雄は1969年、丸一に伝承される曲目について「俗に『太神楽十三番』とよばれる」と記している[44]。
ただし、「十三番」としてまとめられた個々の演目の歴史と、「太神楽十三番」という名称・整理法の成立時期は同一視できない。柳貴家勝蔵は、古い大神楽師たちは「太神楽十三番」という固定的なものはないと語っていたとし、生前の十二代目鏡味小仙に尋ねたところ、小仙は昔の江戸太神楽について記した古文書に13の演目が書かれていたことからこの呼称を用いた旨を説明した、と記録している。また柳貴家によれば、十一代目鏡味小仙はこの呼称を用いていなかったという[45]。
現在、日本芸術文化振興会では次の13演目を太神楽十三番として紹介している[5]。
| 区分 | 演目 | 内容 |
|---|---|---|
| 曲芸 | 曲撥 | 複数の撥をさまざまな形に投げ分ける。 |
| 曲芸 | 曲鞠 | 鞠を額や手の甲などで操る。 |
| 曲芸 | 傘の曲 | 開いた和傘の上で茶碗・桝・鞠などを回す。 |
| 曲芸 | 長撥の曲 | 普通の撥と長い撥を取り分ける。 |
| 曲芸 | 羽子板相生の曲 | 二枚の羽子板と鞠を取り分ける。 |
| 曲芸 | 花籠鞠の曲 | 籠を操り、鞠を籠や鞠受けへ入れる。 |
| 曲芸 | 相生茶碗の曲 | 二つの茶碗と鞠を取り分ける。 |
| 曲芸 | 五階茶碗の曲 | 長竿などの上に茶碗を積み、均衡を保つ。 |
| 曲芸 | 水雲井の曲 | 長竿の先の茶碗から水を散らし、最後に紙吹雪を出す。 |
| 曲芸 | 末広一万燈の立物 | 大きな飾り物を組み立てて立てる。 |
| 舞 | 天鈿女の舞 | お多福の面を着け、滑稽な所作を演じる。 |
| 舞 | 鹿島の舞 | 道化役が親方を祈祷する。 |
| 舞 | 悪魔除け獅子舞 | 悪魔祓いの獅子舞。現在の「寿獅子舞」。 |
大道・町内回りから寄席へ主要な演技の場が移ったことなどにより、現在では上演機会の少ない演目もある[5]。
一方、本田安次が記録した伊勢大神楽の舞・放下芸には、神来舞・鈴の舞・綾採の曲・手毬の曲・献燈の曲など、現在の十三番とは異なる演目名が挙げられている[19]。
その他の演目
太神楽の演目は太神楽十三番に限られない。一つ毬・水の曲・手毬の曲・綾撥の曲・花籠毬の曲・傘の曲・帰り羽子板の曲などの曲芸とともに、各種の滑稽掛け合い・掛け合い噺が今日まで伝承されている[46]。
三隅治雄は1969年、丸一に伝承されていた芸として十三番のほか、《初笑い宝入船》《七福神宝入船》《二人羽織》などを記録している[44]。《二人羽織》のように、のちに保存・復元の対象となった演目もある[47]。
現在の太神楽曲芸協会でも、一つ鞠・土瓶の曲・鍬の曲・皿の曲・出刃皿の曲・モダン曲芸などが演じられている[38]。
主な系統
中村茂子は『大衆芸能資料集成』において大神楽を、専業者の芸と全国各地の祭礼に奉納される大神楽系獅子舞の芸とに大きく分類している[43]。
以下では、現在も伝承が続く伊勢大神楽・江戸太神楽・水戸大神楽について、それぞれの歴史的特徴を概説する。
伊勢大神楽

伊勢大神楽は、現在の三重県桑名市太夫を本拠の一つとして発達した大神楽である。近世には桑名郡太夫村と三重郡東阿倉川村が主要な本拠となり、それぞれの太夫が異なる支配関係のもとで活動した[48]。
現在も獅子頭を奉じて各地を巡る回檀を行い、家々で祓いの獅子舞を演じる。また総舞では獅子舞と放下芸を組み合わせて演じる[3]。
1981年(昭和56年)1月21日に「伊勢太神楽」の名称で国の重要無形民俗文化財に指定された[49]。2026年(令和8年)3月24日、指定名称は「桑名の伊勢大神楽」に変更された[50]。
江戸太神楽
伊勢・尾張方面の大神楽師は近世に江戸へ来訪し、一部は江戸に定着した[19]。東阿倉川村から江戸へ下った担い手は、江戸の支配頭の配下で伊勢方と呼ばれた[14]。
後世の太神楽関係資料では、江戸太神楽について「伊勢派」と「熱田派(尾張派)」という区分が用いられた。中村茂子は、この区分を芸態の違いではなく、大神楽成立期の御師の出身地に由来するものとして説明している[51]。また、伝承資料には熱田派の白丸一・赤丸一、伊勢派の鶴ノ丸などの名称が確認できる[52]。
江戸では正月などの獅子舞による祓いと並んで曲芸や口上が発達した。幕末に寄席へ進出すると、掛け合い噺や茶番も演じられるようになったとされる[25]。近代には丸一・海老一などが知られるようになった[53][54]。
現在の寄席太神楽では、曲撥・傘の曲・五階茶碗の曲などの曲芸が主要な演目となっている[4]。
水戸大神楽
水戸大神楽は、水戸藩領を活動基盤として発達した大神楽である。茨城県教育委員会によれば、1752年(宝暦2年)には吉田台町の栗林主計が水戸東照宮祭礼に神楽獅子として供奉し、1785年(天明5年)には足黒村の宮内求馬が大神楽の株を譲り受けて御用神楽司となった[6]。
一方、中村茂子は柳貴家正楽家に伝わる由緒として、同家の先祖が1785年に巡業中に水戸徳川家へ召され、水戸城下に神楽屋敷を与えられ、当初は武家屋敷を、のちには水戸領内の家々を巡って御祓いを行ったと記している[7]。
水戸・茨城地域では柳貴家だけでなく複数の屋号・社中が活動し、1943年の大日本太神楽曲芸協会会員名簿にも、茨城支部所属の複数の大神楽師が記録されている[55]。
現在は柳貴家正楽社中と柳貴家勝蔵社中が伝承している[6]。柳貴家正楽社中は1991年、柳貴家勝蔵社中は2008年に、それぞれ茨城県の無形民俗文化財に指定された[6]。
第二次世界大戦後には、水戸の太神楽師も東京の太神楽師とともに米軍慰問ショーへ出演した[30]。二代目柳貴家正楽も全国各地の米軍基地で演じたが、水戸を活動の基盤とし続けた[56]。
継承と養成
近現代の一門と職能組織
近代以降の東京の太神楽では丸一・海老一などが知られた[26]。丸一では鏡味家の演者が中心となり、三隅治雄が1960年代に調査した時点では、鏡味小仙を頭梁として獅子舞・囃子・曲芸を演じていた[57]。
中村茂子によれば、昭和初期までの江戸大神楽には、赤丸一・白丸一・翁家・湊家・宝家・大丸・丸井・海老一・寿家・豊来家など複数の屋号の親方が活動していた。これらは伊勢派・熱田派を名乗っていたが、芸態上の明確な違いは乏しかったという[58]。
1943年(昭和18年)の大日本太神楽曲芸協会会員名簿からも、多数の屋号・演者が同じ職能団体に所属していたことが確認できる[55]。
芸の継承
伊勢大神楽では、近世以来の太夫家・社中を基盤として舞・放下芸・囃子などが伝承されてきた[15]。
東京の太神楽では、曲芸・獅子舞などを実地の仕事と並行して習得する徒弟的な修業が行われていた。中村茂子が三代目宝家楽翁から聞き取った明治末期の修業では、早朝に曲芸を稽古し、昼夜には町内回りや寄席へ出演し、その後に獅子舞を稽古したという。撥・立て物・鞠などを段階的に習得したのち、滑稽掛け合い、鳴り物なども身につけて一人前とされた[59]。
従来の太神楽師には曲芸だけでなく、獅子舞・口上・掛け合い・囃子など多様な芸を身につける者がいたが、戦後の興行環境の変化に伴って曲芸への専門化が進んだ[35]。
太神楽曲芸協会
協会の発足時期については資料間に差がある。太神楽曲芸協会の公式サイトは1937年(昭和12年)に大日本太神楽曲芸協会が発足したとしている[60]。
一方、中村茂子は、1940年(昭和15年)に、無許可で町を回る獅子舞と職業的な大神楽師を区別するため警視庁の鑑札制度が導入されたことを契機として大日本太神楽曲芸協会が設立されたと記している。1943年8月に発行された会員名簿には「警視庁公認芸者団体 大日本太神楽曲芸協会」と記され、東京の本部のほか茨城支部・東北支部が置かれ、合計228人が名を連ねたとされる[61][55]。
中村によれば、終戦時に会員の連絡が途絶えたのち、三代目宝家楽翁が旧会員に呼びかけ、1947年(昭和22年)に「太神楽曲芸協会」の名称で新たな協会を設立した。楽翁は1962年まで会長を務め、その後は十二代目鏡味小仙が1974年まで会長を務めた[62]。
現在の太神楽曲芸協会は、太神楽の保存・伝承と後継者育成を目的とし、鏡味・翁家・丸一・柳貴家・豊来家など複数の屋号の演者が所属している[63]。
国立劇場の太神楽研修
日本芸術文化振興会は1995年(平成7年)、大衆芸能の伝承者養成事業の一環として太神楽研修を開始した[64]。
研修期間は3年間で、太神楽曲芸の基本となる立て物・投げ物を中心に、日本舞踊、長唄、鳴物、囃子など、寄席で活動するために必要な技芸を学ぶ[65]。研修は寄席の太神楽演技者となるための基礎教育を目的としている[65]。
修了者は太神楽曲芸協会に所属し、協会の演者による指導を受けながら寄席などで活動する[65]。例えば鏡味正二郎は第1期研修修了後、鏡味繁二郎へ入門して前座修業を行った[66]。
演目の復元と後継者育成
戦後、曲芸への専門化が進む一方、上演機会の減った掛け合い・茶番・獅子舞などを保存・復元しようとする動きも生じた。中村茂子によれば、十二代目鏡味小仙は1962年の会長就任後、長く演じられなくなっていた滑稽掛け合いの復活に力を入れ、1971年12月の国立劇場公演では《源三位頼政》を演じた。さらに1976年には東宝演芸劇場で、戦後初めてとされる《祐兼参詣》が上演された[67]。
1970年代後半には、太神楽関係者によって滑稽掛け合いなどの稽古を兼ねた研究会も行われ、演者自身による旧演目の記録・復元が試みられた[68]。
こうした演者側の保存・復元活動に加え、1995年には日本芸術文化振興会による太神楽研修が開始され、曲芸だけでなく日本舞踊・長唄・鳴物・囃子なども研修対象となった[65]。
伊勢大神楽でも、一度継承が途絶えた演目を再び伝える試みが行われている。山本勘太夫社中では、昭和50年代以降に継承者がいなくなっていた放下芸「手毬の曲」を、2008年から修業した演者が習得し、2010年に復活させた[69]。
また、伊勢大神楽講社に属する一部の社中では一般からの入門者も受け入れている。同講社は2020年代以降にも、大神楽師見習いを一般募集している[70]。
脚注
出典
- 1 2 本田 1969, pp. 110–114.
- ↑ 三隅 1969, pp. 282–287.
- 1 2 3 4 5 神野 2018, pp. 68–70.
- 1 2 3 4 5 “太神楽:早わかり”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年9月30日閲覧。
- 1 2 3 “主な演目と種類:太神楽十三番とは”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年9月30日閲覧。
- 1 2 3 4 “水戸大神楽”. 茨城県教育委員会. 2026年9月30日閲覧。
- 1 2 3 中村 1981, p. 288.
- 1 2 3 4 5 “芸の特徴:舞・曲芸・話芸・鳴り物”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年9月30日閲覧。
- ↑ 中村 1981, p. 285.
- 1 2 鏡味 2019, p. 28.
- 1 2 三隅 1969, pp. 282–284.
- 1 2 黛 2022, pp. 1–2.
- ↑ 本田 1969, pp. 112–114.
- 1 2 3 黛 2022, pp. 2–3.
- 1 2 黛 2022, pp. 3–5.
- ↑ 黛 2022, pp. 3–4.
- ↑ 黛 2022, pp. 4–5.
- ↑ 神野 2018, p. 70.
- 1 2 3 4 5 6 7 本田 1969, pp. 113–114.
- ↑ 三隅 & 中村 1981, pp. 81–228.
- ↑ 三隅 1969, p. 284.
- ↑ 三隅 1969, pp. 284–285.
- 1 2 三隅 1969, pp. 285–287.
- ↑ 尾崎 1971, pp. 218–219.
- 1 2 “太神楽の歴史:町角から寄席の舞台へ”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年9月16日閲覧。
- 1 2 尾崎 1971, pp. 219–220.
- ↑ 尾崎 1971, p. 220.
- ↑ 倉田 2012, p. 202.
- ↑ 倉田 2012, p. 203.
- 1 2 青木 2022, pp. 150–151.
- ↑ 柳貴家 2007, p. 50.
- ↑ 青木 2022, pp. 151–152.
- ↑ 青木 2022, pp. 158–161.
- ↑ 青木 2022, pp. 164–165.
- 1 2 青木 2022, pp. 164–166.
- ↑ 三隅 1969, pp. 280–281.
- 1 2 3 “主な演目と種類:由緒や縁起が宿る演目”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年9月16日閲覧。
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